白石良夫『虚学のすすめ 基礎学の言い分』(文学通信)

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2月上旬刊行予定です。

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白石良夫『虚学のすすめ 基礎学の言い分』(文学通信)
ISBN978-4-909658-49-4 C0095
四六判・並製・カバー装・208頁
定価:本体1,900円(税別)


学問は即効薬ではない。即効薬ではないが、それなくして即効薬はつくれない。
学問が役に立つとはどういうことか。学者のあり方とは。研究のおもしろさとは何か。元国語科教科書調査官の著者がつづったエッセイ集。「第1部 むなしい学問なのか」「第2部 文学青年から文学研究者へ」「第3部 国文学ひとりごと」でつたえる、学問のススメ。

【学問には、その成果が見えるようになるまでに長い時間を要する分野がある。そのような長い時間がたつと、成果が見えるようになっても、社会と学問との接点はどうしても見えづらい。当の研究者でさえ、往々にしてその接点を捜しあぐねている。しかし、繰り返して言うが、学問は即効薬ではない。即効薬ではないが、それなくして即効薬はつくれない。
成果結果のあらわれるまでに長い時間を要し、社会との接点が理解されにくい学問、それが「虚学」であり、文学部はその「虚学」の巣窟である。】...本書「虚学の論理」より

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【著者紹介】

白石良夫(しらいし・よしお)

1948年、愛媛県生まれ。九州大学文学部卒業、同大学院修士課程修了。北九州大学講師等を経て、文部省(現文部科学省)入省、教科書調査官(国語科)。2009年、佐賀大学教授となり、2014年退職。専攻、国語学・国文学。博士(文学)。
主要著書に、『江戸時代学芸史論考』(三弥井書店、2000年)、『説話のなかの江戸武士たち』(岩波書店、2002年)、『幕末インテリジェンス』(新潮文庫、2007年)、『かなづかい入門』(平凡社新書、2008年)、『本居宣長「うひ山ぶみ」』(講談社学術文庫、2009年)、『古語の謎』(中公新書、2010年)、『古語と現代語のあいだ』(NHK出版新書、2013年)、『注釈・考証・読解の方法』(文学通信、2019年)など。

【目次】

まえがき

第1部 むなしい学問なのか

虚学の論理

文学部の光景/滅びるか、インド哲学/不変の社会的評価/約束されない「虚学」の未来/学問は即効薬ではない/本当に虚しい学問か/蓄積こそが学問である/開かれた大学とは何か/それから二十年以上を経て

ノーベル賞と旧石器

だれも気づかない共通点/文系・理系を問わない問題/専門家の悲痛な声/学者でない人間に学者の良心を責めてどうするんだ/石器捏造と基礎学軽視、どっちの罪が重い?/雨後の筍が日本を救うか/それから二十年

「勇気をもて。学者の良心を忘れたのか」

霧の撤収作戦/「学者の言うことを信じよう」/武人の激励/「学者の良心を忘れたのか」

共和国は学者を必要としていない

レーニンを永久保存した男/ロシア革命の場合/フランス革命の場合/文化大革命の場合/そして、日本の大学改革の場合

人文学のプリンシプルを忘れるな

研究者は強迫観念を持て/論文集出版の意味/新書本では業績にならないか/グロータース神父の挑発/人文学の戦略/人文学には人文学のフォーマットがあるはず

大学図書館は本を貸し出すな

図書館は貸本屋ではない/貸出件数という亡霊/手をのばせばそこに本がある/地方国立大学の附属図書館をめぐる惨状/先人の遺産が泣いている/いまこそハコモノ行政の出番/知のリージョナルセンターが聞いてあきれる/学生サービスを放棄した大学

第2部 文学青年から文学研究者へ

文学部への道

大学は解体されなかった/国立二期校の風景/文学・歴史のほうに進め/見えなかった文学部という選択肢/遅すぎる反抗期

文芸部部室と無邪気な夢

バスから見た六本松キャンパス/文芸部入部/ファントム墜落と政治の季節/小説の季節のなかで/季節の移ろい/作家への憧れ/停止した時間/「春が来て夏が来て秋が来て」/慌ただしい六本松との別れ/「カインとアベルの息子たち」/だれもいない文芸部部室/彷徨のなかで/文学青年との訣別/跋

中野三敏先生と和本修業

和本との邂逅/靴下の片一方を捜して/おさらば文学青年

今井源衛先生と『学海日録』刊行始末

学海遺著・旧蔵書の行方/妾宅日記の発見/本宅日記とその研究会/文学史登場以前の依田学海/附 新潮文庫収録にあたって

非の打ち所のない先行研究の功罪

厳密な分類の索引は必要か/学際の境界は厳密であるべし/蔵書目録は大雑把であれ/「帝国図書館蔵書目録」の使い勝手/『新編帝国図書館和古書目録』余談/大雑把な先行研究に導かれて/「先行研究」にまつわる誤解

