第4回 江戸のノート術~人々はいかにして写したか?~|【連載】江戸の勉強術(古畑侑亮)
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江戸のノート術
~人々はいかにして写したか?~
■手書きへの憧れ
皆さんは今日、紙に文字を書きましたか?
本連載もPCのキーボードを叩いて原稿を執筆していますし、大学での講義でもほとんどPowerPointを使い、チョークを手にとることはありません。毎日の生活の中でのTo DoリストやメモもiPhoneのアプリなどで済ませてしまっています。ペンを手に取るのは、宅急便のサインやお役所の書類を書くときぐらい。私が子どもだった頃には、とても考えられなかった生活です。
でも、インターネットで「ノート術」と検索してみてください。たくさんのサイトがヒットしてくるはずです。ノート術や手帳術をうたう本は、毎年のように刊行され、書店でビジネス書あるいは教育参考書のコーナーの一角を占めています。それらの中には、デジタル機器を上手く取り入れつつも、紙に手書きすることの有効性を主張するものが少なくありません。
どうやら現代は、紙に文字を書くということが当たり前でなくなりつつも、手書きへの憧れを捨てきれない時代のようです。
■筆まめな江戸人
翻って江戸時代は、紙に文字を書くことが当たり前になりつつあった時代。文房具が徐々に普及し、紙も戦国の世よりは入手しやすくなったことも手伝ってか、筆まめな人物が多かったようです。第2回「江戸のサロン術」、第3回「江戸の読書術」で取り上げた国学者の小山田与清も『松屋筆記』120巻(国書刊行会より明治41年に刊行/https://dl.ndl.go.jp/pid/1087778)をはじめ膨大な量のノートを残しています。それらは、読書の記録であり、古文書を写したものであり、サロンの場での議論を書き留めたものでした。彼自身の思い付きや主張を書き付けたものでもあり、アウトプットの際にはデータベースとして活用されています。そして、与清がこのようなノートを残しておいてくれたおかげで、私は彼の読書や思索の過程を追体験し、卒業論文を書くことができたわけです。
■江戸の「随筆」とは?
与清ら江戸の文人や学者が残したノートや著作の一群は、「随筆」と呼ばれることもあります。ただし、一口に随筆といっても珍しい話を集めた奇談集から研究論文のようなものまで千差万別です。日本文学におけるジャンル概念の歴史をたどった鈴木貞美さんによれば、そもそも江戸時代には随筆というジャンル概念は成立していませんでした。
一方で、江戸後期を「随筆の時代」と呼ぶ揖斐高さんは、次のような定義を示しています。
ここでいう随筆は、現代のエッセイとは異なり、さまざまな事柄や寓目した書物や記録の中から、関心の赴くままに記事を拾い出して書き留め、気が向けばそれに考証や感想を付け加えたような著作を総括的に指し示す言葉(揖斐高『江戸の文人サロン 知識人と芸術家たち』吉川弘文館、2009年、130頁)
ここから、エッセイのように主観的な感情を綴るというよりは、見聞きした出来事や知識を客観的に書き留めたものという性質を抽出できるでしょうか。
書誌学者の森銑三さんは、随筆の種類を解説する中で「筆者自身は備忘のための抄録に過ぎなかつたのが、後に随筆として扱はれるやうに」なったものとして、「随筆雑抄」を挙げています。これも随筆の一側面を表しているように思います。随筆はもともと個々人の備忘録のようなものであり、出来がよければ門人や書肆の目にとまって出版されることもある。コツコツとノートを付けていた読者が、思いがけず作者となることもあり得る、そんな相互互換性があったのではないでしょうか。この点、SNSやブログ、noteなどによって誰でも発信できるようになった現代とむしろ似ているところがあるかもしれません。
■文献を「孫引き」する医師
随筆の有用性を改めて教えてくれたのが、武蔵国比企郡番匠村(ばんじょうむら/現埼玉県ときがわ町)の小室元長(1822―1885)です。彼は、幕末から明治にかけて天然痘のワクチン接種(種痘)の普及に尽力するなど、地域医療の近代化に貢献した蘭方医です。
大学院の1年目が終わった春休み、修士論文の素材を探して埼玉県立文書館を訪れた私は、職員の方が出納してくれた元長の著作を見て面くらいました...山間の村で医者をやっている人物が、多種多様な文献を渉猟し、江戸の文人顔負けの立派な随筆を書いているのかと...しかし出典を調べてみると、ほとんどの文献が随筆からの「孫引き」であり、考察も含めてオリジナリティはほとんどなかったのです。その事実に気付いた私は、失望を禁じ得ませんでした。でも、よくよく考えてみると「孫引き」というのは、現代の研究者の感覚に過ぎません。インターネットやAmazonもなかった当時、元長は、江戸の文人たちが残した随筆を書き写すことで効率よく情報を集めており、むしろ熱心に勉強をしていた証なのではないか。そのようなノートとして、元長の著作を捉え直してみることにしたのです。
