栃木県県立美術館:水墨の魔術師 浦上玉堂 真の文人画家、ここにあり 岡山県立美術館コレクション(2024年10月26日(土)~12月22日(日)、企画展示室)

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展覧会情報です。

●公式サイトはこちら
https://www.art.pref.tochigi.lg.jp/exhibition/t241026/index.html
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※詳細は上記サイトをご確認ください。

水墨の魔術師
浦上玉堂 真の文人画家、ここにあり
岡山県立美術館コレクション
―倉敷大原家伝来受贈作品 関東初公開!

浦上玉堂(1745−1820)は武士でした。その玉堂をなぜ「真の文人画家」といえるのでしょうか。ちょっと横道に逸れますが、「南画」という少々厄介なジャンルがあります。一般的には「中国の南宗画に由来する江戸時代中期以降の画派・画様の用語であり、文人画ともいう」と説明できます。つまりは、「南画」とは中国の「南宗画」を画家が真摯に受容し、そこに日本的な解釈を加味することによって成立したジャンルであり、「文人画」ともいうのだと。
 はて?それでは「文人画」ともいわれるのはなぜなのでしょうか。「南宗画」の受容期であった18世紀初頭以降、儒教や禅宗、漢籍文が流行し発展していきます。そして、それを担うさまざまな階層の「文人」と呼ぶにふさわしい人物たちと「南宗画」から発した「南画」との結合がその流行を促したのです。ただ、「文人」であり「画家」であり、さらに「士大夫(高級官僚)」でもあるという階層は、日本にはありませんでした。ですが、「文人」の多様性を前提として、中国とは異なる側面を意識し、その継承と独自性を併せて強調するならば「文人画」という言葉は非常に有効なものとなるでしょう。
 玉堂は、岡山藩の支藩鴨方藩士として勤務していました。戦いのない時代ですから、その仕事は藩主や領民のためであり、まさに役人(官僚)であったといえます。江戸詰めも経験し、多くの著名な儒学者や初期文人画家・中山高陽(1717−1780)や北山寒巖(1767−1801)、木村蒹葭堂(1736−1802)、司馬江漢(1747−1818)らとも交友しました。また、琴の名手でもあった玉堂は、しばしば雅会を主催して自ら弾琴し、詩を詠み、それを揮毫し、七絃琴の製作までもしていました。となれば、玉堂を「文人」と呼ばずして何と呼ぶのでしょうか。そして玉堂は、50歳の時に全ての役職を捨て、各地を遊歴しながら本格的に絵を描くようになったのですから、まさに「真の文人画家 浦上玉堂、ここにあり」でしょう。
 倉敷の素封家大原家からの受贈作品を含めた約90点による玉堂の画事をたどる旅に是非ともお越しください!

会 場: 企画展示室
開館時間: 午前9時30分から午後5時(入館は午後4時30分まで)
休館日: 月曜日、11月5日[火][11月4日は開館]
観覧料: 一般 1,200(1,000)円、大高生 600(500)円、中・小学生以下無料
*( )内は20名以上の団体料金
無料日: 11月3日[日]文化の日
主 催: 栃木県立美術館
特別協力: 岡山県立美術館
後 援: 朝日新聞宇都宮総局、宇都宮コミュニティ FMミヤラジ、NHK宇都宮放送局、株式会社エフエム栃木、産経新聞社宇都宮支局、下野新聞社、東京新聞宇都宮支局、株式会社とちぎテレビ、株式会社栃木放送、毎日新聞宇都宮支局、読売新聞宇都宮支局