オンライン講座 日置貴之×木ノ下裕一Presents「つながる古典/現代 ジェンダー・病・戦争・障害・差別」(10/10北村紗衣氏、11/28鈴木則子氏、全5回)

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はじめに....................................

古典作品のなかに流れている、
宗教観、倫理観、ジェンダー観や、
今となっては差別以外の何物でもない障がい者や病、
特定の職業や階層への視線などをどう考えていけばいいのか。

「これは古典なので」と割り切って、
なかったことにすればいいのか。

その違和感を突き詰め、
違和感に満ちた古典を通じて
私たちの生きる現代のさまざまな問題と
つなげて考えていくにはどうすればよいのか。

日置貴之と木ノ下裕一が、
ジェンダー・病・戦争・障害・差別と5つのテーマを設定し、
ゲストとともに考えていくオンライン講座です。

ここに掲載した二人の趣意文をぜひお読み下さればと思います。

ご参加、お待ちしております。

主催 日置貴之(明治大学准教授)×木ノ下裕一(木ノ下歌舞伎)
配信サポート 文学通信

予告対談
日置貴之×木ノ下裕一
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スケジュール・ゲスト....................................

第1回 [テーマ=ジェンダー]
北村紗衣氏 
2021年10月10日(日)14時〜16時

★アーカイブ動画販売は終了いたしました

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北村紗衣 (きたむらさえ) 武蔵大学人文学部英語英米文化学科准教授。東京大学で学士号及び修士号を取得後、2013年にキングズ・カレッジ・ロンドンにて博士課程を修了。専門はシェイクスピア、舞台芸術史、観客研究、フェミニスト批評。著書に『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち──近世の観劇と読書』 (白水社、2018)、『お砂糖とスパイスと爆発的な何か――不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門』(書誌侃侃房、2019)、『批評の教室――チョウのように読み、ハチのように書く』(ちくま書房、2021)など 。

第2回 [テーマ=病]
鈴木則子氏 
2021年11/28(日)14時〜16時

★アーカイブ動画販売は終了いたしました

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鈴木則子(すずきのりこ) 奈良女子大学生活環境学部生活文化学科教授。総合研究大学院大学国際日本研究専攻博士後期課程修了(博士・学術)。専門は日本近世史、医療生活史、ジェンダー史。著書に、福田真人・鈴木則子編『日本梅毒史の研究』(思文閣出版、 2005)、『江戸の流行り病 麻疹騒動はなぜ起こったのか』(吉川弘文館、2012)、鈴木則子編『歴史における周縁と共生 女性・穢れ・衛生』(思文閣出版、2014)、 共著に『同性愛をめぐる歴史と法』(明石書店、2015)、『ジェンダーで問い直す暮らしと文化』(敬文舎、2019)など。

第3回 [テーマ=障害]
米内山陽子氏 
2021年12/10(金)19時〜21時

★アーカイブ動画販売は終了いたしました

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米内山陽子(よないやまようこ) 脚本家・舞台手話通訳。ろうの両親の元に生まれたネイティブサイナー。2011年に自ら執筆した戯曲の公演で、小劇場初の舞台手話通訳に立つ。以降、舞台を中心に手話翻訳、指導を行う。舞台手話通訳として世田谷パブリックシアター「Tribes」、「チック」など。あうるすぽっと「能でよむ〜漱石と八雲」などに手話指導もしている。ユニット「チタキヨ」の作・演出担当をつとめ、脚本家としての活動は実写映画「思い、思われ、ふり、ふられ」、TVアニメ「ウマ娘 プリティダービー」、舞台「銀河英雄伝説DieNeueThese」など。

第4回 [テーマ=戦争]
多田淳之介氏 
2022年01/08(土)14時〜16時

★アーカイブ動画販売は終了いたしました

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多田淳之介(ただ じゅんのすけ) 演出家。東京デスロック主宰。古典から現代戯曲、小説、演説、詩など様々なテキストや身体表現を用いて様々な事象から現代を生きる人々の当事者性をフォーカスし、観客の存在を含めたアクチュアルな演劇上演の場を創出する。学校や文化施設での演劇を専門としない人とのワークショップや創作も数多く手掛け、韓国、東南アジアとの国際共同製作も多数。日韓合作『가모메 カルメギ』にて韓国の第50回東亜演劇賞演出賞を外国人として初受賞。東京芸術祭ファームディレクター。四国学院大学、女子美術大学非常勤講師。

第5回 [テーマ=差別]
松永真純氏
2022年02/12(土)18時〜20時

★アーカイブ動画販売は終了いたしました


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松永真純(まつながまさずみ) 1998年から15年間、大阪人権博物館の学芸員として障害者や性的少数者の展示を担当。現在は、大阪教育大学非常勤講師。また、障害者問題誌『そよ風のように街に出よう』(1979-2017年)の後を受けて発刊された同人誌『季刊しずく-だれ一人しめ出さない社会へ』のメンバーとしても活動中。

参加方法・アーカイブ・料金・無料モニター....................................

参加方法

★アーカイブ動画販売は終了いたしました


料金
1500円


講座の趣旨....................................