■鉄砲玉にご注意を
元長の数あるノートを探るなかで、医学学習の場においても随筆が活用されていたことが明らかとなりました。例として『診餘襍話(しんよざつわ)』(小室家文書3861)というノートを紐解いていきたいと思います。タイトルは、診察の合間に集めた話というほどの意味でしょうか。
❶埼玉県立文書館所蔵『診餘襍話』(小室家文書3861)初丁
薄い表紙をめくると、黒色の罫紙に墨で書かれた本文が始まる。「鷺玉立」は、元長の名と字である。
冒頭に「医術部」と冠された本文は、筑後国(現福岡県南部地域)の山中でひとりの猟師が鉄砲玉に当たった話から始まります【1】。(以下、【 】内の数字は項目の通し番号を示します)30日後には体内に留まっていた玉が取れ、手や肩の動きには支障がなかったが、数ヶ月経つと後ろ髪がことごとく抜け、眼球の色が変わってハンセン病のような症状に見舞われた。相良千里がそう語ったと「安藤鴬谷ノ茶話ナリ」。
鶯谷(おうこく)とは、安藤文沢(1807―1872)の雅号です。入間郡阿諏訪村(現埼玉県毛呂山町)の生まれで、鳥羽藩(現三重県鳥羽市)の藩医。小室家の門人であり、元長の先生でもありました。
■雷にも毒がある
これに続く【2】では、落雷に関する目撃談が『北窓瑣談(ほくそうさだん)』から筆写されています。落雷を辛くも生き延びるも、その後「雷毒」によって死んでしまった人々の症例です。著者の橘南谿(たちばな・なんけい/1753―1805)は、京都で古医方を勉強して開業した伊勢出身のお医者さん。医学修業のため諸国を歴遊し、ロングセラーとなった旅行記『東西遊記』を残した旅好きの人物でもありました。
『北窓瑣談』は、南谿が学芸・人事・地理・鳥獣など世事万般にわたって見聞したところを記した随筆です。埼玉県立文書館には、文政12年(1829)に刊行された8巻本が残されており(小室家文書2093・2094)、蔵書印から元長が同書を所有していたことがわかります。
『北窓瑣談』と対照したところ、【2】は2巻の80番目の項目の内容を要約したものとなっていました。さらに、元長が「安藤鴬谷ノ茶話ナリ」と記していた【1】も同巻の79項とほぼ一致することがわかりました。『北窓瑣談』を読んだ安藤文沢が、それを写したノートを元長に見せたものか、あるいはその内容を話したのでしょうか。いずれにせよ、師匠である文沢も『北窓瑣談』を読んでいたと考えられます。
■どんな情報もまずはメモるべし
【3】は、「矢疵ツラヌキ透リタルニハ」として矢が突き刺さった場合の治療法が記されますが、これも『北窓瑣談』2巻の81項目を筆写したものです。番匠村の周辺では、狩猟も行われており、誤って鉄砲玉や矢に射られてしまう村人もいたのではないでしょうか。末尾に元長は、「右数条是非ハ人々味テ後取捨スベシ、療法ノ如キ妄ニ看過スル事勿レ、只心得ナリ」と記しています。情報の是非は吟味してから取捨選択すべきであり、治療法についての記述は見過ごすべきでないというのです。
『北窓瑣談』は、ノートの後半でも引用されます。医療に関わる内容に限らず、【67】一昼夜の呼吸の回数、【70】煙草や唐辛子の伝来時期、【72】枇杷の花と豊作など幅広い分野の知識が引用されています。
元長は、些細な情報でも気になったものはノートに書き写し、その上で取捨選択を行っていたのです。
■かまいたちの治療法
弘化元年(1844)12月22日、比企郡竹本村(現埼玉県鳩山町)に住む独山という佐渡出身の医師が小室家を訪ねてきました。そこで元長は、「かまいたち」に襲われたときの治療法【68】について独山に逐一尋ねています。かまいたちとは、つむじ風に乗って現われて人を切りつける妖怪とされ、元長は『北窓瑣談』から佐渡における事例を抜書していました。
❷鳥山石燕『画図百鬼夜行』前編陰より「窮奇」(国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2553975/1/15
独山に聞いてみると、随筆に書かれた通りで、その傷は全く出血がなく、夏は両3日立つと硝煙の臭いを発するという。また、紫蘇の葉を細く刻み、傷の上に揉み込むという別の治療法を伝授してくれた。さらに、『北窓瑣談』で「佐渡ノ外科・本多勇伯語リ侍リシ」と書かれる「本多氏」は、雑太郡(さわたぐん)相川紋兵衛坂(現佐渡市相川)の人で、現当主の千はその3世の孫だという情報を教えてくれた。
このように元長は、随筆に書かれた症例や治療法を鵜吞みにするのではなく、聞き取りによって裏をとっていたのです。
■本を写すのも立派な勉強
独山の来訪当時23歳だった元長は、医学塾の門弟たちと医学修行に励んでいました。その中では、医学書を書き写す姿が目につきます。たとえば前年の天保14年(1843)5月には、弟の師岡鼎(もろおか・かなえ)らと共に新宮凉庭(しんぐう・りょうてい)訳『人体分離則』を筆写しています。『診餘襍話』もそのような医学修行の中で作成されたノートであったと推測されます。
