「昔の人は教養があったのか」「注釈学事始め」を期間限定全文公開○前田雅之『なぜ古典を勉強するのか 近代を古典で読み解くために』(文学通信)
Tweet前田雅之『なぜ古典を勉強するのか 近代を古典で読み解くために』(文学通信)から、原稿を一部紹介していきます。三連休記念です。
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前田雅之
『なぜ古典を勉強するのか 近代を古典で読み解くために』
ISBN978-4-909658-00-5
C0095
四六判・上製・336頁
定価:本体3,200円(税別)
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https://bungaku-report.com/blog/2018/05/post-167.html
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「昔の人は教養があったのか」
1―いつも言われる若者批判を糸口にして
「今の若者は何も知らない、無知だ」、これは若者批判の際に用いられる、手垢に塗れた常套句である。これに類した言い方は、どうやら古代ギリシャにもあったようだから、いつの時代も中年や老人は同時代の若者を何も知らない、無知だ、と言い続けてきたということだろう。
となると、いつの時代も中年や老人は物知りで教養があったのか、と言えば、これまた、何も知らない、無知な若者が年をとって中年なり老人なりになるのだから、いつの時代も、若者・中年・老人、つまり、あらゆる人間は何も知らない、無知だということになる。この理解は、一応正しいと思われる。なお、ここで言う「一応」というのは、だいたいにおいてということであり、例外もあるかという期待を込めた用法である。
一九九三年は大凶作で米が足りなくなり、タイから緊急輸入した。多くの人々は米屋さんに並んで米を買ったものであった。その時、米屋さんもなかなかしたたかで日本米だけを売らず、タイ米とセットで売っていた(そうしないとタイ米が売れ残るからだろう)。私は米屋さんの前で店主と思われる老婦人の話に耳を傾けていた。曰く「大変な時代になったね、まったく。」と。
だが、私はこのことばを聞いてやや疑問に思った。彼女は、年齢からしておそらく戦後の食糧不足を経験しているはずである。「大変な時代がまた来たよ」と言うのなら、ともかく、はじめて来たような口ぶりに、私は、ああ、人間とは忘れる動物だ、だから、いつまで経っても賢くならないのだと痛感したものであった。
これを見る限り、いつの時代も老人・中年・若者はみんなものを知らず、無知だということになる。さらに、忘れるということを付け加えてもよいだろう。
こうなってくると、だんだんと「人間=愚物」論に傾いてしまいそうだが、それでも、このような意見はある。いや、昔は賢い人が多かった、と。これは、別段、私が言っているのではなく、多くの人がそう思っていたのだ。というよりも、ギリシャ神話から儒教に至るまで前近代の主たる思想・宗教は、古代、太古が理想的な時代であり、聖人・賢者はそうした時代しか出ていないのである。ある種の進歩史観の原型を作ったとも言えるキリスト教とて、イエスの再臨という形でしか人間の救済はない。これは起源=イエスの復活ということだろう。言い換えれば、古代の復活である。古代や太古に偉大な時代があり、偉大な人がいたというのは、日本人のみならず、かなり普遍的な考えだったということである。我が日本近世が産んだ偉大な儒者荻生狙徠は、先王とよばれる聖人が儒学の道を作ったと言ってのけた。狙徠は、そこから、だからこそ、先王の言葉を正しく理解したら、我々は古代の理想国家を日本に作ることができる、と主張した(Part.1 Lesson2,4参照)。ここでも基本は古代であり、太古である。
それでは、古代・太古は偉大であり、また、賢人・聖人が多くいたのか。
2―旧制高校生は凄いか
当たり前であるが、こうした考え方は、理想として古代・太古をもってきただけであって、どんな時代でも愚者・賢人がおり、多くの人は周囲を見ながら、そして、自己の経験に基づいて行動していたはずであって、古代・太古が偉大であったことはなかっただろう。これは昔と言い換えても同じである。
