はじめに(後藤 真)★『歴史情報学の教科書』全文公開

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はじめに

後藤 真


1. 瀬戸際の人文学
 「人文学の危機」が叫ばれて久しいが、そこから改めて人文学の可能性も議論され始めている。
 いわゆるAIの倫理問題への貢献や、2015年9月の国連サミットで採択された「持続可能な開発目標」(通称SDGs。「持続可能な開発のための2030アジェンダ」に記された具体的行動指針)への貢献なども含めた人文学への「期待」は、可視化されつつある。しかし、日本におけるその「期待」は「ラストチャンス」ではないかという指摘もある。現在は、危機は続いているとともに、危機が現実になってしまう瀬戸際にあるのではないだろうか。
 わたしは、以前、本書と同様の教科書として『情報歴史学入門』(金壽堂出版、2009年)という書籍の執筆に関わったことがある。その中の「はじめに」で、「『歴史学なき歴史』が広まり、学問に基づいた社会的判断ができなくなるのではないか」という危惧を示した。あれから10年。その危機感は本質的には変わっていない。研究者の側からも、同様の危機感から実際的な提言を行う場面も現れており、そのこと自体には、敬意を表する。その一方で、学問の基盤が崩れていき、その結果「学なき」状況が来ることを憂うのである。これは、歴史学だけではなく、さまざまな学問でも同様であると考える。
 そして、この憂いの原因は、社会の側にのみあるのではない。日本の人文学を行う側が、旧態依然たる速度感にとどまり、国内外からの「見える化」への要請に対応しきれていない部分があると考えている。かつて人文学に権威があったとされる時代、その知見を書籍などのさまざまなかたちで可視化し、社会の深層部でコミットすることでそれを担保できていたのではないだろうか。社会がより複雑化し、研究が細分化した現在、社会の深層にコミットする成果を一朝一夕に出せるとは考えていない。ただ、デジタル時代になり、「見えるもの」のゲームチェンジが行われつつある状況で、「見せるもの」だけでも変えることで、人文学の権威はともかく、そのありようだけでも見せられるようになるのではないだろうか。
 しかし、実際にはそれらのゲームチェンジに日本の歴史学が対応しているとは残念ながらいいがたい部分がある。歴史学の成果を公開する媒体そのものが変化しない中で、それらの「良質な情報」にアクセスできる人びとは高齢化し、人口減少の中で着実にその基盤が揺らぎつつある。その一方で新たな「社会」「メディア」の側では歴史学に基づかない情報が氾濫するとともに、むしろ歴史学などの関与が遠くコントロールできない中で「良質な情報」となるものすら生まれつつある。結果的にさまざまな文脈において歴史学は厳しい状況に置かれつつある。学会への参加者の減少や、大学における歴史学の講座が継続されないことなどは、まさにその端的な状況を示しているといえるであろう。

2. 人文学の「可能性」にかける
 わたし自身は、歴史学という学問そのものの重要さについては、疑ったことはない。しかし、学問が重要であるということと、その個別の手法が重要であるということや、その手法を支えるメディアが重要であるということは、すべて位相が異なるのである。学問そのものを守るために、新たなメディアや新たな手法を広く取り入れ、「複線化」を図ることは有益であると考えている。
 一般的には、歴史学を含む人文学は生命の維持に直結しない学問であるという言い方をされることがある。しかし、実際には、そうとも言い切れないのではないかと最近は考えている。人文学は社会そのものを考え、社会のあるべき姿を考える学問である。そして、これらの人文学の成果が社会に展開されないということは、社会的な矛盾や課題を解決できないということにもつながる。場合によっては、光が当てられなければならないマイノリティなどが圧殺されるような事態につながり得る恐れすらある。そのように考えれば、人文学や社会科学は人の生命を、それも大量の人の生命の維持を担う学問であるといってよい。
 人文学や社会科学は、社会を支える必須の学問であるとともに、「可能性」を持っているのだ。
 わたし自身は、そのような人文学の「可能性」にかけている。可能な限り「人文学を可視化」させるための研究の基礎に、人文情報学が貢献することを切に願うものである。

