徹底討議5万字! 語りつくす文体史のゆくえ:Ⅰ まずは研究紹介から|『文体史零年 文例集が映す近代文学のスタイル』刊行記念座談会

徹底討議5万字! 語りつくす文体史のゆくえ
2025年4月刊行の国文学研究資料館編『文体史零年 文例集が映す近代文学のスタイル』の刊行を記念して、特別座談会「徹底討議5万字! 語りつくす文体史のゆくえ」を公開いたします。
ぜひご一読ください。
■目次
Ⅰ まずは研究紹介から(本記事)
Ⅱ 討議1 文範・文例集の明治
Ⅲ 討議2 文体はどこへ行くのか?
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とき=2024年10月13日13時~18時
ところ=国文学研究資料館共同研究室
参加者=北川扶生子(関西学院大学)、倉田容子(駒澤大学)、杉山雄大(二松学舎大学ほか)、谷川恵一(国文学研究資料館名誉教授)、馬場美佳(筑波大学)、堀下翔(筑波大学)、栗原悠(国文学研究資料館)、多田蔵人(国文学研究資料館)
※誌上参加=合山林太郎(慶應義塾大学)、湯本優希(日本体育大学桜華中学校・高等学校、立教大学日本学研究所研究員)
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Ⅰ まずは研究紹介から
※この「Ⅰ」は共同研究の経緯や、それぞれの研究紹介が中心です。まだ本書をお読みになっていない方はぜひお読みいただき、さっそく討論を読みたいという方は「Ⅱ 討議1 文範・文例集の明治」からご覧ください。〈前口上――共同研究の経緯〉
多田蔵人
:こんにちは、国文学研究資料館の多田蔵人です。国文学研究資料館編『文体史零 年 文例集が映す近代文学のスタイル』が発売されました。この本は国文研の2022年度から2024年度までの共同研究の成果です。「文例集」という近代の資料群にフォーカスしながら、実作や読者層との関連など、さまざまな角度から研究会を行い、今回14人の方の論文と、文例集を100点取りあげた「文範百選」というカタログ解題をあわせ収めた書物が出版されたわけです。
原稿が出そろってたがいにやってきたことが見えるようになったし、読者の方々に「文例集」という資料群について知っていただく目的もあり、ここは大いに語っていただこうということで、準備段階から関わっていただいた方にお集まりいただきました。まずは私から簡単に前口上を述べた後、みなさんにご自分の研究についてお話しいただき、討議に進むことにしましょう。
私が文学研究の道に入った2004年にはもう国文研の論文目録データベースが存在していましたが、『日本国語大辞典』の第2版(2003)も刊行されたばかりで――なんか古老になったみたいな感じですね――、近代の用例を検索するにはやはり角川の『日本近代文学大系』とか筑摩の『明治文学全集』の索引が中心でした。あとはかたっぱしからノートを取るしかないという、こうした状況は2020年ごろまでつづきます。
研究をはじめたころ漠然と感じていたのが、文学作品に出てくる言葉の「ニュアンス」をもう少し実証的に探ることはできないのかなということでした。たとえば演習や研究会などで「私」とか「自然」、「社会」といった近代文学のキーワードが議論になるたび、どうもみんな同じ意味をイメージしているようには思えなくて、論文を読んでみるとそれぞれの言葉に通説みたいなものもあるんだけれども、その通説も5年とか10年くらいのスパンで変わる「意味あい」は反映していないんじゃないかと感じたわけです。たとえば20世紀初頭の「私」と「自分」の使いわけにはどういうニュアンスの差があったのか。「自然」と「天然」、「愛」と「恋」は具体的に何が違うのかといった疑問がわいてくる。100年前の言葉について議論しているのにキーワードや重要なフレーズについての共通理解が持てないことに、どうも歯がゆい思いがしていました。
その一方ですぐに直面したのは、ある言葉を辞書や索引で探そうとすると、あらゆるものが引っかかってしまうという問題です。これは古典研究のほうの初学者にはよくあることで、たとえば『国歌大観』という和歌の全集を検索すると「月」なんかは用例が1,000以上出るわけで、どこからどう扱っていいかわからない。最近の大規模なデジタル化の波はこの問題をますます大きくしていて、検索結果のなかにある用例のムラのようなものをある程度察知しないと、膨大な検索結果の前で立ちすくんでしまうことになります。
たとえば「帰省」を検索すると、いまは旅行キャンペーンの記事とかパンフレットみたいなものまでヒットします。社会状況を理解するにはもちろんありがたいし読むと面白いのですが、そうではなく、「帰省」を語る言葉の群れのなかで個々の作品がもっていたトーンみたいなものを把握する方法はないのかと思っていたところに、たとえば紀行文集のような旅行に関するアンソロジーとか作法書のたぐいが目に入ってきたわけです。「帰省」は明治30年代の人気の題材だったので、『小品文集 帰省』(1905)という本が出ていました。気をつけて集めていくと、文例集が、用途ごと、目的ごとに必要だった言葉のまとまりのようなものを残した、いわば偏りのある文学辞書として捉えなおせる資料だということが見えてきました。旅行ひとつ取っていえば、この手のアンソロジーを開くと、たとえば吉野を描いた名文や名句にはどういうものがあるか、どこをどういう順番で書くことが多いか、桜のころはこう、それ以外ならこうと、それぞれの状況ごとの言葉のカタマリのようなものがあらわれてくる。一般に文例集というと文法書や教育目的で出ている教科書みたいなものをイメージされるかもしれないけれども、近代には手紙文例集にはじまって、紀行文集、演説・説教などの「話しかた」の文例集、翻訳の方法、そして詩歌や小説の文例集が大量に出版されています。もちろん単行本以外にも、雑誌などの投稿欄も「文例」を示す重要な資料で、単行本の文例集には雑誌や新聞の投稿を集めてできたものが相当数ありました。こういうのをだんだん買っていって...どれも何しろ安くて一冊200~300円で買えたので、20年のうちに溜まりたまって1,700点くらいになりました。ぜんぶ国文研に寄贈しましたので、この本が刊行される頃には1,700点すべてを、国文研のOPACから「国文研文例集コレクション」として通覧できるようになる予定です。
