【連載】vol.4「国立公文書館」 - 現役大学生が有り余る行動力で和本に触れてみた件ーー和本探しに出かけてみよう!ーー #和本有り

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vol.4「国立公文書館」


和本が好きないち大学生が、
どこに行けば和本を見て、触れるのか?
どこに行けば和本を買うことができるのか?
小中高生・大学学部生向けに伝えるべく、はじめた連載、
第四回は国立公文書館です!
ぜひお読み下さい!


国立公文書館
〒102-0091 東京都千代田区北の丸公園3番2号
電話:03-3214-0621(代表) FAX:03-3212-8806

ホームページ http://www.archives.go.jp/
開館時間:午前9時15分から午後5時まで
(ただし、閲覧室への入室は、午後4時30分まで)
休館日:東京本館
(日曜日、月曜日及び祝日、年末年始(12月28日から翌年の1月4日まで)、その他法令により休日に定められた日)
最寄り駅:東京メトロ東西線竹橋駅下車[1b出口]徒歩5分

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内閣文庫について

 今回私が閲覧した和本はすべて国立公文書館が所蔵する「内閣文庫旧蔵本」でした。内閣文庫については私も授業などで聞いたことがあったのですが、あまり詳しくは知らなかったため、改めて勉強することにしました。

 以下は、内閣文庫について詳しい長澤孝三著『幕府のふみくら―内閣文庫のはなし』(吉川弘文館、2012年)を参考にしています。

■徳川家康と紅葉山文庫(17~18世紀)

 内閣文庫の源流は徳川家康(1543-1616)の時代にまでさかのぼることができます。好学である家康は、全国を統一したのち、1602年に江戸城本丸の南辺、富士見の亭(現在の皇居東御苑の富士見櫓付近)に文庫を建てました。これが内閣文庫の源流となります。

 富士見亭文庫が設置されてから3年後の1605年、家康は将軍職を秀忠に譲り、駿府(現在の静岡市)で新たな文庫を築き余生を送ります。家康の死後は、家康から秀忠に贈られた「駿河御譲本」(するがおゆずりほん)と駿河に残っていた書籍「駿河文庫本」をあわせて、1639年「紅葉山文庫」として新たに城内の紅葉山の麓に建てられることになりました。富士見亭文庫にあった蔵書も紅葉山文庫に移されることになります。

 紅葉山文庫本はその伝来と由緒が明らかで、明治時代以降も旧来の本箱に収めたまま特別書と称して別置、尊重されてきたようです。よって、書き入れなどもない美本ばかりで、伝来の良さを物語る気品を備えていると長澤氏は評価しています。実際、今回私が見てきた本も大変きれいなものでした。

■浅草文庫と太政官文庫(19世紀)

 紅葉山文庫と共に、内閣文庫の源流のひとつになっているのが「昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)所蔵本」です。昌平坂学問所は林羅山(1583-1657)が上野の忍岡に開いた書院が起源です。その蔵書には林家伝来の書物も含まれていて、当代の諸大名・学者からの献納もありました。近江国仁正寺藩(現在の滋賀県蒲生郡日野町)の大名であった市橋長昭(いちはしながあき)と、大阪の文人である木村蒹葭堂(きむらけんかどう、1736-1802)からの献納本が特に優れたものであるといわれています。

 明治維新後、この昌平坂学問所の蔵書は日本初の官立公開図書館といわれる書籍館(しょじゃくかん)に移ることになりますが、書籍館はわずか2年後、建物が地方官会議の会場として使われることになります。1874年、浅草八番堀の大蔵省が管理する旧幕府米蔵跡に場所を移し、これが「浅草文庫」となりました。

 しかし、1881年。東京職工学校(後の高等工業)を設けるため、浅草文庫の建物も文部省に引き渡すことになり、1884年、「太政官文庫(だじょうかんぶんこ)」の所管となりました。

 太政官文庫の来歴ですが、明治時代になって、それまで旧幕府諸機関で作成した文書などを明治新政府が各省に渡したところ、各機関で独自で整備され管理されていたため、非常に効率が悪かったとそうです。

