俳文学会東京研究例会第485回(2026年5月23日(土)午後2時30分~午後5時、江東区芭蕉記念館会議室)

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○塚越義幸氏「「漢俳」をどう捉えるか―実作と翻訳と―」

「漢俳」は一九八〇年に日本の俳人訪中団に対して、趙樸初が五七五の詩を送り、その中に「和風起漢俳」と詠まれていたことから、一般化されるようになった。中国では日中の文化交流から生まれ、俳句を踏まえた現代詩として捉え、中国独自の俳味を生かして創作し、その際近体詩の押韻・平仄に拘らす、自由詩としての三行詩への変遷をも認める存在となっている。本発表では、このような「漢俳」を特に日本人がどう捉えるかについて、実作品を踏まえて実作方法や翻訳の実態などの観点から考察してみたい。


○佐藤淳子氏「上総の女性俳人「織本花嬌」」

花嬌は名を園と言い上総の国西川村(現君津市)の里正小柴庄左衛門の家に生まれ、後に富津村(現富津市)の里正織本嘉右衛門(後に永祥と称す)俳名砂明に嫁した。砂明の家は海運業の他に酒造業、と金融業を兼ねて経営していた。夫砂明は大島蓼太に師事しており、花嬌は夫に従って蓼太に入門。蓼太から「花嬌」の俳号をあたえられたという。後に娘曽和が誕生。曽和の発句も蓼太等による寛政四(一七九二)年刊『蕉翁百回追善集』に「女曽和」として入集。やがて曽和は婿(俳名子盛)を取るが、子盛は俳諧においては晩成で、義母花嬌死の前年の対潮庵句会からであった。花嬌は寛政六(一七九四)年の夫没以降別邸「対潮庵」で隠居生活を送る。太潮庵では蓼太等と共に句会にいそしみ文化七(一八一〇)年五五歳(推定)で没している。句集としては死の前年の文化六(一八〇九)年、尼貞印との七日間の旅(姉ヶ崎から江戸品川へ)を編んだ紀行句集『すみれの袖』がある。
花嬌と一茶についてであるが、出会ったのは文化三(一八〇六)年とも寛政初期(一七九〇年頃)ともいわれている。
本発表では『花嬌発句注釈稿』を目指し花嬌の年譜を基準に発句の七点を上げ、注釈を行う。以後これを足掛かりに花嬌の玄孫織本泰氏によって編まれた『花嬌遺稿』、前出紀行句集『すみれの袖』等の発句注釈を進めたい。