こういうものと文学作品を見くらべるうちにだんだんわかってきたのは、日本の近代にはこれまで文学研究が考えてきたよりもはるかに多く、いろんな「言葉づかい」があったらしいということです。日本語には社会階層とか性別、出身地などなどに由来する社会集団ごとの方言みたいなものが多種多様にあって、状況によって実にさまざまな言い回しが出現する。いわゆる雅文体(古文)、俗文体(言文一致)、雅俗折衷体(会話だけ言文一致)というような文学史が教える分類のほかにも、たとえば学校の先生みたいな言文一致体と下町のお兄さんが喋ってる言文一致は全然ちがうというような明確な差異がいくつもある。どう見ても社会的に苦しい状況にある人があえてエラそうな儀式ばった言葉をつかってみたり、反対に権力者が哀れっぽい言葉を使うこともあるわけで、こういう「言葉づかい」の分類が、カルチュラル・スタディーズなどで注目があつまった社会の権力関係や分割線とはかならずしも一致しないこともわかってきました。この「文例集」をまとまった資料体として使うことで、文学作品のなかの、文体の混淆ぶりをある程度見わたせるのではないかということを考えていたわけです。(このあたりのことは公開中の本の序文にもう少しくわしく書いたので、よろしければご参照ください。)
共同研究のはじめの2年間は、文例集の方から文学を考える研究会を組織し、発表をつのることにしました。ご参加いただいたみなさんはもちろん、毎回20人から多いときは30人ちかい参加者があり、発表者も2年で延べ17人、なかなか充実した研究会だったと感じております。研究会のなかで非常に新鮮だったのは、文例集という資料が私の予想よりもはるかに大きな広がりを持っていたということです。「文体研究」のためのツールとして文例集を研究するだけでなく、文例集がもともとアマチュア向けに書かれたことに着目して、文例集に読者集団の声を聞きとるような研究をなさる方が何人もあらわれました。たとえば文学の文例集には文学志望者たちの投稿文を文例として挙げるものがあり、彼らの生の声や、それを編成しようとする編者や出版社の意志が見えてくるわけです。それから、文例集そのものの編者や成りたちについての研究をなさっていた方々とも出会うことができました。たしか杉山先生が研究会の帰りか何かに言っていたと思いますが、「文範ガチ勢」という(笑)、もともと意識して文例集の研究を行っておられた方々です。そうしたいくつもの発見がつまった『文体史零年』について、そろそろ皆さんのお話を伺いましょう。
では、馬場先生からお願いしていいですか。
〈尾崎紅葉と「文範」〉
馬場美佳:この研究会の立ち上げの、準備の最初ぐらいから、多田さんとは文例集に関してお話しする機会がありました。
多田:そうですね、なつかしいです。何か雑談していて、そういう研究ならぜひ、と馬場先生がおっしゃったのがきっかけです。
馬場:そうですよね。多田さんがすごく食い気味で、「じゃあやりましょう!」とおっしゃったのが印象的なのですが(笑)、まさかこんな遠大な見通しの中に私を巻き込んでいただいているとは、当時はあまり自覚がなかったかもしれません。
私自身は美文集、文範・文例集というのは古本屋などでよく見かけて、特に尾崎紅葉を博士論文で論じた関係もあり視野には入っていたのですけれども、自分がやりたいと思っている文学の研究とそれらとはずっと平行線でした。
もともと研究を始めた頃は、テクスト論やカルチュラル・スタディーズなどが全盛で。今回扱った尾崎紅葉の『二人比丘尼色懺悔』(1889)についても、語りの問題などから内容的・思想的な批評性を評価するアプローチがなされていました。院生だった私は、正直『色懺悔』がなぜそこまで評判になったのか共感しづらくて、そうした現代的な評価とはまた別に、当時この作品が読者に与えた衝撃の深度をはかれないものかと悩み、そもそも読み方や楽しみ方が違っていた可能性はないのかとも考えまして、同時代的な感性にこだわる研究をしたのですが、『色懺悔』の文体を直接語ることについては宿題のままになっていました。研究会では、初心にかえってこの課題と向き合うことになったわけです。
今回、「文範」から「小説」を捉える試みをしました。言い換えると、作品を読むという従来の視点に、新たに作品を書くという視点が加わったことになります。そこで気になったのが、田山花袋や泉鏡花といった紅葉より少し年下の世代の文学者たちが『色懺悔』に衝撃を受け、こぞって「小説が書きたくなった、書けそうだ」と証言していたことです。自分にもできそうだからやってみるというのは、実はあるジャンルが発展する上で起爆剤になる感覚なのではないかと思いました。『色懺悔』の文体の登場が明治文学の一大事件だったというわけですね。紅葉自身は、雅俗折衷体でもなく言文一致体でもない、「一種異様な文体」になってしまったので、読みにくいだろうが、句読を頼りに繰り返し読んでほしいと自序で懇願しているのですが、花袋によれば、それは随分と「親しみ」を感じる文体だったらしいのです。そこで、彼らにとって紅葉が新たな小説を書くための「文範」になり得たとも言えるだろうと思ったわけです。
紅葉は『色懺悔』で、ハイフン(―)や三点リーダ(...)などの記号を驚くほどの分量を使用しています。これによって、和歌や先行する小説だけではなく、演説などの文範を、新しい抒情や内面の表現として活用し、それが革新的な新しさにつながったようです。さらにそれらが、後続の作家たちの小説の範となり、続いて美文としても認識されるようになると作文文範にも組み込まれていきます。もっと時代が下ると、ルーツが紅葉だったことさえ忘却されてその表現が生き延びてもいました。ここまでくると紅葉一人の現象ではなく、ほかの近代作家たちも総出の問題になるわけですが、近代作家の受容のされ方としては、見逃せないものではないかと思いました。
また紅葉は、まさに文例集というものが育っていく、成長期を見ていた人だったのだろうと思います。論文の最後で少し触れたのですが、自分が生み出した表現が文範になって、誰かに応用されているという認識を持っていたと思われます。そうしないと出てこない表現というのが、例えば『金色夜叉』などにちらっと出てくるのです。紅葉は、模倣が困難なくらいに文章を練り上げる作家ではあるのですけれども、その原動力には、彼の天性なものに加え、文範・文例集が隆盛になる時代の熱気もあったのだろうと思います。紅葉は「文章報国」を掲げたというほど、文章にこだわった作家ですが、これまでの文体論では、彼のこだわりを分析することが難しかったように思います。ですが今後、さまざまなアーカイブやデータベースの力を借りて、紅葉が生み出した言葉がどのような階層やジャンルと横断しているのか、より緻密に味わい得る可能性があるのではないかと期待しているところです。