違和感をつきつめる(日置貴之)

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日置貴之(ひおきたかゆき) 明治大学情報コミュニケーション学部准教授。幕末・明治期を中心として日本演劇の研究をしている。新聞や電信、鉄道といった文明開化期の新たな事物が登場する歌舞伎の「散切物」や、演劇における災害・戦争・病などの表象に関心がある。著書に『変貌する時代のなかの歌舞伎 幕末・明治期歌舞伎史』(笠間書院)など。明治期の戦争劇4作品を翻刻して解説を付した『明治期戦争劇集成』をオンラインで公開中(http://hdl.handle.net/10291/21580)。

 現在の歌舞伎が、長い伝統を持つ古典芸術であることは言うまでもありません。その一方で、現代との関係を考えた時、そこには古典であるゆえの問題点と興味深い点とがあることに気づきます。

 たとえば、歌舞伎の女形の演技は、世界的に見ても稀有な洗練された芸でしょうし、それは歌舞伎に欠かすことのできないものだと思います。しかし、一方で「歌舞伎には関心があるが、女性の出演が許されないことは差別ではないかと感じてしまう」という学生からの意見に十分に答えるためには、歌舞伎の歴史や日本における女性の社会的地位の変化など、複雑な要因を踏まえる必要があります。また、その女形が劇中で演じる女性登場人物の描かれ方には、違和感を感じる観客も少なからずいるでしょう。伝統を持つ作品の台本を軽々しく変更することは避けるべきだと思う一方、そうした現代の観客の違和感に対して、「これは江戸時代に作られた古典なので」と言うだけで果たして良いのか。解説文などを執筆する際に常に悩むところです。

 同じような現代人にとっての違和感は、歌舞伎の至るところに存在すると言ってもよいでしょう。それを「これは古典なので」と割り切って楽しむことも可能ですが、逆に違和感を突き詰めていくことや、違和感に満ちた古典を通じて私たちの生きる現代のさまざまな問題を考えていくこともまた、意味のあることなのではないでしょうか。そのような思いから、いくつかのテーマを設定してみました。歌舞伎の現代化という活動のなかで、そうした違和感や古典と現代との矛盾に向き合い続けている友人・木ノ下裕一と、各回のゲストの方々と一緒に、考えていきたいと思います。

本企画の開幕にあたって(木ノ下裕一)

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木ノ下裕一(きのしたゆういち) 木ノ下歌舞伎主宰。小学校3年生の時、上方落語を聞き衝撃を受けると同時に独学で落語を始め、その後、古典芸能への関心を広げつつ現代の舞台芸術を学ぶ。2006年に古典演目上演の補綴・監修を自らが行う木ノ下歌舞伎を旗揚げ。代表作に『娘道成寺』『黒塚』『東海道四谷怪談--通し上演--』『心中天の網島』『義経千本桜--渡海屋・大物浦--』『糸井版 摂州合邦辻』など。 2015年に再演した『三人吉三』にて読売演劇大賞2015年上半期作品賞にノミネート、2016年に上演した『勧進帳』の成果に対して、平成28年度文化庁芸術祭新人賞を受賞。第38回(令和元年度)京都府文化賞奨励賞受賞。渋谷・コクーン歌舞伎『切られの与三』(2018)の補綴を務めるなど、外部での古典芸能に関する執筆、講座など多岐にわたって活動中。平成29年度芸術文化特別奨励制度奨励者。

 能狂言にしろ、人形浄瑠璃にしろ、歌舞伎にしろ、はじめて日本の古典演劇を見た人から、「ついてけなかった......」という声をしばしば聞きます。この「ついてけない」にはいくつかの段階があるようです。まず、言葉が聞き取れなかった、ストーリーが追えなかった、つまり「ドラマについていけなかった」というもの。これは少しの予習で、かなり改善されるはずです。次に、どう見ていいのかわからなかったというもの。舞台上の約束事やルールについていけなかった、ということでしょうから、これには慣れと経験しかありません。

 最も厄介なのは、それらをクリアした上での、「なんだかついてけない」という漠然としたもの、それでいて得も言われぬ嫌悪感が付きまとうもの、です。往々にしてそれは、古典作品の根底に流れている宗教観や倫理観、ジェンダー観や、今となっては差別以外の何物でもない障がい者や病、特定の職業や階層への視線などに根差しているような気がします。そういったもの一切合切に「ついてけない」ということでしょう。

 昨今、古典演劇の解説や入門書の多くは「現代人でも案外楽しめる」ことや「わかる!」ことに重きが置かれています。また古典作品そのものの価値も「現代人の胸を打つ」や「普遍性がある」という点で測られがちです。つまり「ついてける」ことを是としているわけです。

 しかし、私は、時には「ついてけなくても」いいと思っています。ただ一つ重要なのは、だからといって、なかったことにしないこと。無視しないことです。「ついてけない」部分をバッサリ切り落として「やっぱり古典はようございますね」なんてことは口が裂けてもいってはならないと思います。現代人にとって、古典演劇の中に存在する「ついてけない」は、一種の"異物"です。異物を異物として、あるがままに見つめること。「古典だから」と是とするわけでも、また頭ごなしに非とするわけでもなく、深く考察することこそ大切なのではないでしょうか。そこから、現代に通じる様々な問題に思考を広げてみる。〈古典〉と〈私たちの現在地〉をつなげて考えてみる。古典に触れる醍醐味は、ここにあるような気がするのです。