六朝学術学会第46回例会(2025年3月15日(土)13:00~17:00、國學院大學渋谷キャンパス5号館3階5301教室+オンライン)※要申込
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六朝学術学会第46回例会
日時 3月15日(土)13:00~17:00
場所 國學院大學渋谷キャンパス5号館3階5301教室
次第 会長挨拶 東京女子大学名誉教授 安藤信廣
趣旨説明 総合司会:東京大学教授 齋藤希史
「万葉集を注釈してわかったこと―皆さんにお知恵借りたいです―」
國學院大學教授 上野誠
「石に刻まれた思い―六朝文学の境をめぐって―」
明治大学等非常勤講師 会田大輔
「六朝隋唐仏教史に関する近年の研究動向」
京都大学人文科学研究所准教授 倉本尚徳
「『万葉集』と六朝文学――大伴旅人と「竹林七賢」のことなど」
東京女子大学名誉教授・六朝学術学会会長 安藤信廣
全体ディスカッション ディスカッサント:東京大学教授 谷口洋
閉会の辞 文教大学教授 坂口三樹
■要旨
○上野誠「万葉集を注釈してわかったこと―皆さんにお知恵借りたいです―」
もっとも日本的と言われる万葉歌は、じつは最も中国的とも言える。さらに、言いたいのは、もっとも六朝的な文芸かもしれない。
これだけ、学際的にと言われていても、なかなかその壁は高い。巻5は、大宰府と平城京の往復書簡文芸の巻だが、注釈しつつ、己の中国文芸の知識のなさを何度嘆いたことか。
当日は、その注釈稿の一端を示しつつ、上野はこう考えますが、どう考えたら良いですか、と問いつつ、ざっくばらんに話をしてみたい。
「右書左琴」の墓誌の出土や、「黄葉」墨書土器の出土など、発表者からも、我々が共有すべき情報を出したい、と思う。
中華文明圏の辺境に咲いた、万葉の花について、楽しく語り、ざっくばらんなご教示を仰ぎたいと思う。
○会田大輔「石に刻まれた思い―六朝文学の境をめぐって―」
南北朝時代史の研究を進める際には石刻史料の分析が欠かせない。では、六朝文学研究ではどうだろうか。中国では墓碑・墓誌の文体や内容に注目した文学研究が行なわれている。日本でも庾信のように著名な文人の撰した墓碑・墓誌については分析されている。ただ、墓碑・墓誌の多くが撰者不明であり、紋切り型の内容も多いため、文学研究の対象となりにくいことも確かである。
しかし、墓誌・墓碑は遺族の意向で作成されており、故人に対する強い思いが込められていることもある。ここに文学的価値を見出すこともできよう。また、撰者不明あるいは無名の官僚が撰した墓誌から、六朝文学(特に一流作品)の拡散・浸透をうかがうこともできるのではないだろうか。
墓碑・墓誌と並んで重要な石刻史料が造像銘である。仏教・道教が流行した南北朝時代には高官から民衆まで作成しており、人々の切なる願いや思いが込められている。しかし、造像銘は文学研究の対象となっていないように思われる。果たして造像銘を文学研究の対象として取り上げることは可能なのだろうか? 文学と非文学の境はどこにあるのだろうか。
○倉本尚徳「六朝隋唐仏教史に関する近年の研究動向」
当該分野における近年の主な研究動向として,以下の三点を指摘したい。第一は新たな資料を用いた精緻な文献研究である。日本の古写本、敦煌出土文献や石刻資料に関して,デジタルアーカイブや資料集が続々と公にされている。近年の研究動向としては,それらの資料を縦横に活用し,文献の成立・増補・削除の過程,あるいは隠された史実の解明を行う精緻な研究が進展している。
第二は,中国一国の枠組みを越え,インド・中央アジア,日本を含めた東アジアといった広い視野で文化交渉史として行う研究が盛んなことである。この方面では特に考古・美術史の研究が成果を挙げている。
第三は,皇帝にかかわる祭祀・儀礼研究の近年における進展と同様に,仏教史研究においても戒律や儀礼など実践にかかわる研究が進展していることである。それらの成果をふまえて,仏教が中国社会に受容される過程に関しても,儒教に代表される既存の在来文化と佛教という外来文化とを二項対立的にとらえる見解の見直しも進んでいる。
○安藤信廣「『万葉集』と六朝文学――大伴旅人と「竹林七賢」のことなど」
『万葉集』の歌人たちの多くが漢文の素養を持っていたことは、既に明らかになっている。中でも大伴旅人(665-731)は、漢文の教養の深い人として知られている。旅人の周辺には、山上憶良、吉田宜ら、漢文とかかわりの深い人々が多かった。彼らは作歌にあたって、漢詩・漢文、特に六朝文学とどのように向きあったのか。2、3の例をあげて、考えてみたい。
大伴旅人の大宰府時代(大宰帥在任時代。728春-730冬)は、多難だった。私人としては、妻や近親者の死が重なった。公人としては、奈良の都で起きた「長屋王の変」(729春)と、それ以後の政治状況にどう対処するかという問題があった。この時期の旅人の歌は、「竹林七賢」への関心を強く示していると思われる。その理由と、和歌による表現の仕方の特徴を、提示する。「讃酒歌(酒を讃むる歌)十三首」(巻三338―350)、「梧桐日本琴」の歌(巻五810-811)等を、主にとりあげる。
漢文・漢詩の世界を、和語による歌にどう取りこむか。旅人らの大きな問題だっただろう。その答え方の特徴を、旅人を中心に示し、周辺の歌人にも言及する。