 そうした中、新政府は内閣書記官局記録課の役目であった「官中一切ノ書籍ヲ管守シ及ビ出納ヲ取扱フ事」を徹底し1883年「太政官文庫」を置いて図書の集中管理を行う構想が生まれました。最初は独自の書庫を持っていませんでしたが、1884年11月赤坂離宮内に木材二階建ての書庫を1棟、平屋建て事務棟を1棟建築し、紅葉山文庫と浅草文庫の本、そして各省で管理されていた本、例えば外務省からはシーボルト(1796-1866)の献納本を含む2126冊の本などが移管されました。

 1885年。内閣制度の創始に伴って、太政官文庫を担当していた記録課もそのため、文書局に属していた文庫課とともに「内閣記録局図書課」に置かれることになり、名称も太政官文庫から「内閣文庫」(図書課所管)に改称されます。

■内閣文庫から国立公文書館へ(20世紀~21世紀)

 1887年前後から、内閣文庫の管理者であった内閣書記官長の田中光顕によって数々の優れた古書、古文書が購入されるようになります。しかしこのあと、火災や関東大震災、戦災の影響で多くの本が焼失してしまいます。

 1952年、内閣文庫を管理する組織名は変遷を重ねますが、この年に官房総務課から分離し、大臣官房の一部門として独立した内部組織となります。内閣総理大臣官房記録課内閣文庫長が置かれ、正式に「内閣文庫」という名称を独立した組織の名前として使われるようになります。

 「国立公文書館」が設置されるきっかけとなったのは、1959年に日本ユネスコ国内委員会から国際文書館会議への加入勧告と文書館設置問題の検討の要請です。

 それまでの公文書の散逸・消滅の原因は、それらを保存し公開する機関である公文書館を持っていなかったためという認識があったそうで、1971年7月、現在の北の丸公園に国立公文書館が開館しました。「国立内閣文庫」では名称が適当でないとして「国立公文書館」となり、内閣文庫は独立組織から国立公文書館の一部に属するという形で存続することになります。

 2001年には公文書と古書古文書(内閣文庫)で分かれていた体制を、業務の効率化や質的向上を図るために整備し、独立行政法人として再出発しました。

 以上が長澤孝三著『幕府のふみくら―内閣文庫のはなし』を読んで、私が短くまとめたものとなります。

 要点をまとめますと、ひとつは国立公文書館の源流は江戸時代初期にまでさかのぼることができるということ。そして、もうひとつは徳川家康所蔵本からの紅葉山文庫、昌平坂学問所所蔵本からの浅草文庫、江戸幕府の各機関の文書という、三つの大きな筋から内閣文庫が成り立っているということ。また、国立公文書館と内閣文庫は密接な関係があったということを学ぶことができました。

 私は「内閣」という単語から日本の政府が管理している図書館と勘違いしていましたが、実際はそうではなく、実に多くの人から献納され支えられ、守られてきた場所であることがわかりました。


★★★★★★★★★★★★★★★

国立公文書館で見てきた和本


■江戸時代のUFO騒ぎ!茨城に現れた謎の舟!『弘賢随筆(ひろかたずいひつ)』

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写真1 『弘賢随筆』巻55・享和3年(1803)刊・23.4㎝×16.5㎝・半紙本