大学生の教養が低くなったと嘆く人が絶えない。戦前の大学は本科・予科(旧制高校)があり、それぞれ三年制だったたから、併せると六年もあった。今の学部+大学院修士や医学部と同様である。進学率はだいたい二〜四%である。現代は五十%を優に越えている。百人のうち二〜四人、しかも、男子だけの時代と男女が五十%以上大学に行く時代とを比較すること自体、ナンセンスというものだが、それでも敢えて比較すれば、学力は戦前の方があったに違いない。二〜四%の選別された集団だから、当然である。なにしろ、東京に旧制高校は、一高・東京高校・学習院・武蔵・成城・成蹊の六つしかなく、そこに通う生徒計三六〇〇人(一学年二百人×三×六)が帝国大学への入学を事実上許された人たちだった。その他、私立大学の予科、一橋大学の予科を加えても、せいぜい五千人といったところか。この人数が一年から三年生までいれた全生徒数である。だから、私の勤務先である明星大学だけで八千人もいる現代とはそもそも比較にならない。
とはいえ、厳しい入試を突破した旧制高校生の全員が高い教養をもっていたわけではなかった。大学進学予備校は戦前の旧制高校受験予備校から始まった。つまり、昔から上の学校を目指す生徒は、現代と同様に参考書片手に予備校で受験勉強をしていたのだ。その時、ある旧制高校生(「彼」とする)が老人になって回想した文章を知ると、旧制高校生といっても、実は現代の大学生とあまり変わらなかったということが分かってくる。彼は、このように書いていた。
「僕のように、教科書と参考書しか読んだことのない中学生(五年制の旧制中学、現在の高校に匹敵する)にとって、保田君のように難解な文章で論文を書く人間はそれだけで驚きあり、畏怖の念を抱いた」
彼は、旧制高校卒業後、帝国大学の文科系で唯一入試があった東京帝国大学法学部(いわゆる東大法)に入学し、結局、大手の不動産会社の社長さんになったが、彼が驚いた保田君とは、昭和を代表する批評家であった保田與重郎(一九一〇〜一九八一)である。早熟な保田は旧制高校(大阪高等学校、現大阪大学)の頃から論文めいたものを書いていたのだった。とはいえ、ここで私が強調したいのは、論文めいたものを書いていた保田ではなく、教科書と参考書しか読んだことがない「彼」を含めた他の生徒のことである。こちらの方が数としてはずっと多かったのではなかったか。その根拠は、これもいい加減な物言いかもしれないが、知的なものに興味を抱く人間の比率はいつの時代もそれほど高くないからである。「彼」はごく普通の、今で言う偏差値秀才であり、このような人々は他にも多くいたと思われる。偏差値秀才で一等目にするのはお医者さんだが、私は、知的な雰囲気を湛えたお医者さんを一部の精神科医の他知らない。東大法卒の官僚も少しは知っているが、知的な人間をそれほど見出すことはできない。知的=高偏差値という「常識」はそろそろ捨てた方がよいのではないか。
そして、今度は称讚された保田の方に目を向けると、普通の旧制高校生を驚歎させた、保田の論文もどきは、現在の保田研究によって、だいたいが当時のそれなりの著名だった評論家(土田杏村〈一八九一〜一九三四〉など)の文章をかなりパクったものだったことが判明している。敢えて保田を弁護すれば、明治以降、何かものを書こうと思ったら、パクリから始めるしかなかったようなのだ。だからといって、保田の行為は褒められたものではないけれども、ともかくそこから、かの保田だって、それほどたいした教養や知識をもっていなかったということが判明する。
こうしてみると、「彼」と保田との間に読書経験の差はかなりありながらも、それは言われるほど絶望的なものではないということになる。知への関心、ならびに、自己表現を通して自分をよりよく見せたい願望が保田の方が高かったことは確実だが。
私はこのことを知って、旧制高校生の教養もそれほどではないと思うようになった。はっきり断言するが、現代のオタクの方が、間口は狭いが深い知識を持っている。
それでは、それ以前の江戸時代、さらに中世はどうだろうか。
3―江戸時代・中世の人は教養が深かったか
二〇〇六年に、百歳で亡くなった祖父は政治家の批判が趣味のような人間であった。そして、必ず田中義一(一八六四〜一九二九)が最後の偉大な総理大臣だったとつぶやいていた。ちなみに田中義一といっても張作霖爆殺事件がらみで退陣した総理大臣だと知っているだけでたいしたものだが、それはともかく、祖父の発言を幼少期から聞いていた私は大人になって、その発言の多くがある時当時の新聞社説によっていることに気づいた。なんだ、祖父は新聞で言っていることをオウム返しで言っていただけなのだ。保田とさして変わらないな、とも言える。