第3部 国文学ひとりごと

作者は本当のことを書かない

国語教科書の注釈/当たり前の事実に注釈は必要か/作者は噓をつかないという幻想/韃靼海峡を渡ったてふてふ

二人のタケウチ氏をめぐる因縁譚

四国の厳しい一読者/二人のタケウチ氏/奇しき縁

資料を読み解く面白さ

江戸藩邸とは/歴史資料としての手紙と日記/日記はことの詳細を記述しない/印旛沼開発一件の駆け引き/維新後に伏せられた事実/戊辰戦争と佐倉藩の一挿話/新たな発見をして

語る〈時間〉、語られる〈時間〉

小津映画の生理的安定/「東京物語」は東京を語ったわけではない/東京と尾道の距離/〈時間〉の仕掛け/語る〈時間〉、語られる〈時間〉/紀子の〈時間〉/映画は残されたものの現実をえがかなかった/喪服をめぐる挿話/若い京子の目/紀子の告白、残酷な〈時間〉

資料の提供か、成果の発信か 

オカルトは滅びない/江戸に出掛けて江戸人の話を聞け/アマの注釈、プロの注釈/研究資料の提供か/研究成果の発信か/白か黒かではない

あとがき

【まえがき】

    だまされやすい人たちを陥れるまがいものの説明は、そこらじゅうにころがっている。一方、懐疑的な説はなかなか人々の目に触れない。それというのも、懐疑的なものは〝売れない〟からだ。(カール・セーガン『人はなぜエセ科学に騙されるのか』青木薫訳)

数十年前のテレビドラマだから、その筋は忘れたが、鮮明な記憶にのこる挿話がある。
舞台は名門の大学病院の内科教室。主人公の友人がみずからの前歴を語る。

「この内科に来る前、わたしは病理学教室にいた。その研究室では、伝統的に、午後三時になると休憩時間に入る。三十分、助手やインターンも手をやすめて、お茶を飲みながら仕事以外の世間話をする。単調な実験の気分転換だ。わたしは部屋の窓を開けて、向かいの入院病棟を眺めながら話に参加するのが習慣だった。
あるとき、病棟の廊下で談笑する三人の若者に注意するようになった。毎日おなじ時刻に、おなじ場所で落ち合っているところを見ると、別の部屋の入院患者で、なにかのきっかけで親しくなったのだろう、などと想像をめぐらせていたが、ある日、そのうちの一人が欠けた。その日からそこで談笑するのは二人だった。
退院したのだろうか、それとも......。
そう考えているうちに、わたしは、実験室に籠もって機器とデータばかり相手にしている毎日に、いいようのない虚しさを感じた。わたしも患者と接したい、生身の患者と向きあって、人の命をあずかる医者であることを実感したい。
そう思いはじめたころ、たまたま内科で助教授人事のあるのを知った。病理学にも詳しいということが条件だったので、応募して採用された」

この内科医は、良心と使命感を体現する正義の医師として設定されていた。素直な視聴者には、素直に納得される文脈だった。
だが、天邪鬼なわたしは、割り切れなかった。生身の患者と向きあうことだけが医学者の生き甲斐なのか、と。うすぐらい実験室で試験管をふっているのが、そんなに虚しいことなのか、と。

人命をあずかる医者であることを実感したい、その思いは善しとしよう。だが、そのために、実験データを人間味のない数字の羅列だと感じたり、それと格闘する自分を虚しいと考えたりするのなら、医者であることを実感したいというその思いは、ただのわがままである。そしてそれが理由で病理学教室を出て行ったかれに、元同僚や後輩はこう言うであろう。おれたちのやっていることは医学ではないというのか、と。

「見える化」という奇妙な日本語が幅をきかせているが、この内科医の目には、臨床のみが見える化できる医学だと映ったのである。基礎医学では「見える化」は難しい。「見えないものは存在しないもの」という同調圧力がかれを悩ませたのだ。わたしは、こんな医学者は、現実にはいないと信じたい。だまされやすい作者が作った、まがいものの登場人物だと思いたい。

文学研究はそれ以上に「見える化」できない学問である。本書のこんな外題と副題と目次とこのまえがきが、素直な日本人の素直な興味を惹くのか、はなはだ心もとない。
わたしは人文基礎学の「見える化」を叫ぶのではない。見える化することによって見えなくなるものができる、見えないとみなされるものができる、それをわたしは危惧するのである。
放射能に色をつけたからといって、その恐怖から逃れられるものでもないだろう。文学研究が「見える化」されたからといって、それがひとを仕合せにするものでもないだろう。文学に限らず哲学も芸術も、「見えない世界」の養分を吸って、いまの、そしてこれからの姿があるのだろう。