 あらすじ

 それは享和3年(1803)2月22日午前11時~午後1時くらいのことであった。常陸国の「はらやどり」という浜で、遠く沖の方から舟のようなものが見えたので、人々がこれを浜辺に引きつけてよく見たら、その舟の形は香盒(こうごう=はこ、香を入れる容器)のように丸く長さは三間(5.5mほど)で上部はガラス張りの障子をチャン(松脂)で塗られていた。底は鉄板を筋のように張ってあり、上から中が見られるようになっていた。人々がその中をのぞいてみると、異様な姿な婦人がそこにいた。
 その婦人は、眉と髪の毛の色が赤く、顔も桃色で、髪は仮髪(かはつ=かつらのこと)であるが、白く長くして背中に垂れていた。それは獣の毛か、撚糸か、知る者はなかった。言葉も通じず、どこから来たのかもわからない。この婦人は二尺(約60㎝)四方の箱を持っていて、特に大切にしているもののようで、少しも離さず人を近づけさせなかった。
 人々が舟の中を調べると、中には水の小瓶が2升入っていて、敷物が2枚、お菓子のようなものもある。また肉を凍らせたような食べ物もあった。
 人々が集まってどうしようかと話しあうのを、女性はただのんびりと眺めていると、老人がいうには「これは外国の王の娘で、他へ嫁がせたが浮気が発覚し、その相手の男性は処刑させられた。しかし、この女性は王の娘であるから、殺すことができず虚舟(うつろぶね)に乗せて流し生死を天に任せたものではないだろうか。箱の中身は処刑された男性の首であろう。」
 言い伝えによると、昔もこのように外国の女性がうつろ船に乗せられ浜辺に漂着したことがあるが、その舟の中にはまな板のようなものに乗せた生々しい人の首があったそうだ。この女性もこの類に違いない。
 とはいえ、この女性を役所に届けた場合、雑多な費用がかかるため、こうした舟をまた海に流した先例もあるからと、この女性をまた舟に乗せて流すことになった。
 また、その舟の中には謎の文字が多く書かれていて、あとになって思うと、それは浦賀の沖に泊まったイギリスの舟にも同じ文字があった。そうすれば、あの時の女性はイギリス人だろうか。それともインドのベンガル人だろうか。または、アメリカなどの外国の娘だろうか。これもまたよくわからない。当時の物好きの者が写し伝えるには、右の図(筆者補足:写真3のUFOの絵を指す)のようである。図説ともに不正確で詳細でないのが残念である。よく知っている者がいるなら、ぜひ話を聞きたいものだ。

 最初に閲覧したのは『弘賢随筆』という本です。著者は国学者の屋代弘賢(やしろひろかた、1758-1841)で、全60冊もある随筆です。

 中でもこの「うつろ舟」の話は異彩を放ちますね。この話はとても有名なので、ご存じの方もいらっしゃるのではないでしょうか。例えばテレビ東京(★注1)やNHK(★注2)で何回か放送されたことがあるそうです。さらに、澁澤龍彦『うつろ舟』(河出書房新社、2002年)、加門正一『江戸「うつろ船」ミステリー』(楽工社、2009年)など関連書籍もたくさん出ています。海外でも有名だとか。

 「うつろ舟」の話が収録されている『弘賢随筆』は、今のところ国立公文書館でしか読むことができないようです(★注3)。いわば「日本国内でたった一冊!」ということですが、その大変貴重で有名な資料を無料で実物に触れながら読めるなんて本当に驚きですね......。

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写真2 『弘賢随筆』「うつろ舟の蛮女」の挿絵。うつろ舟に乗っていた女性が描かれています

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写真3 うつろ舟の本体の挿絵。謎の文字が船中に多く書いてあるという

 この挿絵は、よくみると手描きで、じっくり見ているとそのリアルさにぞっとしてしまいます。舟は5.5mほどあったということですからかなり大きいですね。形はご飯を食べる時のボウルに似てるような気もします(笑)。

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写真4 元の紙のあいだに補修された紙がはさんであります

 『弘賢随筆』は修理された跡が随所に見られます。デジタルで閲覧する場合だと気づかないところも、手で触れてみると気づくことがあるものですね。例えば、写真4は虫食いによって穴が開いたところを「裏打ち」という方法で修理したものと思われます。「裏打ち」に関しては東京都立図書館にて詳しく解説されているためこちらをご参照ください。一度虫が食った周辺を掃除し、また、紙で裏打ちすることで新たな虫の侵入も防ぐことができたのでしょう。そのためか全体的に状態はきれいだと思いました。

■江戸時代の怪談、百の怪談をするとお化けが出る?『百物語(ひゃくものがたり)』

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写真5 『百物語』上下巻・万治2年(1659)刊・25.0㎝×17.0㎝・半紙本

