福岡市博物館:企画展示「黒田家名宝展示ふたたび ―書跡・絵画・文芸編―」(2024年4月2日(火)~6月2日(日)、福岡市博物館 企画展示室1 )

このエントリーをはてなブックマークに追加 Share on Tumblr

展覧会情報です。

●公式サイトはこちら
https://museum.city.fukuoka.jp/exhibition/608/

--------------------
※詳細は上記サイトをご確認ください。

この展示は約過去5年の間に黒田家名宝展示で公開した資料の中で、福岡藩主の書跡・絵画・文芸関係のものをあらためて紹介するものです。もとは名宝展示として企画展示室2黒田記念室の一コーナーで、一つのテーマごと、別々で展示したものです。今回企画展示室一部屋を使用し、一堂に集めて展示します。それによって、各時代の藩主の文化活動の移り変わりやつながりなどを、藩政などの背景を含めて、改めてご紹介します。

黒田如水之和歌と文芸
 福岡藩祖(ふくおかはんそ)・黒田孝高(よしたか・官兵衛・後の如水・1548~1604)は知勇兼備(ちゆうけんび)の武将として、織田信長(おだのぶなが)や豊臣秀吉(とよとみひでよし)の傘下で活躍(かつやく)します。彼は幼いころから和歌を学び、成長後は当時も盛んだった連歌(れんが)にも親しみました。慶長(けいちょう)5(1600)年の筑前(ちくぜん)入国(にゅうこく)後は、息子の長政(ながまさ)(1568~1623)や家族と、大宰府(だざいふ)の連歌師(れんがし)を交えた連歌会を催しました。ただ現在黒田家に残る如水の和歌は、古典的な文芸作品というより、大名として家臣の上に立つ者が、心得ておくべき教訓(きょうくん)を読み込んだものが多くのこされています。

福岡藩主の奉納・興行連歌
 如水は一時大宰府に隠棲(いんせい)し、大宰府の連歌屋を復興しました。有名なのは、如水の「松むめ(梅)や」で始まり、「福岡」という地名が最初に現れる「如水夢想之連歌(じょすいこうむそうれんが)」で、初代藩主長政一族の連歌です。如水死後も福岡城内での正月の連歌会は年中行事となり、連歌好きの二代藩主忠之(ただゆき)(1602~54)の時代には連歌会が年3回も催(もよお)され、連歌会に忠之自らも一人の読み手として登場しますが、次第に連歌師に代作させ、会も儀式的なものになります。忠之を継いだ3代藩主光之(みつゆき)(1628~1707)は、年1回の公式連歌会「松の連歌」を定めました。

黒田主光之の二つの肖像
 3代藩主光之には、衣冠束帯(いかんそくたい)の大名・藩主の正装(せいそう)姿と、頭巾(ずきん)をかぶり、白餅紋(しろもちもん)の羽織着の膝立でくつろいだ姿の、二つの肖像があります。光之は息子の綱政(つなまさ)(1659~1711)に元禄(げんろく)元(1688)年、家督(かとく)を譲(ゆず)ります。福岡で死去する際には江戸にいる綱政へ、福岡藩の名誉である長崎の警備の役を怠らず、孫の吉之を藩主として厳しく教育するように遺言する一方で、お互いに立場が違うため、縁遠(えんどお)くなった父子の間を回復しようと願う手紙も残されています。また四男長清(ながきよ)にも、いままでの孝行を謝(しゃ)する後の別れの手紙を残しました。

貝原益軒と東軒夫人の書跡
 黒田資料には、元禄文化の時代の福岡藩の儒学者で、様々な学問にも精通した貝原益軒(かいばらえきけん)(1630~1714)の著作や、その夫人・東軒(とうけん)(江崎氏)の書跡が残されています。益軒の作品は、上に立つ武士の道を説いたもので、綱政時代に藩に呈されています。綱政は支藩(しはん)直方(のおがた)藩主でしたが兄・綱之(つなゆき)廃嫡(はいちゃく)後に後継ぎとなった人物です。益軒夫人は、楷書に優れ、益軒の著作も清書しています。

黒田綱政の蕪・山水・鶺鴒図
 4代藩主の綱政は、若いころから、絵画を狩野派(かのうは)に学び、その絵は現在、手本に忠実、真面目(まじめ)な画風と評されます。彼の作品には、藩主として、京都の福岡藩の御用商人と互いの絆(きずな)を強めるべく下賜(かし)したものが残されています。一方で自作の鶺鴒(せきれい)図には、普通は、他に明かさない自分の諱(いみな)「綱政」を大書した豪快(ごうかい)なものもあります。なお、彼は江戸で活躍した狩野派(かのうは)の絵師・狩野昌運(しょううん)を招き、御用絵師(ごようえし)として活躍させました。

黒田継政の肖像と自筆和歌
 6代藩主継高(つぐだか)(1703~75)は直方藩主・長清の子で、従兄(いとこ)の5代藩主宣政(のぶまさ)(1685~1744)が病気となったため、養子に迎えられ、従兄(吉之)(よしゆき)の娘・幸(こう)(1708~78)を夫人に迎え、50年にわたり藩主の座にありました。文化面では和歌を好み、京都の公家(くげ)・烏丸光胤(からすまるみつたね)に歌道を本格的に学びました。自作自筆の和歌も多く残され、中には自画した箱崎松原の絵に、筑前の繁栄(はんえい)の和歌を読み込んだ「箱崎松図」があります。没後は家臣が歌集をまとめました。