古代文学会2月例会(第793回)(2026年2月7日(土)午後2時~5時、二松学舎大学 九段校舎1号館2階201教室+Zoom)※Zoom参加は要申し込み
研究会情報です。
●公式サイトはこちら
https://kodaibungakukai.sakura.ne.jp/wp/kenkyuuhappyoukai/reikai
--------------------
※詳細は上記サイトをご確認ください。
ハイブリッド開催といたします。
日時:2月7日(土)午後2時~5時 (例会終了後、委員会を開きます)
※Zoom開始時刻は発表開始の15分前となっています。
【対面】
会場:二松学舎大学 九段校舎1号館2階 201教室
発表者:工藤 怜 氏
題目:石見相聞歌 第一歌群の表現の必然性
要旨:当該歌群の題詞は、「柿本朝臣人麻呂従石見國別妻上来時歌二首〔并短歌〕」とあるように、「上来時」という表記が含まれている。この「上来」という表記を持つ題詞は集中に石見相聞歌以外には三例しか見られない。
集中の旅の歌は、家人が旅人の帰りを待つことで、旅の安全を保障するという発想によって成立している。この家人とは、帰るべき場所である家で待つ妹のことである。しかし、当該歌群の題詞の「上来」が示す状況は、「旅人が赴任地から大和へ帰還する際に残される女」が存在していることであり、その女は家人ではないということである。このように当該歌群は旅の歌の一般的な発想でつくられたものではないことから、表現についてもその一般性から離れた視点で捉える必要があるのではないだろうか。
例えば、当該歌群長歌の「妹が門見む」を取り上げると、遠い妹がいる里を旅人が見ようとする時に用いられる表現は、集中では「妹があたり」が一般的であり、類型表現となっている。しかし、当該歌は、「妹があたり」を見ようという表現とはならず、「妹が門」を見ようとする表現となっている。ここに当該歌独自の言葉の用法を見ることができるのである。「浦や潟がない」と表現することや、「荒磯の玉藻」「朝羽振る」「夕羽振る」「夏草の思ひ萎えて」もまた、集中に見える一般性を裏切る形で表現されている。これらに対して一つ一つ表現分析を実施し、全体の中でその表現が選び取られる必然性について考察していく。
長歌の最後の句である「靡けこの山」については、集中で「靡く」という動詞は多く草や藻のような植物に用いられ、山に対して靡くと用いているのは当該歌を含め四首(一三八、三一五五、三二四二)しかない。集中では「靡く」を用いた歌の中には「心が(だれそれ)に寄る」といったように、心が妹や君に寄るという好意の方向性を表す類型表現が存在している。このことから、妹の待つ門を見ようとして、眼前の山に対して「靡け」といった時、その山の靡き方は旅人から妹へ靡くことを想定されなければならないはずである。そのような山を動かすほどの思いを表現せねばならないのは、題詞の「上来」にもあるように、帰る家にはいない妹との今生の別れの場面であるからであろう。
帰るべき家に居る妹を思う旅人ではなく、別れてきてしまった妹を思う旅人を描くために、一般的な用法・表現の発想の部分を踏襲しながら、その一般性をあえて外していく作意に注目することで当該歌群の再解釈を試みる。
(司会:猪股 ときわ 氏)
※なお、発表資料及び要旨の著作権は発表者に帰属します。








































































