徹底討議5万字! 語りつくす文体史のゆくえ:Ⅲ 討議2 文体はどこへ行くのか?|『文体史零年 文例集が映す近代文学のスタイル』刊行記念座談会

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徹底討議5万字! 語りつくす文体史のゆくえ

2025年4月刊行の国文学研究資料館編『文体史零年 文例集が映す近代文学のスタイル』の刊行を記念して、特別座談会「徹底討議5万字! 語りつくす文体史のゆくえ」を公開いたします。

ぜひご一読ください。

■目次
Ⅰ まずは研究紹介から
Ⅱ 討議1 文範・文例集の明治
Ⅲ 討議2 文体はどこへ行くのか?(本記事)
詩歌の流派と文体/詩論とルールと実作/模倣と均質な声の登場/女性向け文例集/言葉の平準化/昭和期、文例集的文学の再登場
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とき=2024年10月13日13時~18時
ところ=国文学研究資料館共同研究室
参加者=北川扶生子(関西学院大学)、倉田容子(駒澤大学)、杉山雄大(二松学舎大学ほか)、谷川恵一(国文学研究資料館名誉教授)、馬場美佳(筑波大学)、堀下翔(筑波大学)、栗原悠(国文学研究資料館)、多田蔵人(国文学研究資料館)
※誌上参加=合山林太郎(慶應義塾大学)、湯本優希(日本体育大学桜華中学校・高等学校、立教大学日本学研究所研究員)
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Ⅲ 討議2 文体はどこへ行くのか?

〈詩歌の流派と文体〉

栗原:ここまでの皆さんのお話の焦点はどちらかというと、個人の作家などがいて、そもそも個の作家を相対化するような、文例や文範の中の言葉がまた別の文脈を生んできて、その作家の個のようなものを波及させていくという論点だったと思います。

しかし自分が扱った稲垣千穎の『本朝文範』や『和文読本』などは、そもそも明治の初めの、均質な書き方のようなものをどのようにつくっていくかという方針段階がまだ定まっていない時期に編まれたものでした。大勢が決しつつあるけれども、そこに抵抗しようとしている人物が書いた文範集のようなものをやっていると。

そこである種のクリエイティヴなものを作るというよりは、このように書いていくことによって、社会階層そのものをつくるというか、むしろそういう均質な書き手をつくるようなところに寄与した側面のほうが大きいのではないかと。少なくともコンセプトとしてはそういうことをもくろんでいたものなのではないかという気がするのです。

そういう論点をどのように接続していったらいいのかということを、さらにさかのぼって、その試みをどのように捉えたか。『本朝文範』のように「文範」とはっきり名乗っているものをどのように扱うべきか、一緒に論じていく中でどのように捉えたらいいのかと、先ほどから考えあぐねていたところです。敢えて文範の黎明期あるいは創成期に突っ込んでしまったことによって、その後の文範の時代と比べて、質的には異なる部分も見えてきたという実感がありました。

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多田:栗原先生の、和文の文例集を作っている人たちと、実作としての『小学唱歌集』をつないでいくご論考はすごく面白く拝読しました。『小学唱歌集』の前段階にあった国文、当時でいう和学者たちの闘争関係のようなものが背後にあるという話ですよね。いわゆる国学の対象とは違う、ある意味で大衆化した『源平盛衰記』や『太平記』の文体を教育の古典文に加えるべきかどうかということは、明治10年代にはかなり議論になったようです(「日本に完全の歴史なき論」1878・6・20「民間の喩 演説集誌」)。

栗原:唱歌に打ち込んで、ある種の二刀流で稲垣千穎がやっていたことによって、多分そういう論点がより広まっていたのではないかという気がします。どちらかというと、ただの文範というのはあれですけれども、『本朝文範』や『和文読本』だけだと、そこのところを論じづらいなと、書いている側としてはそういう実感を持っていました。