だが、祖父はどうして新聞を読みそして影響を受けることになったのか。それは初等教育(尋常小学校・高等小学校)、中等教育(商業学校)を出て、きちんと文章を読む訓練ができているからだろう。私は、暴論だと承知しつつ敢えて言えば、博覧強記の人間は江戸時代以降しか出現していないと考えている。それは、学校システム(江戸時代は塾・寺子屋)・書物(江戸時代以降、書物の多くは板本で出される商品となり、お金を出せば買えるようになった。他に貸本屋もある)といった制度インフラが整備されていたからである。中世に狙徠・契沖・宣長のような博識な人はいない。十数カ国語に通じてイスラーム思想をイランにおいてペルシャ語で教えていた井筒俊彦(一九一四〜九三)は、ポマード製造業者(井筒薬粧)の息子だが、小学校・青山学院中等部・慶應大学予科・慶應大学という通常の学校システムの中で育ったのである。特別の教育を受けていたわけではない。
だから、最初にこう言っておきたい。江戸時代には猛烈な教養をもった人がいたと。ならば、中世はどうだったか。畠山義総(一四九一〜一五四五)という武将がいた。十六世紀初頭の人である。彼は若い頃、三条西実隆の源氏講義に参加して、『源氏物語』にすっかり魅入られ、能登の守護となっても『源氏物語』を学びたいという気持ちはずっと一貫した。しかし、『源氏物語』のテクストや注釈書など周囲にはない。そこで、彼が採った方法は、宗碩(一四七四〜一五三三)といった連歌師を通じて、実隆に書写を依頼するというものであった。むろん、大枚を払って入手するのだが、本屋もないのだから、宗碩を知らないと実隆へのコネをつけることもできないのである。義総はその後、注釈書も欲しくなり、実隆は結果的に『細流抄』という注釈書まで書く羽目になった。これなど義総の向学心の成果と言ってもよいだろう。
だが、改めて考えてみてほしい。自分が中世に生まれ育って、義総のような勉強できる環境があればともかく、それがなかったとしたら、おそらく字もろくに書けず、和歌・連歌など夢の又夢だったのではなかっただろうか。だから、近代がいいとは言わない。近代の方が隠れていた才能や能力を導き出す比率が高いとだけ言いたいのである(その代わり、どうやって生きたらよいか分からない人間も大量に輩出した)。
そこから想像されるように、中世の人はそれほど教養があるわけではない。しかし、中世を学ぶ人間として最後に、一言だけ申し添えておきたい。古典(『古今』・『伊勢』・『源氏物語』。次章の「四大古典」の節も参照)が全国に広まるのは中世からである。それは宗祇(一四二一〜一五〇二)・宗碩といった連歌師が媒介したからだが、いくら連歌師がいたところで、欲しい人がいないと話は始まらない。室町期の半ばともなると、地方の守護から被官と呼ばれる家来衆まで古典をほしがり、勉強を始めている。連歌師は注文をとって、実隆あたりに書写させてそれをせっせと現地に運んだ。このか細いけれども、着実な知の伝授があったからこそ、義総他、山口の大内氏などかなり古典的教養のある武将が出たし、近世以降、古典籍を収集する地方大名(松平忠房〈一六一九〜一七〇〇〉・伊達吉村〈一六八〇〜一七五一〉など)が現れる素地を作っていった。こうしてみるとやはり、中世は偉大な時代であったのだ。
最後に、今時の若い者といった物言いは、昔若かった人が今の若者を見て心配と嫉妬がない交ぜになった感情の吐露だと思われる。言わないに越したことはなかろう。
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「注釈学事始め」
1―注釈とは学問である
私たちは、学問と言えば、なにやら疑問が最初にとにかくあって、疑問を合理的に解こうとする行為を指すと考えている傾向がある。これは間違ってはいない。いないどころか、西欧における学問は、まず疑問、それから問題を立てて、解く道筋を考えるという行為を指すから、その影響をもろに受けてきた明治以降の日本においても学問とはそのようなものとして理解されてきた。
これに伴って、学者・研究者という存在も変わってきた。今の時代、すごい学者というのは、物知りであるよりも、問題の立て方や分析の切れ味で評価されるように思われる。あの人は頭がいい、と言う場合、大概は、問題の核心を素早く見抜き、もっとも納得のいく把握やその解決法を示す人を指す。何でも知っているが、頓珍漢な答えを出す人は頭がいいとは決して言わない。変人扱い、よくてオタク呼ばわりされるのが落ちだろう。
