一向一揆の謎(竹間芳明)―『戦国時代と一向一揆』刊行記念エッセイ

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戦国時代と一向一揆』刊行記念エッセイをお届けいたします。
ご一読ください!
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一向一揆の謎

竹間芳明

■一揆の史跡巡り

 遙か昔に埼玉県の教員だった20代後半に、はじめて福井県・石川県を旅した。ろくな知識もないのに、漠然と一向一揆の史跡を見てみたいと思ったのだった。送り火の翌日に、京都駅から湖西線に乗って福井駅で下車したが、まだその当時はホームの中程に洗面所(トイレではない)が設置されていていささか驚いた。

 二日かけて福井市立郷土博物館・福井県立図書館・一条谷遺跡に行った後に、翌日吉崎御坊跡を訪れた。そこには、東西本願寺(真宗本願寺派・真宗大谷派)の別院があり、蓮如伝説の「嫁おどしの面」がそれぞれ保管されていて、浄土真宗も結構神秘的なことを信じているのだな、と素朴な感想を抱いた次第である。東別院(真宗大谷派)の売店で、辻川達夫氏の『本願寺と一向一揆』が眼に入り早速購入し、その足で武生駅へと向かい、小丸城址出土の「一揆文字瓦」を見に行くことにした。

■「一揆文字瓦」

 武生駅で自転車を借りて「一揆文字瓦」が展示されている資料館へと向かったが、かなりの時間を要した記憶がある。ガラス越しに見た瓦は、黒かった印象を持ったが、その時は後年研究対象にするとは、思いもしなかった。本書の第四章でも触れたが、この「一揆文字瓦」の内容について、文章は淡々としており残虐さは感じられず、処刑実行者の前田利家に「殿」の敬称をつけていることから、処刑の様子を客観的に書き留めたとする見解がある。ならば、何故、通常は目にすることが困難な城に葺く丸瓦にあえて記したのか?紙に記さなかったのか?浅学な自分には全く理解できない。しかも、敵方の身分が高い相手に対し敬称をつける事例は他にもあるが、管見の限り城の丸瓦に処刑の様子を記した事例はない。

 小丸城址も見た後に、大きな寺院があったので、そこに飛び込み「一向一揆」について質問したい旨を告げたが、信者の方に「ここは、真宗出雲路派の寺で、本願寺派ではない」と笑われてしまった。ただ、戦国時代末期に、多くの本願寺の門徒が殺されたという話は知っていると教えてもらえた。恥ずかしながら、真宗が様々な派に分かれていることすら知らなかったのである。そこは真宗出雲路派本山の毫摂寺というお寺だったと思う。

 その翌日に金沢に赴き、石川県立博物館を見学し、今はない夜行の急行で帰路についた。帰宅後に吉崎で購入した辻川氏の著書を読み、一向一揆の概要について知り、改めて自分の無知に気づかされたのだった。

■教員をしつつ、大学院へ

 その数年後に東京の教員になったのを契機に、研修日を利用して、母校の大学院の授業に参加し、一から日本史について学ぶことにした(小生は、日本史専攻ではない。また、東京は今と全く違い、週一回平日に教員の自主研修を認めていた。私立の超進学校や国立の附属高校では、今も自主研修日があるらしい)。経済学研究科日本経済史のゼミでは、恩師の藤木久志先生から、「はじめに一向一揆ありきではなく、まずは戦国期の在地のあり方について丹念に追究し、そのうえで真宗本願寺派や一向一揆がどのように関わったか、または関わらなかったのかを調べるである」とご指導を受けた。

 藤木先生は、『一向一揆の研究』の大著を作成された井上鋭夫先生に師事され、井上先生の北陸現地調査にも参加されており、その際に、先述した真宗出雲路派本山毫摂寺で「一揆文字瓦」に出会われたのだった。瓦の拓本を取る際のチョークが付いたままであるはずと教えられたが、資料館で見たときには全く気づかなかった。藤木先生は、北陸現地調査の経験から、小生に貴重な御助言を与えてくださったと今でも思っている。

■膨大な研究蓄積でもなお残る多くの謎

 さて、その後、様々な先行研究や関連史料に触れてみたものの、実際、一向一揆について、分かっていないことが多いことを知らされたのだった。例えば、十代宗主証如の「天文日記」には、加賀から本願寺に上納される年貢について記述があるが、不明な文言が散見される。また、加賀での年貢の賦課・徴収額や治安維持・行政組織も明らかになっていない(註1)

 次代宗主顕如の代の永禄4年(1561)には、加賀国宮永竹内(現松任市宮永周辺)の百姓二人が、「国法」に従い領主である白山本宮への年貢納入を誓約している。この「国法」は、加賀支配を行う本願寺・金沢御堂により定められたものと考えられるが、納税の義務の他にどのような条項があったのか分からないのである(註2)。さらに、加賀の一揆構成員には軍役が課せられていたが、宗教的勤仕役と位置づけられていたため、一揆に宛てた顕如の消息では、褒辞は極めて簡素であり、所領の安堵・宛行の言及は全くない。最後は法語で結んで、あくまで軍役を信心の発露としてその義務性を強調しているのである(註3)。では、彼らは現実の対価がなくても戦闘に赴いていたのだろうか。無償で軍役を担ったとすれば、その費用はどのように捻出したのだろうか。加えて、本願寺に年貢を上納せねばならなかったのである。一定程度の収入がなければ、不可能であろう。また、旗本や組の構成員の動員体制も判然とせず、兵力をどのように集めたのかも分からない。

 本願寺は真宗の正統であることを顕示するため、真宗他派には厳しい態度で臨んでいたが、他宗派寺院・神社とは友好的でその信仰を弾圧したわけではないことが指摘されている(註4)。組が本願寺の門徒組織とすれば、組の支配領域の非門徒の具体的な立場はいかなるものだったのだろうか。

 以上、思いつくまま、一向一揆、特に高校の教科書に記述されている加賀の一向一揆の疑問点を並べてみた。一向一揆の膨大な研究が蓄積されているが、なお謎が多いことを改めて感じている。本書では小生の能力不足で触れることができなかったが、今後、解明されることを期待したい。なお、現状の一向一揆研究の問題点については、早島有毅氏が鋭く指摘されており、参照されたい(註5)

(註1)水藤真「『天文日記(證如上人日記)』と加賀」(『加賀・能登 歴史の扉』石川史書刊行会、2007年、初出、2006年)
(註2)東四柳史明「一向一揆と加賀の国法」(『納税いしかわ』、1983年)
(註3)「松任市本誓寺文書」(『金沢市史』資料編2中世五八五号
(註4)石田晴男「戦国期の本願寺の社会的位置ー『天文日記』の音信・贈答から見た」(『講座 蓮如』第三巻(平凡社、1997年)、神田千里「一向一揆と他宗派の宗教者」(『金沢市史会報』11号、2001年)
(註5)早島有毅著「戦国仏教の展開における本願寺証如の歴史的位置」(『大系真宗史料 文書記録編8 天文日記Ⅰ』解説(法藏館、2015年))

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『戦国時代と一向一揆』の詳細はこちら
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https://bungaku-report.com/books/ISBN978-4-909658-55-5.html

日本史史料研究会監修・竹間芳明著
『戦国時代と一向一揆』日本史史料研究会ブックス
日本史史料研究会ブックス005
ISBN978-4-909658-55-5 C0221
新書判・並製・272頁
定価:本体1,600円(税別)