金文京「日本の漢字を考える」●東アジア文化講座(全4巻)刊行記念エッセイ

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東アジア文化講座(全4巻)刊行記念エッセイを掲載いたします。第2巻「漢字を使った文化はどう広がっていたのか」編者、金文京氏にお書きいただきました。

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日本の漢字を考える

金文京
(第2巻「漢字を使った文化はどう広がっていたのか」編者)


他の地域から見てやや奇妙な、日本人の漢字に対する認識

 現在、日本では、平仮名、片仮名、漢字、それにローマ字の四種の文字が日常的に混用されている。たとえば「日本はアジア太平洋経済協力会議(APEC)などに参加する一方、EUとも経済連携協定(EPA)を結んでいる」というような文章は、今日われわれが新聞紙上などで、ごくふつうに目にするものであろう。複数の種類の文字を日常的に、同時に使用する例は、世界でもめずらしい。世界的にもほとんど例のない、この複数文字使用という一種の"異常状態"を解消し、煩雑な漢字使用からの解放を目指して、かつて漢字廃止論や仮名専用論が強く唱えられたこともあった。しかし近年ではワープロ、パソコンの普及によって、覚えにくく、書くのが面倒、また印刷のためには大量の活字が必要などの漢字の欠点は消滅し、意味の視覚的識別に便利という長所のみが残ったことにより、漢字の使用は従前よりかえって増加し、人々の関心も高まっているようである。

 過去に漢字を使用していた、いわゆる漢字文化圏の中で、ベトナムと北朝鮮はすでに漢字を全廃し、韓国もほとんど使わなくなったため、中国大陸、台湾など中国語使用地域を除いて、漢字を日常的に使用する国は日本だけになった。日本が漢字を廃止する気遣いは、今のところ絶無であろう。しかし現在の日本人の漢字に対する認識には、他の地域から見て、やや奇妙なところもある。

東アジア全体から見れば例外的な日本の考え方

 まず漢字は言うまでもなく中国の文字であり、そのことはむろん大多数の人が知っているはずである。しかし日常的にはほとんど意識されていないようである。もし四六時中このことを意識すれば、漢字の日常的使用は、あるいは困難になるかもしれない。ベトナムや朝鮮半島で漢字が廃止された理由の一つは、漢字が中国の文字であることが強く意識されたからにほかならない。日本人の一般的な考えでは、漢字はたしかに中国の文字だが、日本ですでに千数百年にわたって使われているのだから、日本の文字と言ってもよい、少なくとも日中共用の文字である、といったところであろう。学校の国語教科で漢字を日本の字として、仮名とともに教える根拠は、たぶんこういった考えであると思える。これは日本では当たり前の考え方だが、東アジア全体から見れば例外的である。

平仮名、片仮名はどちらも漢字に起源がある

 もう一つの問題は、これもよく知られていることだが、平仮名、片仮名はどちらも漢字に起源がある。平仮名は漢字の草書体、片仮名は漢字の一部を取った一種の略字である。しかしこのことも日常的にはさほど意識されていない。中には、現在使われている文字の起源をすべての人が知る必要はかならずしもない、アルファベットの起源はフェニキア文字と言われるが、現在の欧米でフェニキア文字を知る人はほとんどいない、それと同じだ、という意見もある。

 しかしそれはちょっと違う。なぜなら現在の欧米ではフェニキア文字は使われていないが、現在の日本では漢字が使われているからである。たとえば小学校一年生は、仮名とともに80の漢字を習うことになっているが、その中には「天」「女」「左」があり、それぞれ「て」「め」「さ」の楷書体である。しかし「天」「女」「左」と「て」「め」「さ」は、まったく別の字として教えられ、両者が実は同じ字であることは知らされていない。「あいうえお」の「安(あ)」は三年生、「以(い)」と「衣(え)」は四年生、「宇(う)」は六年生で習い、「於(お)」は教育漢字にはないが人名漢字である。仮名の本字のほとんどは日常的によく使われる漢字であるにもかかわらず、両者の対応関係を教えていない。本来の漢字、あるいは本家である中国の発想からすれば、「安」と「あ」は楷書と草書という字体の相違にすぎず、アルファベットのブロック体と筆記体と同じで、字自体に違いがあるわけではない。ただ日本では後者を表音文字として、前者とは区別して使っているだけである。

 小学生の段階でそれを教えろと言っているわけではない。一年生で習う漢字には「川(つ?)」のように本字の確定しない、あるいは音価の異なるものもあり、それを教えればいたずらに児童を混乱させるだけであろう。しかし高校までのどこかの段階で教えてもよいのではないだろうか。現在、高校の日本史に仮名の誕生が入っているが、内容は教師によりばらつきがあるようで徹底せず、かつ日本史は今のところ選択科目である。やはり国語の一環としての文字の問題として、きちんと教えるべきであろう。

 現状では大学生に聞くと、「あいう」までは何とか知っていても、「え」はあやしく、「お」はさらにあやしい。社会人対象の調査をしても、結果はおそらく同じで、すべての仮名の本字を正確に言える人は稀であろう。ことの是非、当否は別として、単純に考えてもこれはなんだか変である。「加藤かよ」という名前の人がいたとして、姓の「加」と名前の「か」が実は同じ字であることを知らずに終わってしまったとしたら、どうであろう。どこかおかしくないだろうか。蕎麦屋の看板の変体仮名を楷書にすると「楚者」になると学生に言うと、みな一様に不思議そうな顔をするが、どちらが不思議かは考えものである。この点、日本語を学ぶ外国人の方が、学習の過程ではっきりと説明を聞くため、日本人より正確な知識をもっているかもしれない。

見にくくなっている日本の漢字使用の特殊性

 世間では、漢字のなりたちや、漢字成語、同訓の漢字の使い分けなどを利用した漢字クイズなどが流行しており、それはそれで結構なことである。しかし日本における漢字のいわば基本中の基本である漢字と仮名の関係が、故意か偶然か曖昧なままになっているため、全体の理解が歪んでしまい、ひいては漢字に関する議論が日本の中で閉鎖的に完結し、東アジア全体における日本の漢字使用の特殊性が、かえって見にくくなっているように思える。

 「東アジア文化講座」の第2巻「漢字を使った文化はどう広がっていたのか」は、日本の一般読者を対象に、漢字と漢字による文章(漢文)を東アジア全体の中で考察することにより、日本文化の重要な一部である漢字、漢文の東アジアとの共通性と日本的特殊性を明らかにしようとしたものである。問題はもとより多岐にわたり、すべてをあつかうことはできなかったが、なにがしかの参考にしていただければ幸いである。

 なお本書刊行後まもなく、本巻の執筆者の一人である藤本幸夫氏の学士院賞、恩賜賞受賞の報道があった。この場をかりてお祝いの言葉を申しあげたい。