江戸時代の医学修行について研究された海原亮さんは、各藩からの留学生たちが京都・大坂で接した最新の学問・情報を地元へと持ち帰るべく、写本に注力したことを明らかにしています。写本やノートの作成は、医学学習の一環として重要な作業だったのです。
❸埼玉県立文書館所蔵『診餘襍話』(小室家文書3861)後半
安藤英斎が作成した『季煤襍記』なるノートからも治療法を抜書していたことがわかる。さらに、比企郡鎌形村(現埼玉県嵐山町)の幸手(さって)不動院配下の桜井坊の僧侶が教えてくれたナメクジを使った痔の薬の製法についてもメモしている。医学の知識は、医師だけが独占しているものではなかったのである。
■情報を捨てる時代へ
元長は、医学に関わりそうな情報は一見つまらないものでも見過ごすことなくできる限り広く集めた上でその内容を吟味していました。いわば、日々入ってくる雑多な情報をノートという網によって掬い上げた上で篩(ふるい)にかけていたのです。
翻って現代では、"書くマインドフルネス"として「ジャーナリング」が注目されています。頭に浮かんだことをありのままにノートや手帳に書き出すことで自己認識を高め、心身の健康を取り戻すことができると言われているのです。実践のためのレッスンやキットも販売され、需要の大きさを感じます。日々、画面を通して大量の情報にさらされ続けている私たちは、正常な認識や生活を維持するために定期的に情報を吐き出す必要があるのかもしれません。令和の時代は情報を捨てる時代と言えるでしょう。
■記録するということ、書き抜くということ
しかし一方で、情報の網の目としてのノートの役割も失われたわけではありません。ジャーナリングにおいても記録としての重要性が訴えられていますし、累計50万部を突破した奥野宣之さんの『人生は1冊のノートにまとめなさい』では、ライフログという日々の生活を記録していく方法が提起されています。日常生活の中で見聞きした情報を書き付けていくスタイルは、江戸の随筆のようでもあります。さらに、本から書き抜いた文章に対してコメントを挟んでいくことで情報を吟味していく「ねぎま式読書ノート」は、まさに元長のノート術と同じシステムではないでしょうか。
❹筆者のノートの一頁
元長のノートを研究し始めてから、私自身も紙のノートに読書記録をつけるようになった。本を読みながら重要だと思った語句や文章をページ数とともに抜書していく。筆ならぬボールペンで文章を写していくと、頭の中が整理され、疑問点や新たな発想がわいてくる。
海外から次々と入ってくる新しいツールに飛びつくのもいいですが、私たちの目の前には江戸の人々が積み上げてきた多くのノートが残されているのです。それらを紐解けば、持てるネットワークや情報を最大限に生かすことによって転換の時代を生き抜こうとした人々の姿が見えてきます。きっと彼ら/彼女らは、書き抜くことによって何を得ることができるのか、私たちに教えてくれるはずです。その無数の思索や試みの中には、思いがけない発見もあるかもしれません。
ところで、江戸の人々が書き写していたのは、同時代の文人の随筆ばかりではありませんでした。『枕草子』『徒然草』といった古典も活用されていたのです。次回は、江戸の古典術について考えてみたいと思います!
■参考文献
細野健太郎「近世後期の地域医療と蘭学―在村医小室家の医業を中心に―」(『埼玉地方史』43、2000年)
揖斐高『江戸の文人サロン 知識人と芸術家たち』(吉川弘文館、2009年)
奥野宣之『人生は1冊のノートにまとめなさい 体験を自分化する「100円ノート」ライフログ』(ダイヤモンド社、2010年)
奥野宣之『情報は1冊のノートにまとめなさい』(完全版、ダイヤモンド社、2013年)
奥野宣之『読書は1冊のノートにまとめなさい』(完全版、ダイヤモンド社、2013年)
海原亮『江戸時代の医師修業 学問・学統・遊学』(吉川弘文館、2014年)
山中浩之「在村医の形成と蔵書」(横田冬彦編『読書と読者』平凡社、2015年)
鈴木貞美『「日記」と「随筆」 ジャンル概念の日本史』(臨川書店、2016年)
吉田典生『「手で書くこと」が知性を引き出す 心を整え、思考を解き放つ新習慣「ジャーナリング」入門』(文響社、2017年)
村上紀夫『文献史学と民俗学 地誌・随筆・王権』(風響社、2022年)
森銑三『森銑三著作集』第11巻(中央公論社、1971年)
古畑侑亮『コレクションと歴史意識 十九世紀日本のメディア受容と「好古家」のまなざし』(勉誠社、2024年)
古畑侑亮「蔵書からみる齋藤家の医療と由緒―在村医が生きた幕末・明治の小山―」(小山市立博物館編『江戸時代の本と読書』小山市立博物館、2024年)
古畑侑亮「書記行為からみる本田家の医学学習―武蔵国比企郡番匠村の小室家との比較から―」(『くにたち郷土文化館 研究紀要』13、2025年3月刊行予定)
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