あと、出来上がってきたみなさんのご論考を拝見して、「こことここがつながるのか!」という体験をすごくさせていただいたので、単独論文だけれどもそれぞれが補助線を引き合うような、そうした意味で共著らしい論文として読んでいただけたらうれしいなと、個人的には思ったりもしています。
〈写生文と美文――描かれた空間を脱色する〉
北川扶生子:作文書との出合いにさかのぼってしまいますけれども、私がこういった資料――文例集に興味を持ち始めたのは大学院生の頃で、漱石の『虞美人草』の美文について考えている中でした。実際見てみると、文学の専門家たちのジャンル分けや、それから何が名文なのかという基準が違っていて、小説や随筆や新聞の論説といった文学以外のもの、さらには近代以前のものまで名文として選び出して鑑賞していく、そういう場があったというのがすごく新鮮でした。
さらにそういった「名文」の扱い方も、内容ではなくレトリックに注目していて、「この言い回しがいいのだ」ということで名文が選定されているようなところがありました。ちょうど『虞美人草』が書かれた頃は自然主義が台頭してきていたので、そういった修辞への注目が文壇では切り捨てられつつある一方で、一般の読者の感覚の中では非常に豊かに生きていたと。それは音読の習慣などとも結び付くと思いますけれども、そういった声の文化との結び付きもありながら、非常に豊かに保持されていたのだということが分かって、非常に面白い資料だと思いました。ただ点数があまりにも多いので、これは複数で、プロジェクトでやるべき領域なのではと思って、そのままになっていたような次第でした。
作文という領域は、私が知る限りは、発行点数の多さから、まだどの研究分野でも網羅的な研究はされていないのではないかと思います。博士論文でも取り上げましたが、その時には、強い規範性の下で書く営みがなされていたというところに注目をしました。先ほどご指摘もありましたけれども、本来あまり残らない人の声が残っているというところに、私はかなり興味を引かれました。その後、結核について考える機会もありましたけれども、結核に関する資料は膨大に残っている一方で、当事者である患者の声はほとんど残っていなくて、いろいろ探している中で、結核患者向け雑誌の投稿欄に出合いました。そこには俳句、短歌、随筆、それから療養の記録など、さまざまな患者が書き残したおびただしい文章が毎号大量に掲載され読まれていました。内容的にも、結核を描いた有名な文学作品とは全く違う世界がそこにあって、大変感銘を受けました。こういうものが残り得たのは、やはり明治時代以来の、読者もまたメディアの担い手として、投稿という形で誌面を作ることに参加していくという、その習慣の蓄積があって初めて残り得たのではないかと思っています。
今回の論集では雑誌『ホトトギス』を取り上げました。『ホトトギス』も読者の投稿によって作られていた代表的な雑誌の一つですけれども、特に日清戦争、日露戦争の期間の募集文章欄というところに注目をしました。この時期に注目したのは、一つは日本語の文章が言文一致体に統一されていく、それから同時に日本が帝国主義国家に変貌していく、この2つの事態が同時に起こっている時期だからです。
論文の中では、主に2つの点に注目をしました。1点目は、この時期における美文と写生文の流行現象についてです。一般に写生文は反美文運動として把握されるけれども、どちらも日本語の文章やレトリックや語彙がはらんでいたさまざまな含意、含みというもの、それは特定の社会階層であったり、使われるべき場であったり、文学ジャンルであったり、さまざまなものがありますが、これをそぎ落として脱色して無色透明なツールとして使うために、脱色をしていくそのプロセスの一環として美文と写生文を統一的、連続的に把握できるのではないかということです。それからもう一つは、地方と植民地の日常の発見です。地方の発見、地方の日常が『ホトトギス』に描かれている。それが地方の日常を書くべき価値のあるものとして押し出していくという点に関しては既に指摘されていますけれども、これは『ホトトギス』においては植民地の日常の発見と同時に起こっているということを書きました。
この時期の『ホトトギス』には、地方からの報告に並んで外地からの報告がたくさん掲載されています。村の盆踊りの報告と、台湾における死刑の執行に立ち会う検察官の日常の報告とが、同じ誌面に並んで掲載されています。しかも、この「盆踊り」も「死刑」も『ホトトギス』という雑誌の基調をなす俳諧趣味、つまり自分の日常を相対化して、滑稽なものとして描き出すという、俳諧趣味に貫かれている。最初に読んだ時はびっくりしたのですけれども、これは渡辺香墨という子規のお弟子さんに当たる人の文章で、台湾に検察官として赴任して、何百という刑の執行に立ち会ってきていて、それをどこか滑稽な自分の日常の一こまとして書いているのです。どうしてこういうことが可能になるのだろうということが気になりました。「盆踊り」と「死刑」というのはものすごく懸け離れた、普通は同じ場に並ばない事柄だけれども、どちらも好奇心の対象、読者の好奇心を満たすものという一点で、『ホトトギス』の誌上で併置されてしまう。その場にいないと分からないような臨場感あふれるディテール、読者の知らない世界が書かれていて、読み手はあたかもその場に自分が立ち会っているような感じを、その文章を読むことで味わうことができる。その点において、『ホトトギス』という同じ雑誌の同じテーブルの上に並べられてしまう。その結果『ホトトギス』の読者は、遠く離れた地方の村の生活も、台湾の植民地の官僚の生活も、自分の日常と地続きなのだというような世界像を獲得することができたのではないでしょうか。