 次に読んだのは『百物語』です。私が通う大学の授業でも何回か読んだことがあります。この本は万治2年(1659)のもので、このあとの宝暦・明和(1751~1772)年間に大流行する「百物語」の嚆矢のような作品です。怪談といえば怖い話を想像してしまいますが、この『百物語』に関しては全く怖くない話もあります。

 「百物語」とは浅井了意(?-1691)の書いた『伽婢子(おとぎぼうこ)』(1666年)に収録されている「怪を語れば怪至る」に、以下のように説明されています。

むかしより、人のいひつたへしおそろしき事、あやしき事をあつめて、百語すれば、かならず、おそろしき事、あやしき事ありといへり(★注4)

 人々が集まって百の物語をすればかならず怖いことが起きるということですね。しかし、単に百の話をすれば起きるのではありません。もう少し具体的なことが書かれています。

百物語には法式あり。月くらき夜、行燈に火を点じ、その行燈は青き紙にてはりたて、百筋の灯心を点じ、ひとつの物語に灯心一筋づゝ引きとりぬれば、座中漸々暗くなり、青き紙の色うつろひて、何となく物すごくなり行也。それに語つゞくれば、かならずあやしき事おそろしき事、あらはるゝとかや

 青い紙を貼った行燈(あんどん)100個を全部ともして、ひとつの話をし終わったらひとつずつ消していく。そうするとだんだん周りが暗くなってものすごいことになるということらしいです。ちゃんとした手順や準備が必要だったようです。

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写真6 『百物語』の序文

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写真7 『百物語』の目次。上下で50話ずつあります

 太刀川清(1987)氏によると百物語の起源は遠く中世にまでさかのぼることができますが、江戸の太平の世になって遊戯的・享楽的性格が加わり、たいくつな夜をしのぐものとなってくると解説しています(★注5)

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写真8 『百物語』から「ばくちうち」の話

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写真9 「ばくちうち」の話の続き

 『百物語』の内容ですが、例えば写真8と9に載せた「ばくちうち」の話はどちらかというと啓蒙的と言えるかもしれません。博打をして負けてしまい、裸になった二人が京都の因幡堂へ参って、寒さを耐えることができないためお祈りをしたら、住職が犬5匹を布団にして寝なさいというのです。言われた通りに寝ればいいものを、一人は3匹を、もう一人は2匹を抱えて寝ることを賭けてまた博打をします。そのことで自分たちの愚かさを悟らされ、博打を辞めることになるというお話です。全然怖くないですよね。

 『百物語』は上記でも少しお話したように、私はすでに授業で読んだことがあるのですが、実物を見るのは初めてでした。写真で本の下の部分を見ると、破けていることがわかります。つまり、何回もめくって読まれたという証拠です。授業のレジュメでは気づけなかったことでした。

■"画鬼" 河鍋暁斎が描く「地獄」『暁斎画談(きょうさいがだん)』

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写真10 河鍋暁斎『暁斎画談』の函(はこ)・25.6㎝×19.5㎝

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写真11 『暁斎画談』の内編と外編の上下巻・明治20年(1887)刊・25.4㎝×17.7㎝・半紙本

 次に読んだのは河鍋暁斎(1831-1889)の『暁斎画談』です。函(はこ)に包まれていましたが、この箱は「帙」(ふまき、ちつ)とも言われ、呼び方や種類がさまざまあるため、今後これだけを取り上げてもよいかもしれませんね。

 河鍋暁斎(本名は河鍋周三郎)は、幕末・明治時期の浮世絵師です。幼くして絵の才能があり、7歳にして歌川国芳に入門。しかし、父は国芳の品行などを心配し、暁斎10歳の時、狩野派の絵師の前村洞和に入門させます。洞和は暁斎の画才を見込んで「画鬼」と称したそうで、これは現在でも暁斎の愛称として使われています。

写真12 河鍋暁斎「毘沙門天之図」嘉永元年(1848)作(暁斎数え年で18歳の時)(河鍋暁斎記念美術館蔵)(★注6)

