榊原理智『文学研究者は翻訳をどう読んでいるのか』より、コラム①「英語で日本文学を教えるということ」を公開します
榊原理智『文学研究者は翻訳をどう読んでいるのか』より、コラム①「英語で日本文学を教えるということ」を公開します。
コラム①
英語で日本文学を教えるということ
勤務先の早稲田大学国際教養学部で担当している授業に、Modern Japanese Fiction in English Translation(英語翻訳で読む日本近代文学)というのがある。前半は森鴎外やら樋口一葉やら夏目漱石を読み、後半は谷崎潤一郎、横光利一、林芙美子、小林多喜二、江戸川乱歩、川端康成を読んでいくことにしている。
試験は、いわゆるEssay Examというもので、学生は私が出したお題に沿って自分のレポートを5日間で所定の字数を書かなければならない。教場試験ではなく、オンラインで提出可能ということにしている。つまりノートも参考文献も見放題。学生は暗記はしなくていいかわり、時間をかけて自分の手持ちの知識を一貫した書き物にしなくてはならない。
この方式は、私自身がアメリカのリベラル・アーツ・カレッジにいるときに初めて経験した。当時はもちろんオンラインなどというものはなく、学生がAIやDeepLでエッセイを作っていたらどうしようという不安もなく、「ワード・パーフェクト」なる、まったくパーフェクトではないワープロソフトでこしらえて、印字して提出していた。
考えてみれば、現在の授業のやり方はほぼ、この時代に私が受けたリベラルアーツ教育の形式を踏襲している。授業を講義セクションと議論セクションに分け、講義は私が喋るが、議論セクションでは学生に喋らせる。小グループで話し合わせる場合もあるし、話した結果を教室で発表させる場合もある。だから学生は授業までに課題の小説を読んでこなくてはならない。講義で説明だけして、学生に実際の作品を読ませないような授業はあまりしたくなかった。どんな形であれ学生が実際に文学作品を読むこと、それが学部教育では重要だと考えているからだ。
幸い、真面目な学生が比較的多い大学にいるので、課題に出されれば学生たちはちゃんと読んでくる(と思う...)。授業には、英語翻訳しか読むことのできない学生、多少の日本語はできる学生、日本語が第一言語である学生、日英両方とも第一言語ではないが別言語の翻訳を読むことができる学生など、それぞれの言語資本がバラバラな学生がいる。共通言語は英語だから、講義は英語、日本文学の授業だけど、課題はすべて英語である。
「日本文学を英語で教える」というのは、もちろん「日本文学を日本語で教える」というのとはまったく違う。なにが違うといって、そもそもテクストが違う。「舞姫」という作品を読むのではなく、"The Dancing Girl" という作品を読むのである。「舞」と「Dance」は違うし、「姫」と「Girl」の間にもかなりの開きがある。これらは重なりながらもそれぞれに異なる意味領域を持っている。つまり、一語ずつ大なり小なりずれが生じるのだとすると、そのずれは作品の長さの分存在しているわけだ。そう考えてみると「違い」の大きさが想像しやすいかもしれない。
確かに要約すれば、お話の筋は同じだが、逆にいうと粗筋くらいしか同じものはないといってもいいくらいだ。物語のパターンにさほどヴァリエーションがないことは、世界の昔話が同じようなパターンを持っていることでもわかる。だから、意味や音の集積として考えると、「舞姫」と"The Dancing Girl"の間には気が遠くなるほどの違いがあるが、物語のパターンとしてはそれなりに理解可能だ。
この授業はアメリカの大学のいわゆるSurvey Courseと言われる、ある国の文学の主要作品を読んでいく構成になっている(これを昨今は非常に保守的で抑圧的なものと指弾する向きがあるが、それに関してはまた別の議論になるべきだろう)。その際には、アメリカの例に倣って、「ずれ」に関してはほぼほぼ封印している。学生には原文を意識させることなく、英語の翻訳を"The Dancing Girl"=「舞姫」として読ませている。
本当はこのイコールの間に「翻訳」という作業が入っていて、そこには多大な労力と知識と政治的諸事情と経済的諸事情と文化的もろもろが渦巻いているのだが、それはいったん無視するのである。翻訳論でよくみられる比喩を使うなら、この授業では翻訳を透明なものとして扱っていると言えるだろう。
Lost in Translationという言葉がある。コッポラの映画のタイトルにもなったが、翻訳される過程で途中で失われていく、オリジナルにおける意味を指す。原文にはあったはずのなにかが、翻訳された文章からは失われている。これは、映画であれ文学作品であれ、原文と翻訳を比べてみたことがある人なら、よくわかる感覚だろう。原作を細部まで楽しんだ人ほど、こうした感覚に囚われるものだ。サブカルチャーの世界では「原作厨」というらしいが、日本文学の名作は、それが神聖なもの、全知力をかけて読み解くべきもの、あるいは、感覚を研ぎ澄ませて味わうべきものと一般に考えられてきたものだからこそ、翻訳を読むと「あ、あれがない、これもない」と感じて、Lost in Translationポリスと化してしまう。
これは翻訳に向かう姿勢としてある場面では有益であるのだが、それだけになってしまうと翻訳という作業が持つ可能性が限定される危険がある。翻訳研究でよく指摘されるように、神聖なものとして原文を祀りあげることは、それ以外の翻訳をただの劣化コピーとして扱うことになる。劣化コピーを読む読者はそもそもが悪いものを読んでいるので、まともな読解に到達するはずがないという思い込みも生む。翻訳しか読めない読者は、もう絶望するしかないのだろうか。いや、そんなことはない、というのが私の見解だ。日本の「神聖な」名作を読んでいくこの授業においても、私は積極的に"The Dancing Girl" や"The Tower of London" や"Child's Play" でしかできない読みをする。そうすること、つまりLost ではなくてAdded in Translation(翻訳によって追加されたもの) が「舞姫」や「倫敦塔」や「たけくらべ」を別の読みの地平に拓くかもしれないではないか!
