古代文学会5月例会(第796回)(2026年5月9日(土)午後2時~5時、共立女子大学2号館605教室+Zoom)
研究会情報です。
●公式サイトはこちら
https://kodaibungakukai.sakura.ne.jp/wp/kenkyuuhappyoukai/reikai
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※詳細は上記サイトをご確認ください。
日時:5月9日(土)午後2時~5時 (例会終了後、委員会を開きます)
※Zoom開始時刻は発表開始の15分前となっています。
【対面】
会場:共立女子大学2号館605教室
東京メトロ半蔵門線・都営地下鉄三田線・都営地下鉄新宿線「神保町」駅下車 A8出口から徒歩1分
東京メトロ東西線・半蔵門線・都営地下鉄新宿線「九段下」駅下車6番出口から3号館まで徒歩2分、本館まで徒歩5分
東京メトロ東西線「竹橋」駅下車1b出口から徒歩3分
https://www.kyoritsu-wu.ac.jp/access/
【Zoom参加方法】
①参加登録ページで登録してください。
https://nihon-u-ac-jp.zoom.us/meeting/register/RigmTT50RS64hCzAk1xJ_w
②登録が済むと、ミーティング参加用URLなどの情報の確認メールが届きます。
③発表資料は例会の前日にアップロードされますので、以下のGoogle DriveのURLよりダウンロードしてください。(資料の著作権は発表者に属します)
https://drive.google.com/drive/folders/1DmAKoXsfrmX3S8aZhQbYYPeJcNLgkvK8?usp=sharing
④開催時間にメールに記載された参加リンクをクリックして、ご参加ください。
発表者:居駒 永幸 氏
題目:い伐らずそ来る 梓弓檀――敗死する皇子の[歌と散文]――
要旨:『古事記』の[歌と散文]のあいだには、矛盾やずれがあって意味が通らないとされてきた箇所がある。応神記の「い伐らずそ来る 梓弓檀」(記51)はその読み解けない表現の一つである。この歌は大山守命を死に追いやった弟王、宇遅能和紀郎子が、兄王の死の場面でうたったと書かれている。『古事記伝』はこの歌の「い伐らむと~心は思へど」の四句を「大山守命を、殺さむとは思へどもと云ことの譬へ」とし、「此の御歌は、大山守命を、檀の木に譬へてよみ給ふ」と説く。それが通説化し、「伐る」を「殺す」の比喩とみて殺さないで来たという意に解するので、歌の前の散文「骨を掛き出しし時に」(兄王の死体を河から引き上げた時に)とのあいだに矛盾が生じることになる。散文で「其の屍を視して」とする仁徳即位前紀の対応歌(紀43)においてもこの矛盾は解消しない。
それでは、歌の「い伐らずそ来る」と散文の「骨を掛き出しし時に」のあいだに通説とは別の解釈がありうるのか。この歌は通説の兄王を殺さずに来るという意ではなく、檀の木を伐らないで来ると歌詞の通りに読み取れば、最初から矛盾は生じない。ただその場合、「苛なけく」「悲しけく」の哀惜の表現がどのような理解のもとに檀の木とつながるのかという問題がある。つまり、哀惜の対象としての檀の木のとらえ方である。そこで、大山守命を檀の木に譬えたとする『古事記伝』の指摘についてあらためて検討し直さなければならない。檀の木に大山守命を重ね、その死を哀惜するとはどのような理解、あるいは古代的な観念のもとに可能なのかという点について、この歌の構造から読み解く必要がある。
以上の考察は、応神記において宇遅能和紀郎子の歌がどのような意味をもつのか、さらには『古事記』(『日本書紀』も同様)に敗死する皇子の[歌と散文]がなぜあるのかという課題と深く関連する。
(司会:猪股ときわ 氏)
※なお、発表資料及び要旨の著作権は発表者に帰属します。
◎次回以降の発表者
6月6日(土):長 見菜子 氏
















































