しかし、学者というのは、本来、物知りが条件であった。これは今の時代も実は変わっていないのだ。物知りでない学者は評論家とは言ってもよいが、通常、学者の範疇には入らない。但し、物知りは近代の場合、専門分野に限られる。それに対して、何でも知っている人。これが前近代の学者の必要十分条件だったのである。
たとえば、荻生狙徠という、どえらく物知りでなおかつ頭が飛び切りにいい、江戸時代の儒学者がいた。彼は、古文辞学なるものを創始して、『論語』なら『論語』が生まれた時代の言葉の意味を押さえて、そこから、『論語』を読み返した人物である。『論語徴』という『論語』の注釈書がそれだ(東洋文庫に入っており、書き下し文に直されているから、それほど困難を伴わないで読むことが可能である)。『論語』を現代風に理解して、そこから何かを言うのではなく、『論語』の言葉そのものを彼なりに『論語』が生まれた時代に遡って注釈していくというのが狙徠の方法である。そして、出た結論は、「天下を安んずる道」という言い方に典型的に表れているように、倫理道徳を排除した政治学のテクストとして『論語』を読めという働きかけであった。こんなことを言うために、わざわざ言語学的手法を用いたのか、なんて無駄なと言う人がいるかもしれないが、狙徠にとっては、こうでもしないと、当時もっとも影響力があった宋学(朱子学)の『論語』理解(『論語集注』)を乗り超えることはできなかったのである。と同時に、言語的に正しく理解すれば、日本を理想的な古代=古典中国にすることができるという確信が徂徠にはあったのだ。
これまで、昔と今の学問と学者の意味合いの違いを述べてきた。今の学問と昔の学問の根本的な違いを簡単にまとめると、今の学問はいわゆる科学的真理や歴史的事実に忠実だが、昔の学問は仰ぐべき書物(狙徠の場合なら『論語』)にそれこそひたすら忠実なのである。疑問を核におくのが今の学問、信仰に核をおくのが昔の学問と考えればよいだろう。そして、書物の正しい意味を見出していこうという行為、これが注釈なのである。狙徠の仕事からも分かるように、注釈とは、自分の全知識と知的センスを駆使した学問そのものであるが、同時に、きわめて創造的な思想行為でもあったことを忘れてはならない。実際、狙徠は儒学の知識をベースにして日本のみならず世界のすべてを論じているのだから。
2―日本四大古典
「日本四大古典」、こんなものは聞いたことがない、というのが大方の感想だろう。四大古典と命名したのは他ならぬ私であるから、まだ市民権も何も得ていない、見方によれば、いい加減きわまる名称である。
だが、根拠はある。私が四大古典に選んだ書物は、『古今集』・『伊勢物語』・『源氏物語』・『和漢朗詠集』です。ええ、どうして、という声が上がるのではないか。
たとえば、『万葉集』や『平家物語』が入っていないと鋭くつっこみを入れたくなる人もいるのでは。だがこの二つの書物については以下の理由で古典には入らないのである。
まず、『万葉集』は、藤原俊成が尊んだものの、江戸期の国学によって改めて見直され、国民文学になったのは、『古今集』を徹底批判(ということになっている)した正岡子規以降の明治時代からである(品田悦一『万葉集の発明』、新曜社に詳述されている)。江戸時代までは『古今集』が和歌第一の書物だったのであった(故に子規は権威=古典としての『古今集』を批判したのだ)。『万葉集』の注釈としては、主として読み方(なにしろ万葉仮名=漢字で書かれているから)については鎌倉時代の仙覚(一二〇三〜?)というお坊さんの偉大な業績があるけれども、本格的な注釈は江戸時代最高の和学者といってよい契沖(一六四〇〜一七〇一)からである。中世では堂々たる古典ではなかったのだ。
次に、『平家物語』は応仁の乱以降、焼失した書物の再建運動に取り組んだ後土御門天皇(一四四二〜一五〇〇)に献上された(明応三〈一四九四〉年七月、近衛政家〈一四四四〜一五〇五〉が天皇の命令を受けて書写し献上した)が、それまで文化的帝王ともいうべき天皇家が持っていたことはなかった(足利義満〈一三五八〜一四〇八〉に献上されたという奥書をもつ『平家物語』があるが、事実かどうか不確かである)。『平家物語』は盲目の琵琶法師が語る平曲(当時は単に『平家』と言っていたが)によって広まったと考えた方がよいと思われる。それは院・皇族・貴族・将軍までが楽しんだ(但し、天皇だけは、琵琶法師を近くに侍らせることは禁じられていた。おそらく琵琶法師が身分の低い存在と見なされていたからであろう)。加えて、歴代の室町将軍が愛してやまなかった能楽の題材の多くは『平家物語』が採られていることからも推察できるが、『平家物語』は芸能として享受されたのではないか。そして、古典でない決定的な事実は、『平家物語』には注釈がないことだ。