この時期、外地からの報告記事は『ホトトギス』に限らず、さまざまな新聞・雑誌の誌面にあふれています。しかし『ホトトギス』で子規が提唱した写生文のスタイルは、語り手の一人称の視点で、言文一致体の現在形で書くというものです。このようなスタイルによって、読者は描かれた世界に没入して読むことが可能になります。そしてその外地の出来事を、特別な事柄ではなくて、日常の一こまとして読者は体験することができます。この点で『ホトトギス』の外地報告というのは、この時期新聞などに非常によく掲載されていた外地報告よりもはるかに鮮やかな印象を読者に与えることができました。そして外地というものを自分の日常に接続させる働きがあった、そういう可能性があるのではないかと思いました。
先ほど多田さんのご指摘にもありましたけれども、日本文学の研究の中では、語彙や修辞を巡る実証的な研究の蓄積がものすごくあります。私自身はこういった研究を、大きな歴史的状況の中でその言葉がどう使われたのかという問題に接続していく作業というのが非常に重要であるし、今その重要性というのはさらに高まってきているような気がしています。その意味で、この研究会に参加させていただいて非常に刺激を受けました。
例えば、出版社の戦略として文学作品を「文範」として売り出す例があったという視点、それから語彙にこだわって研究されたご論考もありましたし、また作品を発表する時に、文範として読まれることを意識して修辞を練り上げているといった側面もありますし、非常に広がりがあり、さまざまなアプローチについて刺激を受けることができました。
〈歌語を浸透させる「言葉寄せ」〉
堀下翔:文学史などを院生の時代に勉強しますと「美文」や大町桂月『美文韻文 花紅葉』などへの言及がちらほらあるのです。与謝野鉄幹の研究をしているので、人脈的に重なるというので気になるのだけれども、説明を読んでも「これは何だ?」と、よく分からないジャンルとしてずっと印象に残っていて、興味を持っていました。何分あまり研究で言及されていない、蓄積の乏しいジャンルが美文なのではないかと。そういう意味で、北川先生や湯本先生の本などは、院生時代に読んで、飢えが満たされる思いでした。それでこういう研究会があるということを伺って、この研究会に顔を出していれば、その辺の美文の話などが聞けるのではないかと思って、それでお願いして押しかけたような形でした。
こういう研究会があるということを聞いた時に、そもそもこの研究会が対象にしている文範、あるいは文例集と呼ばれる書物が何なのかというか、参加当初、それがどういう定義なのかと思っていたかと申しますと、「範を示す」、あるいは例を示す書物であるというのは大前提なのですが、そこに指南の意識がある、というのが一つの条件だろうと思っていました。それからもう一つには、かつそれが出版社あるいは著者によって、そう企画されて出版物として出ているというのが条件だろうと考えていて、その辺とのギャップのようなもの、つまり参加者ごとの捉える文例集とのギャップについては、この研究会に参加している間、割とずっと真剣に悩みながら聞いていたところです。
私が今回論集に寄せたのは和歌の論文で、「里川」という言葉が幕末に造語されて、それが和歌でいう文範に当たる詞寄というジャンルの書物に載って、それが実作にかなり広がっていくという論文を書いたのですが、今回執筆に当たって悩んだのは、類題集と呼ばれるタイプの書物をどのように扱うかということで。類題集というのはつまり、和歌の題ごとにたくさんの歌が載っている、一種のアンソロジーです。
例えば、丸谷才一などは「詩歌はアンソロジーで読むに限る」というような言い方を繰り返ししています。ここで丸谷が言うアンソロジーというのは名作を集めた名作集だと思いますが、アンソロジーにはおよそ2種類があります。名作を集めたアンソロジーもあるけれども、ある程度のコミュニティー、ジャンル、テーマによって集めたアンソロジーもあって、そちらの場合は作品の質としてはかなり玉石混交といいますか、類題集の大部分がそういう名作集ではないアンソロジーだと考えられます。
たとえば今具体的に念頭に置いているのは、佐々木弘綱という人物が編んだ『千代田歌集』(1890)という、当時の主に現存の歌人を集めた類題集なのですが、おそらくこれは末端・裾野の歌人からすれば、そこに自分が1首、2首載っていてうれしいという書物であっただろうし、あるいは高崎正風のような著名歌人が載っている場合は、それは編者から見て偉い人を儀礼的に、社交的に載せておこうという意識があったのはおそらく否めないと思います。これを、載っている和歌を一首一首丁寧に読んでいた読者が本当にいるのかということはしばしば考えさせられました。
そういう意味で、今回の論文では類題集は「文範」ではないと考え、そういう意識で扱っています。詞寄形式の作法書を、和歌でいう文範として捉えて、それが反映されている実作のサンプルとして類題集を扱ったという構造です。とはいえ、この佐々木弘綱の類題集は、博文館の「東洋文芸全書」から出ていることもあって、やはりそこに範の意識が全くなかったかというと、そうではないでしょうし、あるいはこの研究会を通して他の先生方の話を伺うに、無名の人々が書いたものが載った書物を文例集と呼ぶこともできるのであろうということも分かってきました。あるいは書物、企画された一冊の本ということでなくても、読者が文範にするという形でも存在するということも、なんとなく見えてきました。
この論集で何人かの方が引かれている『二十八人集』(1908)がありますが、当時の教員向けの雑誌『教育界』(1908・12)の、最近の読書体験のようなものを書くアンケート欄に、『二十八人集』について「文範として面白かりき」という感想を書いていた教師の記述などを見つけたりして、これもまさに読者側がそれを文範として受容した例なのではないかと思ったりもしています。そういう意味で、文範あるいは文例集とは何なのかという、その定義についていろいろ考えさせられたのがこの研究会でした。
〈表現の辞書としての需要〉
湯本優希:私は学部生の頃に先生から大町桂月など明治期の文章中に見られる美辞麗句表現や美辞麗句集について教えていただいたことで非常に興味を持ち、個人的に美辞麗句集を収集するようになり、大学院に進学して美辞麗句集について研究したいと思いました。文例集には多岐にわたった資料がありますが、さまざまな資料の中でも特に美辞麗句集といわれるものに注目するようになったのは、文章よりもさらに短い句が典拠もなくただ並んでいる様子が、句の辞書のようで〈読む〉のではなく〈使う〉ための資料であることが強く打ち出されていて面白いと思ったからです。さらにその目次立てがいろは順や五十音順ではなく題材順となっており、読者ではなく作者に向けた実作のための辞書だということにも関心を持ちました。