 『暁斎画談』は古今有名な名画を暁斎が模写したものと、暁斎独自の絵などが収録されている作品です。晩年に作られた作品で、やや誇張されたところもあるとされますが、しかし暁斎の生涯を知る上でとても貴重な資料であると言われています(★注7)

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写真13 河鍋暁斎が菱川師宣(?-1694)を模写した絵

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写真14 菱川師宣の絵「衝立のかげに 遊女と若衆」(メトロポリタン美術館所蔵)(★注8)

 その模写ですが、特徴をよく捉えていると思います。写真13の左丁の上にある女性の絵と、写真14の右側にある女性を見比べてみると、個人的には耳の形や顔の丸っこい感じが似ていると思いました。皆さんは他の絵が菱川師宣のどの絵かおわかりでしょうか。そういったものを調べながら読むのも『暁斎画談』の楽しい読み方のひとつかもしれません。

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写真15 暁斎が描いた地獄の絵

 今回私が『暁斎画談』でもっとも見たかったのがこの地獄の絵。左上では鬼たちが人の骨を臼(うす)で砕いています。正面では罪人(?)が下敷きになっています。右上では鬼が裸の人を追いかけていますね。

 鬼の表情や色、顔も1頭ごとに異なり、右上は牛頭(ごず)でしょうか。馬頭(めず)もありますね。

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写真16 暁斎が描いた猫の絵

 一方で、かわいい猫の絵もありました。少し警戒している表情の猫や、満足気な顔の猫など、どれもかわいいですね。木版画ですが、毛はどうやって彫ったのでしょうか。描いた暁斎もすごい画力ですが、私は木版画を見ると彫師の実力にもたびたび感嘆していまいます。

■葛飾北斎が描く源頼光VS土蜘蛛『源氏一統志(げんじいっとうし)』

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写真17 中村定保編、北斎為一画・弘化3年(1846)版・22.7㎝×15.5㎝・半紙本

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写真18 『源氏一統志』の見返し

 『源氏一統志』は広く知られた作品ではないようで、詳しい情報を得ることができませんでした。土蜘蛛といえば、私の記憶で新しいのは宮崎駿監督の『もののけ姫』の冒頭でアシタカの村を襲う「タタリ神」です。イノシシが祟り神になったものだそうですが、土蜘蛛に似ていると言われています。

 作者の中村定保とは松亭金水(しょうていきんすい、1795-1862)のことで、江戸後期の戯作者として知られています。主に人情本を書き、為永春水(ためながしゅんすい、1790-1843)の門人でもありました。

 絵師の北斎為一とは葛飾北斎(かつしかほくさい、1760-1849)のことで、曲亭馬琴(きょくていばきん、1767-1848)の代表作『南総里見八犬伝』の挿絵を描いたことでも有名ですね。

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写真19 『源氏一統志』の目次

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写真20 『源氏一統志』の目次

 内容ですが、源氏の家系図のようなものに続き、目次が書かれています。目次のデザインが巻物のようになっていておしゃれですね。第一話は「経基王に源氏の姓を賜ふ」とあります。源経基(みなもとのつねもと)とは清和源氏の祖とされる人物で、その息子が源満仲(みつなか)、そして満仲の息子があの頼光(らいこう)と呼ばれる源頼光(よりみつ)です。

 おそらく源氏の誕生から始まって源頼光の土蜘蛛退治を描く物語であろうと思われます。

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写真21 『源氏一統志』の挿絵。寝ていた頼光を襲う土蜘蛛

 写真21は土蜘蛛が寝ていた源頼光(写真の左上の人物)を襲う場面を描いています。布団が描かれていて、もう一人はぐっすり寝ていますね。土蜘蛛がつくった蜘蛛の巣が背景となっています。よく見ると蜘蛛の糸の上に布団が敷かれているように見えなくもないですが、その世界観に惹きつけられます。

 右下を見ると土蜘蛛の脚が刀でバッサリ一刀両断されています。蜘蛛の表現もとても興味深く、目がとにかく大きく、毛の描写がすさまじいです。

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写真22 同じく葛飾北斎が描いた源頼光と土蜘蛛(国際日本文化研究センター怪異・妖怪画像データベースより)