多田:一つの「文範」にさえ一つの文体があらわれているとは限らず、そこにいくつかのミクロな文体の隠れたせめぎ合いがあるという例ですね。

たとえば二葉亭四迷『浮雲』の文体分析などでは、よく「語り手」と登場人物の距離が第2篇から第3篇にかけた変化していくという整理があるわけですけれども。『色懺悔』のようにいろいろなスタイルを使いわける作品があったり、小学唱歌の中にさえ相異なる文体が入ったりする時代であることを考えると、書き手が篇ごとに言葉のジャンルを変えたというような見方もありうるのかなと思います。

和歌だとどうかということは、堀下先生に伺いたかったところです。耳馴れない「里川」という言葉を使うと、それはある種の印というか、私は「里川」を使っている派の人ですよという印がつくわけですよね。これはそれまでの歌語からするとかなり抵抗があるようにも思うのですが、どうでしょうか。

堀下:それはまず、新しい言葉を使っている意識は当然あったであろうということははっきり想像しますけれども、そもそも今回、ああいう行為が旧派の中から出てきたということに今、調査している側としても非常にびっくりしています。新派だとそういう言葉の文脈、一語レベルで書いていくようなことは割とよくあるけれども......。明治10年代には「里川」が全く見られません。語としては幕末和歌に若干例があるにもかかわらず、明治10年代にはほぼ見られないということが、何かそこと関わっているような気はします。

明治20年代に新派が出てくる状況の中で、あらゆる和歌内の陣営の中で、旧派であっても多少変な言葉を使っていいということが同時多発的に出てきたという動きはあります。1月には正月の題で、古くからの歌言葉、歌語で詠むというようなモードはあった一方で、ハレとケという二項対立で言うと手あかの付いた感じになってしまいますけれども、規範がフラット化するというほどではなくても、ある種の試みとして「里川」のような言葉を使っていいというモードが一人の中に出てきたということが、多分同時多発的にあちこちであったのだろうと想像します。

多田:田部知季先生が、籾山庭後という、後に三田文学などの出版にも関わる俳人の連句に注目なさっています。籾山というのはホトトギス系と反ホトトギスというか非ホトトギス系の両方に関わっていた人ですが、籾山の芭蕉観が後に高浜虚子と結託して優勢になっていき、そこから芭蕉を人格的に評価するという、大正期の芭蕉評価のようなものが出てくるという論文です。杉山先生の大西巨人論にも通じる発想ですけれども、そうやって流派の違いとはちょっと違うところに新しい連句の方法を見るというような研究方法も、こういう風に「文例集」を使っていくことでできるのではないかという気がします。同時に2つ3つのスタイルを使っていくタイプの、それこそ鉄幹のような、変な謡のような調子などのタイプもいるわけですよね。

堀下:そう思います。詩歌の場合は、グループを越境したアンソロジーもありますけれども、基本的にはグループと書物がひも付いていて、さらにそこに語彙の質もひも付いているので、言葉の流れが追いやすくて、それがグループや、ある種のジャンルや時代を飛び越えた時に観察しやすいというのは詩歌研究の面白さだと感じています。

〈詩論とルールと実作〉

栗原:合山先生の論文にも触れてみたいです。漢詩などは、作例のようなものを作って、それを示すと同じようなものがすごく簡単に作れるようになる。当然ながら相応のトレーニングが必要なのですけれども、それを経ると同じようなものが杓子定規的に作れるようになるというところがあります。

先ほどの堀下先生の話や、自分の話をしていた時に、ある種の文と文、言葉と言葉の間の隙間のなさを埋めていくような方向に行くと、そこの余白のようなところにクリエイティヴィティを出すのが難しくなっていって、それが少し散文の時代になっていって、そこが間延びしていったところに、何かもともとあった言葉と言葉との間の関係を結ぶところでユニークなものが出てくるということがある気がします。そういう意味でもやはり漢詩の話を、ここで少し入れてみた方が良いだろうと思います。