こうしたことを踏まえ、今回私は『国立国会図書館所蔵明治期刊行図書目録』第4巻 語学・文学の部(1973)をもとに、美辞麗句集を含む資料を分類し、整理しました。そもそも美辞麗句集はどの時期にどれくらい刊行されたのか、それは美辞麗句集が主目的で編纂された資料なのか、作法書や文範書に美辞麗句集が付された資料なのか、美辞麗句集内での文体の扱われ方など、その実態を細かく整理することで時代の需要や、表現の受容と再構築について考えました。
私が美辞麗句集に興味を持ち始めた時、インターネット上では「中二病」というフレーズが流行していました。この「中二病」の解釈には言及しませんが、「中二病」と呼ばれていた一部の文章表現について、個人的にやたらと小難しく華々しそうなことば(実は知る人ぞ知る小難しい典拠があるとなお良し)を引っ張ってくることに愉悦を覚えるような遊びかなと思っていました。そこから、美辞麗句集の利用者として想定されていたであろう「青年文士」という層は、「中二(実際の中学二年生のみを指すわけではないため)」であり、美辞麗句表現は「中二病文体」ともいえるのではないかと思ったのです。小難しいことばを巧みに使った文章を書き、それらを読者投稿欄のある雑誌に投稿することに夢中になるという一連の流れは、誰でもSNSへの投稿ができ表現者になれる現代にも通ずるものがあると今も思っています。また、美辞麗句集は春夏秋冬や山水など自然に関する表現に紙幅を割いているものが多く見られますが、たとえば「美文」を冠した資料であっても紀行文を書くための資料であることもあり、同時代の「美文」ということばは単に文体のみを指すものではなくさまざまなジャンルの文章を架橋する構成要素(美辞麗句表現)でもあるといえます。さらに美辞麗句集は他の文範などとは異なりその美辞麗句の典拠を示さないことがほとんどで、美辞麗句集に対するいわゆるプロ作家たちの言及を見ていくと、実際の典拠を知らないまま用いている青年文士たちの投稿文に苦言を呈しています。こうしたプロとアマチュアの線引きの問題や特権意識の問題、出典に触れる機会があったかという教育の問題などもはらんでいると考えていましたが、今回研究会に参加させていただけたことでこれらの問題は文例集という視点から広く考えていく必要があると感じました。このように美辞麗句集だけでも多くの資料形態がある中で、今回文例集についてたくさんのことを学ばせていただくことができ、非常に勉強になりました。文例集という資料の中で、とりわけ美辞麗句集はどのような位置づけができるのかを改めて考える機会となりました。また文例集に掲載されたそれぞれの表現と実際の文学作品との相関やそこからの文体史へのアプローチなど、より広い視野から見ていかなければと強く感じました。ありがとうございました。
〈複数の〈文〉と「同胞姉妹に告ぐ」〉
倉田容子:私はもともと政治とジェンダーの問題に興味を持っていて、政治小説やプロレタリア文学、フェミニズム批評に基づく小説のような、思想性が強い小説ジャンルに関心がありました。かつ方法論は、今思い返すと、先ほど多田さんがおっしゃってくださったカルチュラル・スタディーズにかなり強い影響を受けて、研究を出発したと思います。
思想性が強いということは、つまり何らかの規範的な思想が共有されていることが自明であり、規範的な表現も共有されているわけですが、私自身の意識として、個別の表現に目を向けるということをまともにやってこなかったということに今回気づかされました。表現に目を向けて、その表現の文脈を知るための資料を探す、そういう観点で文学史を再検討するということを、この会に参加させていただいて初めて行い、すごく学びがありました。
今回私は『穎才新誌』を恥ずかしながら初めてまともに読んだのですが、『穎才新誌』をひもといてみると、その中で男女同権論争があります。それ自体は漠然と知識としては知っていたのですが、よく読んでみたら、「同胞姉妹に告ぐ」とよく似た内容、さらによく似た表現が書かれている。それが「同胞姉妹に告ぐ」よりも2年ほど早い時期に出されているということに、最初に読んだ時にまずびっくりして、これをどう位置付けたらいいのだろうということを考えたのです。
まず大前提として、これまで「同胞姉妹に告ぐ」について典拠として指摘されてきた、スペンサーやフォーセットとの直接の単線的なつながりというのは否定されるのだろうと思いました。つまり典拠として直接結び付いているわけではなくて、その背後に、スペンサーをたくさんの人が受容して、それを再生産するような志向性もあり、かつその表現の場もあるという状況が存在した。しかもそれを「同胞姉妹に告ぐ」よりも早い時期に、既にある程度まとまった形で多くの人が実行していた。とはいえ、『穎才新誌』に投稿しているのはエリート少年・青年たちに限られていると思うので、どれほど広く共有されていたかは分からないのですが、とにかく共有している読者および投稿者共同体のようなものは既にあった。そういう観点から、創刊号から『穎才新誌』をたどってみると、「同胞姉妹に告ぐ」によく似た表現にたどりつくまでに、いくつかの段階があることが分かってきました。お手本を模倣したような短い作文から始まって、明確にスペンサーなどの思想を受容する段階が見られ、かつその中で、女性も知力・体力ともに男性に劣っていないのだということを示すために、英雄的な女性像を挙げるというレトリックが広く共有されていく。さらにその中で、同時代の優れた女性の具体例として岸田俊子の名前が出てくるという。それが表現史の時系列としてたどれるものなのか、たまたま『穎才新誌』にそのように現れたのかというのは、私自身の調査がまだ『穎才新誌』だけを見ている段階なので、はっきり言えないのですが、ともかくそのように岸田俊子の名前が召喚されるプロセスが見えてきました。