 写真22は国際日本文化研究センター所蔵の北斎の絵で、同じく北斎が描いた土蜘蛛の絵ですが、やはり目が特徴的で、源頼光よりも大きく、毛が細かく生えています。

 源頼光が土蜘蛛を退治するという話は古くからあったようで、鎌倉時代の作品で『土蜘蛛草紙絵巻』というものが現存しています(★注9)

 本田康子(2017)氏によると、土蜘蛛は古くは朝廷に服従しない一地方勢力を指していたが、中世になって御伽草子の武家物というジャンルの中で新たに妖怪退治談として再構築されたということです。また、本田氏によると古代においての記紀神話や風土記などに登場する土蜘蛛とは朝廷に従わない地方の異民族を指していて、中世になると朝廷に代わり清和源氏の力が強くなって、その武家政権の正統性を強調するイデオロギーを組み込んだものとして土蜘蛛の物語が成立すると述べています(★注10)

 一見、源頼光と土蜘蛛の対決という英雄伝説のように見える絵も、その流れの原点には朝廷に代わって武家政権の正統性を主張するための政治性があったんですね。『源氏一統志』のような江戸後期に描かれる土蜘蛛の話と、古代神話における土蜘蛛の話とでは、伝えたいことがそもそも妖怪退治談と朝敵征伐譚とで異なるため、その比較を具体的にしてみるのも面白いかもしれません。

■福島の磐梯山で発見された妖怪のこと『視聴草(みききぐさ)』

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写真23 『視聴草』巻104・宮崎成身編・23.7㎝×16.1㎝・半紙本

 最後に見たのは江戸時代の武士であった宮崎成身(みやざきせいしん、生没年未詳)(★注11)が文政13年(1830)から30年以上かけて当時の事件や記録をまとめた雑録である『視聴草』です。この本は「稿本」として知られ作者の宮崎成身が所蔵していたものです。

 福井保(1984)氏によると『視聴草』の主題は、詩歌・文章・紀行・教訓・故実・伝記・文書・記録・奇事異聞・変災・医療など多方面にわたっており、もともと178冊だったが、内閣文庫所蔵本は「正編初集第三冊」・「続編初集第一冊」・「続編四集第六冊」・「続編七集第八冊」の4冊を欠き、別に正続両編の総目録各1冊を後補して176冊である、としています(★注12)

 内閣文庫にはほかにも『視聴草』の写本があります。福井氏によると、写本は正編のみ全100冊のうち99冊(「第二集第八冊」の1冊が欠)があり、福井氏の著書では「稿本」にない「正編初集第三冊」の影印をこの写本で補っています。また、他には神宮文庫(三重県伊勢市)、国立国会図書館(東京都千代田区)に写本があり、どれも内閣文庫の稿本に基づいているそうです。

 今回はその稿本の176冊の内、第104巻に収録されている妖怪の絵を見てみたいと思いました。

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写真24 『視聴草』の挿絵にある妖怪の図

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写真25 写真24の次の丁。手描きで書かれているのがよくわかります

 天明元年(1781)、奥州会津磐梯山(現在の福島県会津磐梯山)で子供たちが失踪する事件があり、その犯人として撃ち殺されたとされる妖怪です。写真24の文章でこの妖怪に特徴について書かれています。少し読みにくいですが、読めるところは読むようにしてみました。

 「背の高さは四尺八寸(約145㎝)ほどで、口は耳まで避けていて大きく、ヒキガエルのようである。尾は1丈7尺(約5メートル)で髪の長さもそれくらいある。針を植えたかのような姿で、水かきがある。身体からする臭さは例えようがない」と書かれてあります。

 妖怪といえば、大きいイメージですが145㎝ほどというのが妙にリアルで怖いですね。絵は著者の手描きで、写真25は写真24の次のページにあたりますが、墨が染みているのがわかります。インターネット上でも検索すればこの妖怪の絵は探せますが、実物でみるとその不気味さが伝わってきます。