これらに対して、『古今集』・『伊勢物語』・『源氏物語』・『和漢朗詠集』は大量な写本群(『古今集』から『源氏物語』まではその後定本的役割をはたしたテクストに藤原定家が絡んでいる)に加えて、それこそどれだけあるか分からないくらいの注釈書を有している。注釈書があること、これが私の考えでは、古典であるか否かの分かれ目である。これは日本のみならず、古典的書物をもった前近代文明社会ではどこでもいえることだ。中国の四書五経、インドのヴェーダと言われるヒンドゥー教の経典類、イスラームのクルアーン(コーラン)・ハディースとよばれる聖典とアリストテレスのテクスト、ヨーロッパの聖書とアリストテレスのテクスト(アリストテレスのテクストはギリシャからアラビアに伝えられ、そこで翻訳された後、注釈がなされた。その後、ラテン語に翻訳されて、ヨーロッパのスコラ哲学に寄与したのだ)などはいずれも注釈書の宝庫である。
これを日本に当てはめると、先の四大古典になるのである。但し、このほかにも、『日本書紀』・『御成敗式目』・『職原抄』といったテクストも古典の名に値する。『職原抄』の注釈だけでも読むのにまあ一生かかるくらいあるようだ。
とはいえ、日本の古典の特徴と言えるものは、中国・インド・イスラーム・ヨーロッパが宗教・哲学のテクストが核にあるのに対して、日本は文学、それも和歌を記したテクスト(『源氏物語』でも和歌と有職故実を知るための読まれてきた面が大きい)が古典の中心となっていることだ。これは日本文化を考える上でも大事な点ではないだろうか。
四大古典について、さらに付け加えると、室町期において、とりわけ『古今集』~『源氏物語』は貴族ばかりではなく、生まれや身分があまりはっきりとしない人が多かった連歌師たちによって注釈・研究がなされたという事実である。東常縁(一四〇一〜?)が始めた「古今伝授」(『古今集』の二条派風の解釈を特定の個人に伝えていくこと)は、宗祇を経て、三条西実隆、実隆を経て、実隆の子供・孫(公条・実枝)に伝わり、それから、細川幽斎(一五三四〜一六一〇)なる文武両道の武将を介して、智仁親王(一五七九〜一六二九)にいく。親王は後水尾天皇(一五九六〜一六八〇)にそれを伝えたので、なんと、それほど著名でもなく、宮中や貴族社会とも無縁だった常縁の二条派の解釈は、結局、天皇家に入り正統的な注釈となったのである。その際、『伊勢物語』・『源氏物語』もほぼ同時に伝授されていくので、宗祇といった連歌師たちがいなかったら、はたして日本の古典および注釈が後代に伝わったのかという疑問さえ起こるくらいである。こうした民間の連歌師によって古典注釈が行われたということは、我が国の古典文化を考えるときに見落とせない点だと思われる。連歌師たちが古典注釈に手を染めたのは、連歌を作るときに役立つだからだろうが、いつごろからか、深く注釈そのものにのめり込んでいったのだろう。藤原定家(一一六二〜一二四一)の記した和歌入門書に『詠歌大概』がある。大名や公家の書物を所蔵した文庫のみならず、ちょっとした蔵書家のお蔵にはまずこの本があると言っていいくらい普及した。この書物は室町期に古典化したが、それは宗祇が注釈を付けたからである。宗祇をはじめとする連歌師たちの活動は決して連歌だけにとどまらなかったことも銘記しておきたい。古典継承を担ったのは、天皇・貴族・武家だけではなく、連歌師たちがその中核にいたのである。
3―実際の注釈を見る
それでは、注釈の実際を少しばかり覗いてみたい。注釈というのは、語句の意味説明か、通常はそれで済むだろうが、実際は異なる。
『古今集』仮名序には「この歌、天地の開闢初まりける時より、出来にけり」(新大系、以下も同じ)という一節がある。和歌というものは、天地開闢、即ち、世界が始まったときからできたのだという内容である。「仮名序」は和歌の原理論だから、ここで言われていることは真理だと昔の人は考えていた。しかし、注釈となると、様々な異説が現れてくる。