そう考えてみると、これまで「同胞姉妹に告ぐ」に関して、あまりに女性性を強調するような文体が不自然だと言われてきましたが、「志ゆん女」という署名も含めて、「同胞姉妹に告ぐ」は女性が書いた論説であることを演じ、それによって男女同権論に寄与する文章、つまりパフォーマティブに同時代の男女同権論を演出するような側面を持っていたように思われます。
もちろん岸田俊子本人が演出したということも可能性としてはなくはないわけですが、書き手が誰であれ、とにかくパフォーマンスとして「同胞姉妹に告ぐ」が書かれたということはいえるのではないかと思いました。これまで私は文学史のなかの主だった文章にばかり目を向けてきてしまったのですが、そのように背後に広がっているものに目を向けると、意外なつながりや表現史の広がりが見えてくるということを学ばせていただきました。
〈教育と文例〉
栗原悠:よろしくお願いします。この研究会に声をかけていただいた時に、やはり自分としては、従来やってきた藤村の研究に関わるところであれば、書けるものもあるだろうという気がしたのです。島崎藤村が大正期から昭和期に『藤村読本』(1926)などのいろいろな文例集に類する書物を結構出していて、そういった意識も強い作家だったと思うのです。先ほどの、いろいろな社会階層に対する啓蒙(けいもう)的な読み物があるということでいうと、藤村はそういう書物の中で、女性や子ども、あるいは農村の人々を明確に念頭に置いて、対象によって紹介する文章を変えるなど、内容面ではだいたいすで発表したものの焼き直しが大半だけれども、そういった創意工夫をしている人物でもあって、そこを最初にやろうと思ったのです。もう少し話すと、そもそも藤村は新体詩から出てきて、その後自然主義文学の担い手となって、それが批判されていくと。新しい文章を作っていこうというダイナミズムというか、明治から大正、昭和にかけて比較的長い期間、常にそうした切迫感を持っていたし、自らもそれに応えようというある種の使命感を持った創作者だったのではないかと理解しています。それゆえ、その時間の中で当然ながらいろいろな語彙、文体などの変化も見られるのではないかという見立てがありました。
ただ、やはりせっかく取り組むならば、その基底となる明治の話に近づけていきたいという動機が一方ではああり、今回の論文の最初のほうに『夜明け前』(1929-1935)を引いていますが、藤村の父で平田篤胤の没後門人として国学者になった島崎正樹、テキストの中でいうところの青山半蔵が抱えていた郷里における教育観のあり方の問題に引っかかりがあったので、そこから問題意識が国学と黎明期の教育のようなところにたどり着きました。
具体的には今回、私は稲垣千穎という正樹に少し遅れ吹舎(いぶきのや:平田派の国学塾)に学び、維新後は東京高等師範学校で教鞭を執るかたわら、国の音楽教育、とりわけ唱歌の作詞に関わった人物を中心に取り上げることにしました。また、千穎は高等師範の教員という立場で、国語や国史の指導書を複数書いたり、編集したりしています。今回扱った『本朝文範』(1881)や『和文読本』(1882)も論文内で指摘したように、和文を尊重しつつそれぞれ編集方針が異なるものですが、基本的な性格としては初学者にとって学ぶべき文章のあり方を古典に探って示したものと言えます。
それらの和文の文範を論じていく中で、先ほど馬場先生が、それぞれの論者の方の中で響き合っている部分があるとおっしゃっていたところに関連して気づいたこととしては、私の論文は若干、浮いているというわけではないのですけれども、狭義の教育というものに関わる論文は今回あまりなかったのかも知れないという点です。そして、それゆえに次のようなことを考えました。まず漠然と皆さんの中でも、文例集に最初から強い意識を持っていた方々と少し違うところとしてあったのは、教育というものを結構無前提に、無批判に考えていたところがあって、文例集における啓蒙と教育を一緒くたにしていたところが自分の中にありました。
『本朝文範』も『和文読本』も、和文というものを広めていく黎明期の明治の国語教育の中の一部の動きで、しかもそれをエリート層に向けて作っていく、教え込んでいくというようなもくろみの中に位置付けられるものだったと思います。けれども非常に短い時期の間に、その方針のようなものもブレていくということなどは、調べていく中で、気付かされたところでした。当初の自分としてはそういうものを教え込むということに、やり切るという千穎の方針を見いだせれば面白いだろうと思っていたのですが...。
しかし、やはり短い間に妥協的になっていって、教えられている学生なども、(それは調査の中でそういう証言を見つけることができたのですけれども)やはり口で話している場、耳で聞いている場ではないと分からないという文法や修辞をめぐる微妙なニュアンスを含む課題に直面していたようです。単に机の前に座して文章で読んでいただけではそれが伝わらないということがあって、そういう部分が実例とともにはっきり見えてきたのは大きな収穫と思っています。これは『和文読本』や『本朝文範』がそれ自体、教室で使われていたかどうかはいったん措くとしても、そうした教育の現場にいた人間の手になる文範であったからこそのポイントだったのではないかと。
多分先ほど馬場先生がおっしゃっていたことだったと思いますが、何か作例集として、それが理論と実践のような形で提示されると議論の行き方としては一番きれいな話に落としやすいとは思うのですが、そこはこの教育という教員と学生ないし生徒がダイレクトに向き合ってやろうとしている場の中でも、あまりうまく実践できないというか理想は理想でしかないという感じなのですね。こうやって後世の研究者であるわれわれは書かれたものとしての形でそれを捉えることになるわけですが、その場での話や、教育現場での話などでフォローしながら、ようやくなんとか伝わるようなところがあります。
書いたものそのものを読んで、「では、これで実践してください」という話の中ではうまく伝わり切らない部分というのは、特に教育という、それがしやすそうな現場においてもやはり難しいところがあったという話ですが、それは多分本を読んで、それを使って何かを書くというだけのところでは、より懸隔が広くなるのではないかと感じました。