 実は2021年8月現在、磐梯山慧日寺(えにちじ)資料館の企画で8月7日(土)から10月10日(日)まで企画展が開かれています。この磐梯山の妖怪は名前がないらしく、会場の応募箱にて名前を募集中とのことでした(★注13)。緊急事態宣言が早く終わったら私も応募しに行ってみたいですね。何にしましょうか。ネズミにも似ているような気もするので「髪長鼠(かみながねずみ)」はどうでしょうか。結果が楽しみです。

 以上、それぞれ異なる五つの和本を見てくることができました。何よりも、国立公文書館ではこうした和本を「小中高生でも閲覧可」ということで、この連載の趣旨にもっとも適した回になった気がします。今回記事を書くにあたって改めて実物の和本に触れることの重要さに気づきました。皆さんもぜひ実物の和本に触れてみてください。閲覧室ですが、現在は密接を避けるため入室制限などがありますから、詳しくは国立公文書館のホームページを確認してみてください。

★注★
注1★テレビ東京「大江戸かわら版ワイドショー」(2020年8月放送)
注2★NHK「幻解!超常ファイル」
注3★レファレンス共同データベースで調べてみたところ2021年の回答で「『弘賢随筆』は国立公文書館の内閣文庫が所蔵している写本(自筆稿本)が一点あるのみ」で現代語訳はされていないとしています。
注4★浅井了意著・江本裕校訂『伽婢子2 東洋文庫480』(平凡社、1988年)168頁。
注5★太刀川清『百物語怪談集成 叢書江戸文庫2』(国書刊行会、1987年)354-355頁。
注6★SPICE「後期展スタート!幕末明治のスター絵師「画鬼・暁斎--KYOSAI」展の画像5/7」2015年8月6日記事より引用。
注7★大野七三『河鍋暁斎 逸話と生涯』(近代文藝社、1994年)203-213頁。
注8★メトロポリタン美術館「菱川師宣画 衝立のかげに 遊女と若衆」
注9★e国宝にて絵巻をインターネット上で閲覧することができます
注10★本田康子「武家の妖怪退治譚―中近世における土蜘蛛退治説話の変容―」(『国文学研究資料館紀要文学研究篇(43)』、2017年)300頁。
注11★生没年こそ未詳ですが、国立公文書館「旗本御家人Ⅱ」で詳しく解説されています。
注12★福井保解題『内閣文庫所蔵史籍叢刊 特刊第二 視聴草 第一巻』(汲古書院、1984年)3-6頁。
注13★磐梯山慧日寺資料館企画展「会津妖怪かわら版」

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今日の和本日記

 今回も読んでくださってありがとうございました。載せるのにずいぶんと時間がかかってしまいました。国立公文書館はなんといっても「小中高生でも自由に和本閲覧可」ということで、この連載の趣旨と最もあう場所だと思いました。「公文書館」という名称から堅いイメージを持たれる方もいるかもしれませんが、絵が入っている和本もたくさんありました!

 国立公文書館にはどんな本があるの?と思った方は、国立公文書館ホームページから過去の展示会のバックナンバーを見て、そこから面白そうな本を閲覧するというのも良いと思います。

 内閣文庫旧蔵本は、冊数にして約半数の画像をデジタルアーカイブで公開しており、いつでも、どこでも、誰でも、自由に、無料で利用することができます。私が今回閲覧した『弘賢随筆』の「うつろ舟の蛮女」『百物語』『源氏一統志』もデジタルアーカイブですべて見ることができますので、ぜひ見てみてください。

 今回、冒頭のマンガで紹介した企画展「文書管理の歴史を紐解く」の内容については詳しく書きませんでしたが、「中世貴族の日記」そして『日本書紀』『古事記』など、教科書や先生の話でしか見たことがない、聞いたことがない本も展示されていて、目が離せませんでしたね。今は展示が終わってしまい、9月25日から「おしゃべりな本たち」展がはじまります。特殊な装丁の本や、豪華なつくりの本など、歴史を「物語る」ような貴重な本が展示される予定です。私も展示会が始まったらまた行きたいと思っています。

 それでは、次回も私と一緒に和本に触れていきましょう!お楽しみに!