3. 学問自体を「場」として設定する
 わたしは現在、国立歴史民俗博物館(歴博)が行うプロジェクト「総合資料学」に携わっている。本書はこのプロジェクトをベースに作られたものだ。歴史資料への人文・社会科学と自然科学の分析について、さまざまな学問分野からの統合的アプローチによる研究を行うことを通じて、異分野連携・文理融合を図り、新たな知の発見につながる学問分野を創成していこうとするものである(詳細は「おわりに」を参照)。
 この「総合資料学」の最大の特徴は、学問自体を「場」として設定していることにある。歴史に関わり、複数のディシプリンを持ったものが集まり、ある問題を解決するために議論をし、その中から成果を作り出していくのである。異分野融合や異分野連携、といった言葉は、近年特に人文学をめぐる場の中でよく出てくる。このような分野融合が本質的に意味するのは「課題解決」を行うための「手段」である。しかし、歴史を題材として解決すべき課題は多岐にわたり、ひとつの融合が解決できる方法には限度がある。また、先に触れたSDGsでは、人文・社会の知見と、自然科学の知見の連携による課題が求められているが、この課題も非常に多彩であり、例えば○○学と歴史学の融合ですべてが解決するというものではない。そのため、複数の手段を駆使することで、新たな歴史像に迫ることこそが、本来の目指すべき姿であるといえよう。ある課題に対して、複数の「連携」を行うことで、課題解決を実施することが求められている(無論、この課題は単なる社会の解決に直結するものだけではなく、純粋に学問的な課題もある)。
 そのため、「総合資料学」はそれらの複数の課題解決の「場」であるべきではないかと考えた。歴史資料を対象として、課題を設定して複数の学問分野の研究者が集う場が必要ではないかと。
 そして、その場のプラットフォームとして情報基盤の構築が必要である。それは、デジタルの時代に基礎となる資料の情報を共有し、そこからの解釈を共有し、成果を共有することが、異分野連携の第一歩だからである。また、それらの成果が、オープンに参照され、新たな資料となり、新たな研究の資源となることが求められている。これらのプラットフォームがあって、新たな異分野連携の場が作られるのである。
 そして、このプラットフォームの構築と活用には、人文情報学の知見が欠かせない。人文学に関わる資料を「正しく」知り、それをデータとして構築することのできる技法がなければ、学問として使うことのできるデータにはなり得ないのである。とりわけ、人文学の手法は、ひとつひとつの精緻な検討と、大きな学問のデザインという点に特徴がある。そのような精緻さを担保するのが、このようなデータ構築なのである。
 このような手法は、無論、情報学との連携を欠かすわけではない。情報学のさまざまな手法は、人文学の可能性を大きく増やすとともに、人文学は「何をやってきたのか」を問い返す鏡となり得る。情報学の技法を取り入れ、分析・処理を行いつつ、人文学の知見をもとにデータを構築し、多様な分野のプラットフォームとなることが、「総合資料学」の目指すところである。その道のりは簡単ではない。しかし、その試みを行い、人文学研究とともにデータを構築し、人文学を研究する研究機関がそのかたちを出すことによって、その未来を少しでも切り開くことができるのではないだろうか。本書はそのための良き案内となるはずである。

4. 本書の読み方
 この『歴史情報学の教科書』は全10章で構成されている。基本的には、最初から順番に読めるように構成されているが、第2章から第8章は、それぞれ独立した章としても読むことができる。とりわけ第2・3・4・7・8章は、歴史資料のデータを情報化し、それらを活用するための手法が書かれている。それぞれの研究の目的に合わせて読んでほしい。また、コラムは、比較的進展したものを入れているので、少し難しい概念などに挑戦するという観点から読むといいだろう。さらに、本書の最後には、用語集・学会や雑誌の案内・関連する大学案内などを付録としている。随時、これらの情報を参考にしながら読み進めてほしい。
 本書は、主にさまざまな歴史資料をデータ化し、それを発見するという観点を中心に作られている。この理由は第1章にも書いたが、具体的な解析手法について、特に歴史資料を対象にしたものについては研究が安定していない部分もあり、現時点では記述が少なくなっている。
 今後も、いくつかアップデートをしていく予定ではあるが、まずは歴史資料の情報化に関する研究のうち、特に比較的安定した成果を出している部分を中心に掲載している。
 また、第9・10章では、歴史情報学の現在と未来を広く書いている。特に第10章は、歴史情報学を志す皆さまにとって、自身がどのように今後の研究を進めていくのか、どのような視点を持てば最終的な成果(論文や学会発表)になるのかなどのヒントを書いている。個別の章を読んだあとに、ぜひ第10章を読み、ご自身の成果につなげられるようにしてほしい。


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【全体目次】

トップページ

ご挨拶○新たな学の創成に向けて(久留島 浩)
はじめに(後藤 真)
chapter1 人文情報学と歴史学
後藤 真(国立歴史民俗博物館)
chapter2 歴史データをつなぐこと―目録データ―
山田太造(東京大学史料編纂所)
chapter3 歴史データをつなぐこと―画像データ―
中村 覚(東京大学情報基盤センター)
●column.1 画像データの分析から歴史を探る―「武鑑全集」における「差読」の可能性―
北本朝展(ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター/国立情報学研究所)
chapter4 歴史データをひらくこと―オープンデータ―
橋本雄太(国立歴史民俗博物館)
chapter5 歴史データをひらくこと―クラウドの可能性―
橋本雄太(国立歴史民俗博物館)
chapter6 歴史データはどのように使うのか―災害時の歴史文化資料と情報―
天野真志(国立歴史民俗博物館)
●column.2 歴史データにおける時空間情報の活用
関野 樹(国際日本文化研究センター)
chapter7 歴史データはどのように使うのか―博物館展示とデジタルデータ―
鈴木卓治(国立歴史民俗博物館)
chapter8 歴史データのさまざまな応用―Text Encoding Initiative の現在―
永崎研宣(人文情報学研究所)
chapter9 デジタルアーカイブの現在とデータ持続性
後藤 真(国立歴史民俗博物館)
●column.3 さわれる文化財レプリカとお身代わり仏像―3Dデータで歴史と信仰の継承を支える―
大河内智之(和歌山県立博物館)
chapter10 歴史情報学の未来
後藤 真(国立歴史民俗博物館)
おわりに

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