ある文範を読んで、それに影響を受けて何かを書こうとする誰かがいたとして、実際作られたものがどのように元の文範の企図から離れていく、あるいは忠実に模倣しようとしても必ずしも上手く出来ないというギャップのようなものが見えてくるというのは、多分後でお話しすることになると思いますけれども、そういう部分を、もくろんでいたこととは少し違ったところではあるものの、非常に興味深いと思いながら自分も書いていたし、皆さんのものを読んでいても、そういう部分が見えてきた点をすごく面白く読みました。
〈思想と表現のズレをどう読むか〉
杉山雄大:杉山といいます。よろしくお願いします。今の皆さんの話を聞いていて、大西巨人と結び付けて考えたことですけれども、そもそも大西巨人というのは引用の作家として知られています。例えば『神聖喜劇』(1980)は、主人公が引用を駆使して、内務班におけるいろいろな理不尽と闘っていくという筋書きの小説ですけれども、その中で『軍隊内務書』などを主人公の東堂太郎は使っていくのです。
その使い方というのが、要するに『軍隊内務書』というのは敵が作ったルール、規範であるわけだけれども、それを逆用しようとするのです。文脈を脱色して、自分たちに有利なように、つまり二等兵たちに有利なように逆用するわけです。こういった東堂の順法闘争が先ほどからの話とつながるようで、しかし、どうつながるのかまだ整理できていないような感じです。それともう一つ、大西巨人はアンソロジーが好きなのです。アンソロジーを読むのが好きだし、編むのも好きだということがあって、『春秋の花』(1996)という詩歌を中心に集めたアンソロジーや、短篇小説のアンソロジーなど、いくつかの本を編んでいます。だから大西巨人研究というのは、何か工夫をすれば文例集の研究と結び付くのではないかという気がするのです。そういうことを先ほどからの話を伺っていて思いました。
自分が今回の論集に寄稿した論考の話に入っていきたいと思いますけれども......。その前に、そもそも現在の大西巨人研究の段階というのが、再評価というか、文学史におけるスタンダードな読みや位置付けなどを考えていこうとしている段階です。そういう事情もあって、作品の中身やテーマに関心が行きがちで、細かい文章表現などにまで目を向ける気運はまだ熟していないと言えそうです。他の大西巨人研究者の方を巻き込むのは失礼なので、私に限定して言い直しますけれども、そういうところがあります。
それで今回この研究会に少し参加させてもらって、表現の形というところから大西巨人を改めて捉え直すとなると、最初に多田先生がおっしゃっていた文化記号論の話につながるような問題が出てきます。たとえば大西巨人の『精神の氷点』(1948)は、野間宏の『暗い絵』(1946)などと表現が非常に似ています。それだけでなく、当時の荒正人などの批評の言葉がそのまま引用のような形で入ってきている小説で、それは引用の作家・大西巨人の萌芽(ほうが)的な段階として捉えることもできると思います。一方で巨人は、最初は『近代文学』同人としてスタートするのですけれども、彼は当初から東京にいたわけではなくて、もともと九州にいたということもあって、少し距離があるのです。『近代文学』同人に対して批判をすることもあったわけです。彼には当時『近代文学』創刊同人らと論争していた『新日本文学』の中野重治に対するリスペクトがあって、その間にいるような立ち位置だったのです。
文体のレベルにおいては、最初は明らかに『近代文学』同人寄りなのです。そこからだんだんシフトしていくような流れが見られるけれども、最初はそうなのです。だから語彙や表現の共有が顕著に認められます。けれども内容を読んでいくと、すでに小説第一作の『精神の氷点』の段階で、野間宏や『近代文学』同人とは決定的に違うことが明らかで、そこにズレというか、最初に多田先生がおっしゃったようなことですけれども、思想と表現の形とのズレがあるのです。
そういったことを、私の今回の論文では、巨人自身が「世代の自己批判」という言葉を当時言っていて、『近代文学』同人に属しながらも、同人が展開していた世代論を自己批判していくような形で距離を取っていたこと、そこに当時の巨人の位置を収めるような形で論じました。ただその「世代の自己批判」という巨人の言葉によりかかりすぎた節もあります。それを取っ払ってみて、もう少しそのズレを自分の言葉で説明しても良かったかもしれないと、今になって思っているところでもあります。
もう少し説明すると、同時代においては、大西巨人の小説といえば、野間宏のエピゴーネンだと評されていたわけです。でも当時の巨人の批評なども併せて見ていくと、野間宏や、あるいは『近代文学』同人に対する批判を行っています。荒正人の批評や野間宏の小説に見られるのは、ヒューマニズムと戦時中のエゴイズムを結びつけて、ヒューマニズムの根拠を改めて措定しようとする志向ですが、それは人間の弱さやエゴイズムの擁護、戦争責任の擁護のようなものに当時の文脈の中でなっているというか、そういう道を開きかけているようなところがあったわけです。
それに対して巨人はヒューマニズムをそうしたエゴイズムから徹底的に切断することによって、ヒューマニズムの根拠のようなものを別のところから持ってこようとするのです。それが『精神の氷点』という小説です。
〈素人と玄人の力学〉
谷川恵一:谷川です。年金生活者になって暇なので、お金もないから前に買うだけ買ってあまり読んでいなかった本をひっくり返してぼうっと読んでいるわけです。大半は、まだかけだしの生意気盛りのころに少しだけかじった批評家の本とか、文学史や文学全集類にも取り上げられることのない雑著で、今日の文学研究からいうとずっと中心から離れた周辺ばかりを歩きまわっているようなものです。今回とりあげることになった文範類は、もちろんこうした雑著のひとつですが、文範といっても、今日たまに書名をみかける名文集といったものとはおおきく性格を異にする本なので、注意が必要です。どこが違うかというと、集めているのが同時代の文章であって、過去の名文ではないという点です。私が念頭においているのは相馬御風の『新描写辞典』(1915)という本でして、もちろん、ひとくちに文範といっても多様で、重心がもっと前代の方へ傾いているものもあるのですが、おおまかなところでは同時代の作者たちの文章を中心に集めたものが、日露戦争が終った頃から昭和の初めにかけて、しばしば〈辞典〉などという名称を付して刊行されています。『新描写辞典』は翻訳を含めた小説の文章を集めたものですが、『近代詩用語辞典』(河井酔茗、1924)は「最近三四十年の間に日本に於て発達した新しい詩」の一節を集め、『現代短歌用語辞典』(松村英一、1919)は、歌に出てくることばを見出しにして与謝野晶子以降の短歌を抜き出したもので、〈新〉とか〈現代〉とかいった形容詞が冠せられているように、いずれも現役の作者たちの作例を主な対象とするのです。