定家の息子である藤原為家(一一九八〜一二七五)は、このようにここを解釈した。
天地開闢の時よりいできにけりといふは、歌のことはりをいふなり。うたのすがたにはあらず。 (『古今序抄』、『中世古今集注釈書改題』)
天地開闢の時には人間はいなかったと『日本書紀』には記されている。だから、為家は、人間はいなかった、つまり、歌というものはなかったが、その「ことわり」=理はあったのだと言ったのだ。理という理念でものを考える習慣が古代日本にあったとは考えられない。為家はここで『詩経』(=『毛詞』)の注釈書である『詩経正義』を用いて説明している。矛盾を解決する方法であるが、中国的な思考方法を導入してなんとか和歌の始源性を説明しようとした試みだと見ることができるだろう。
ところが、鎌倉後期と言われている(実際にはもっと下りそうだが)『毘沙門堂本古今集註』という注釈書になると、これが大きく変貌する。それを記す前に、『古今集』のもっとも古い注釈である「古注」の注釈を見ておこう。そこでは、「天浮橋の下にて、女神、男神と成り給へる事を、言へる歌なり」としている。これはイザナギ・イザナミが天浮橋の下で出会い、愛情ある言葉を掛け合って夫婦となり、日本を生んだという神話である。「古注」にしてみれば、実際の歌の起源をここに見出したのだろう。逆に言えば、為家はそれに対する反論だったのだ。
それでは、『毘沙門堂本古今集註』ではどうか。「古注」と似ているがやや異なる。
他州ヨリニハタヽキトイフ鳥来テ、尾ヲ土ニタヽクヲ見テ、メ神ハアフノキオ神ハ上ニナリテトツギヲシ初ケリ。此時始テアナウレシアナ心ヨト云コトハ出来レリ。此ヲヤマト言ノ初トシテ思事ヲ云アラハス。皆歌ト云也。(ルビ・濁点・句読点を加えた)
イザナミとイザナギはどうやって「トツギ」(=男女の交わり)をしていいか分からなかったが、鳥のまねをしてできた(これは『日本書紀』の一書にある)、その時、「アナウレシアナ心ヨ」ということを言った。これが「ヤマト言」(日本語ということだろう)のはじめであり、思っていることを表している(「仮名序」の冒頭に「やまと歌は、人の心を種として万の言の葉とぞ成れりける」とあり、和歌とは人の心を言語化したものだとされている)から、これを皆歌と言ったのだ、というのである。かなり猥褻な内容だと感じられた人もいるかもしれないが、この注釈を記した人はそのようなことはみじんも考えていない。一生懸命、「仮名序」に即して和歌の起源を考え抜いた結論がこれだったのだ。
最後に、室町期、最大の学者と言われた一条兼良の説を見ておきたい。兼良は儒教・仏教・道教(日本の場合は神道)が一致するという三教一致説を信奉していた。だから、彼によれば、このようになる。
天先なり地後にさだまる。是を天地開闢となづく。然後ニ、人その中ニ生ず。これを三才といふ。天地人のはじめは次第をたてたれど誠は同時には三にわかれたり。かならず其中に人も有しゆへに、天地人の三は同時にして出来たる也。人生ずれば、哥といふしわざもいでくれば、開闢の世より歌道は有といへり。(『古今集秘抄(古今童蒙抄)』、武井和人『一条兼良の書誌学的研究』)
天・地・人を三才というが、三才も兼良によれば同時発生となる。だから、人がいたとは書かれていないけれども、実際にはいたということになるのだ。つまり、天地開闢の時から人はいた、だから、歌もあり、「歌道は有」ったということになるのである。三教一致もむろん中国から来た考え方であるが、ともかく、兼良によって、仮名序にある天地開闢と和歌の起源の矛盾は解決した。しかし、兼良の説がその後支配的になったわけでもない。このような説もあるということだけである。
中世の注釈は最終的には、どの説が正しいかではなく、諸説集成に向かっていく。あらゆる説を知っていることが学者としての正しいありようだったからだろう。学者が物知りでなければいけない理由の一つである。
ほんの一例を見るだけでも、注釈の世界がいかに奥深いか、また、時に奇妙奇天烈かが理解されただろう。これを近代の国文学は、「荒唐無稽」と言って馬鹿にして無視し排除してきた。しかし、このような注釈があったからこそ、『古今集』をはじめとする四大古典は正しく古典となり、後代に伝わったのである。決して荒唐無稽と済ませられるものではない。
近代の国文学を相対化するためにも、中世の注釈学は学ぶべき価値がある。学ぶというのがやや抵抗があるのなら、注釈の海で遊ぶという気分でその広大な世界に入ってはいかがだろう。