やや大袈裟な話になってしまったが、一つ例をあげておこう。
Natsume Sosekiの"The Tower of London"は、夏目漱石の「倫敦塔」にはない区切りがたくさんある。全体が9つのセクションに分けられているのである。「倫敦塔」では改行こそあるものの、過去と現在が切れ目なく混じりあい、留学生の旅行記のように始まった文章がいつのまにか漱石の幻想の世界に遊んでいて、またいつのまにか文章を書いている作者の意識に着地しているといった具合だが、"The Tower of London"の方は区切りごとに場面が変わっているように感じる。
特に顕著なのは、最後の2章である。
「倫敦塔」では「余の洋袴の膝に二三点の血が迸ると思ったら、すべての光景が忽然と消え失せた」となっている箇所で前章が終わり、第9章が始まる。"The Tower of London"の第9章は「あたりを見廻わすと男の子を連れた女はどこへ行ったか影さえ見えない」から始まり、「また再び見物に行かない事にきめた」までが入っており、幻想から覚醒する場面と、「二十世紀の倫敦人」たる宿の主人と会話を交わす場面が一かたまりになっている。「倫敦塔」では漸進的にまわりを知覚していくのに対して、"The Tower of London"では「覚醒」とでも名付けられる章が存在している感じである。
さらに"The Tower of London"では最終章が Postscriptというセクションになっているのが特徴的である。あたかもこの幻想的旅行記は宿の主人との会話をもって終わりとなり、そこから切り離れた別種の書き物(パラテクスト)が付随しているかのようなのである。そのために、"The Tower of London"の末尾は、書き手の意識が二段階になっているようにみえる。現実へと覚醒した語り手、そして書き物全体を俯瞰しメタ的なコメントをする、より作者に近いもう一人の語り手である。Postscriptは全体のメタフィクション的な構成を強調する役目になっているわけだ。
私が講義でこのメタフィクション構造を説明すると、「倫敦塔」を読んできた学生はかなり戸惑う。澱みなく読めてしまうが故に、「倫敦塔」ではそうした構造が明確にあるかどうかすら怪しいのだ。章分けをすることによって"The Tower of London"は、「倫敦塔」ではほの見えているくらいであった構造を輪郭が明瞭なものにした、つまりなにかを「加えた」ことになる。
このような追加部分を、原文への冒涜とみるか、あらたな創造とみるかで、翻訳の捉え方は大きく異なってくるが、どちらの態度が正しいかと問うのはあまり生産性がない。場合による、としか言いようがないからである。授業においては、翻訳理論は扱わないので先で述べたようなことに考え及ぶ学生はほぼいない。私の説明を「ほう、そういうものか」と聞いているだけである。
ただ、私も授業のなかで翻訳によって失われるものにまったく言及しないわけではない。明治30年ごろまでの文学作品を扱っていると、英語翻訳では見えなくなってしまう重要な部分がある。文体である。「舞姫」と「たけくらべ」を読んだ人ならすぐにわかる漢文脈と和文脈の違いは、"Child's Play"と"The Dancing Girl"には反映されてこない。日本語の標準化・近代化の試行錯誤の時期に存在していた多様な文体は、完全にかき消されてしまう。
授業で原文を読むことはないが、知識としては定着させるように心がけている。講義で説明し、試験にも出す。そうしておけば、そのうち彼らのなかの一人でも、自分は"Child's Play"は読んでいても「たけくらべ」は読んでいなかったと気づいて、そのページを開いてくれるかもしれない。
本書の詳細はこちら。

榊原理智『文学研究者は翻訳をどう読んでいるのか』(文学通信)
ISBN978-4-86766-130-7 C0095
四六判・並製・272頁
定価:本体3,800円(税別)


























































