『小曲新辞典』(百田宗治、1927)が、そこに収めた語彙を連想でつなぐと北原白秋ばりの小曲ができあがるとうたっているように、こうした書物は、初心者向けに作られています。文学熱にとりつかれて、ひとつ自分でも作ってみようと考える多くの若者が出現していたということです。明治の半ばからこうした若者を青年文学者と呼んでいましたが、目にみえて増えはじめるのは、やはり明治30年代になってからでしょう。大学を出たばかりの若者の手になる『美文韻文花紅葉』(塩井雨江・武島羽衣・大町桂月、1896)がもてはやされるようになると、それをターゲットにして、同じような作品を作るための手引として『美文韻文創作要訣』(1900)と、それに用いる語彙集として『作文良材美辞宝典』(1902)とがセットになって、いずれも酔夢西村真次を著者として刊行されていますが、このうちの後者が展開していったものがやがて『新描写辞典』になっていくのだと考えています。『作文良材美辞宝典』の奥付に載った『美文韻文創作要訣』の広告には「本書は青年文学に志すものゝ為に著はしたるもの」であるとうたっていますが、こうした「青年文学」というファクターを組み込んでいくことで、当時の文学のとらえ方を柔軟にすることができるだろうと思います。
さて、ひとくちに青年文学者といっても、さまざまな境遇があるでしょうが、すでに紅野謙介さんが指摘しているようにとりわけ旧制の中学と高等女学校という環境が重要です。そこでは5年間を通じて、毎週1時間の作文の授業が課されていました。作文の授業には即題と宿題というやり方があります。前者は授業時間内に書かせ、後者は家に持ち帰らせて書かせるものですが、いずれも題を決めて書かせるのです。たとえば『中等教育作文自習宝鑑』(友田冝剛、1910)といった本の目次に目を通すと、どんな題が課されていたのかが想像できます。「月夜の美」「夕照」「雨の箱根山」「靖国神社に参拝す」「休暇中の一日」「明治三十七八年の戦役」「生存競争」「酸素と水素」「勇敢なる兵士」「方言の矯正」「ナポレオンを論ず」「バンクバー安着だより」「雑誌発送の通知」「投機業に手出せし人を誡む」といった具合で、自分の身近なところに題材を求めて書かせる小学校の綴り方とはまったく違います。これも中学校の作文の授業を念頭に置いて編まれた『新体文範』(1907)の序で著者の大町桂月は、自分の文章を真似る学生が多くて困るという話を中学の教師から聞いたといっています。こんな頻度で次々に課題を出されては、誰かの文章を写したくなるのも無理はないのですが、定型の書翰文がそうであるように、そもそも作文という教科が、個性あふれるユニークな文章を創作させることではなく、『新体文範』に「文学士大町桂月著」と記されてあったように、文学士が書くような文章をそつなくまとめることを中学生に求めていたからこそ、こうした事態が生じたのだと考えるべきでしょう。
こうした青年文学者たちを対象とした雑誌を青年雑誌といいます。読売新聞社が刊行していた『ホノホ』という雑誌の広告が読売新聞にでていますが(1912・5・1)、タイトルには「青年雑誌」ということばが添えられ、「若菜(新体詩)」「分に安ずるとは何ぞ(論文)」「梅雨(短歌)」といった題の「懸賞青年文芸」が掲げられているように、青年雑誌とはすなわち『中学世界』『秀才文壇』『女子文壇』『文章世界』などの投書雑誌を指します。誌名に「中学」を含む雑誌は、他にも『中学文壇』や『中学雑誌』などがあって(後者は読売新聞社の刊行です)、いずれも投書に大きな比重を置いている雑誌でした。
文範は、青年文学者/中学生たちが置かれていたこうした環境に根ざし、知名の文学者と中学生という階層秩序をともなって登場したものですが、時代が大正へと移ると、こうした秩序に大きな変動が生じたのではないかと見ています。メルクマールになるのは、『文学資料小品文一千題』(1916)という本です。新潮社の投書雑誌『文章倶楽部』が創刊2年目に小品文を大募集し、その入選作が大正6年正月号に載りますが、載らなかったものも含め1,000点を集めてつくったのがこの本で、その凡例に「青少年文士の文章大観」であり「大に傑れたるは直に文範とするに足らむ」といっていますから、青年文学者の投書がそのままで「文範」になる訳です。これは編者の身びいきだとしても、すくなくとも青年文学者の文章と知名の文学者のそれとの差異が判別しがたくなっているのは確かで、たとえば『新描写辞典』の文例に付された作者名を消して、そこに『小品文一千題』の文章を紛れ込ませたとしたら、見分けるのはとても難しいはずです。
結局、「平凡な中学生にも創作をなしうる」という事態が自然主義とともにもたらされたという唐木順三のかつての指摘を、まわりみちをしながら跡付けたにすぎないのですが、ここには、以降の文学の展開に大きくかかわる問題がなお潜んでいるのではないかと思っています。
多田:ありがとうございます。今回の論集では、さらに山本歩先生が島崎藤村や田村俊子の作品を「文範」として売り出していった新潮社と日本文章学院の出版戦略、合山林太郎先生が正岡子規の初期の漢詩作法、都田康仁先生が写生文と写生文作法書の関わり、田部知季先生が連句作法書の近代と芭蕉評価の変遷の関わり、高野純子先生が雑誌「文章世界」の「文範」欄が文例集を生み出していく具体的な様相について、それぞれお書きいただいています。私は政治小説の演説を演説作法書の方から見てみようというようなやりかたで、矢野龍渓の『経国美談』の言語行為を論じました。それでは皆さんの論やカタログ「文範百選」に触れながら、討議に進みたいと思います。
【Ⅱ 討議1 文範・文例集の明治 へつづく】
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国文学研究資料館編『文体史零年 文例集が映す近代文学のスタイル』(文学通信)
ISBN978-4-86766-079-9 C0095
A5判・上製・440頁
定価:本体4,000円(税別)