合山林太郎:漢詩の、いわば初学者向けの語彙集とでも呼ぶべきものがあるのですが、おそらく子規に限らず、十代の頃にいろいろな人が、こうした初学者向けの語彙集を見て、題を選び、韻ごとに並べられた言葉を拾いながら詩を作るということをやっていたのだと思います。しかし、そのような若年期の習作は普通残さない、捨ててしまうと思うのですが、子規の場合、たまたま、それが残って全集に収録され、明治の漢詩学習の具体相を知るための貴重な史料となっているわけです。このような語彙を集めた書籍は詩に限らず、漢文などにも同様のものがあります。また、おそらく新体詩などにもあると思いますが、所与の言葉を選びながら、詩歌を構成するという感覚がどのあたりまで残ったかは、検討すべき問題だと思います。

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多田:子規の作例自体が、この時期の漢詩学習のありかたをよく示しているわけですね。漢詩や和歌など、明確なルールがあると考えられているジャンルでは、ルールとオリジナリティの関係は簡単には突きくずせないかもしれません。堀下先生もそこは書きにくそうでしたね。

堀下:普段は規範というものを前提にして、その規範から逸脱する差分のほうを中心に考えているのですけれども、今回は、一つの言葉のルール破りが出てきて模倣されていくという逆方向の動きなのです。そういう意味では、合山先生の試みは非常にわくわくしながら読みました。

正岡子規が『幼学便覧』を使っていたことを明らかにするくだりは本当に面白かったのですが、その後だんだん『幼学便覧』の詩句をそのままでは使わなくなっていくと。要するに、ある程度上達するわけですよね。少し上達した時に出てくる言葉、今度はそれはどこから来たのかということを読みながら思いました。

若干合山先生のご論文の中でも、少しうまくなった時に出てくる、文例集に載っていない言葉というのが触れられていますが、きっとそこには実は何らかの典拠というか、出どころがあるはずで、そういうところを追いかけて、その揺れというか、グラデーションを見てみたいという気もしました。

合山:子規の場合、『幼学便覧』などを参照するなかで、ほぼ丸写しのようなものから段々離れていって、しだいに題や措辞に工夫が凝らされてゆく。さらに中国や日本の詩文集、当時流行していた漢詩雑誌や詞華集などから知識の幅を広げ、表現を獲得していったということだと思います。後年の作についても、子規は、読んだ詩集の名を随筆で挙げたり、蔵書目が残っていたりするので、何を見て、どうアレンジしたかは比較的追いやすいと思います。加藤国安先生の『子規蔵書と『漢詩稿』研究―近代俳句成立の過程』などでかなりの部分が明らかになっていますが、さらに細かな分析を重ねてゆくことで、堀内先生の言うグラデーション、また衝突や葛藤についても明らかになってゆくのではないでしょうか。今後の課題です。

栗原:それから私が担当したのは、和文関係のところと同時に近代詩関係のものでした。大正から昭和初期ぐらいにかけての詩人ですけれども、この辺の詩人の文例・文範のようなものは、啓蒙という性格より、どちらかというと、自分たちの党派的なマニフェストのようなところが非常に強いのです。

何か教え諭すようなもので、「こういう文章を書きましょう」というような体裁は取っているけれども、むしろ自分たちの詩論を前面に打ち出していくような、そういう性格が強いものが多くあります。一方で詩話会の人たちなどは超党派的なので、あまり全体的な方向性のようなものは打ち出されておらず、ある意味で、総花的に作っているところがあります。それで他の、一応文例集と呼ばれているものが、そのような方向性とは逆に、自分たちがいかに他の団体と差異化すべきかということを結構強く打ち出しているところがあって、そういうところは韻文の歴史の中だと面白いと思いました。

堀下:今のお話の中に詩論という言い方が出てきましたが、私が担当した与謝野晶子『歌の作りやう』(1915)もまさに歌論と言ったほうが良くて、これを文例集カタログの中でどう説明したらいいのだろうと。結局、苦し紛れというとあれですけれども、これは文例集・文範のようなものではないと。むしろ序文の中で、先行する入門書の文例集を否定しています。つまり結局、歌というのは一人一人のものなのだというスタンスで書かれているのだというような立場でこれは書かれているのだという説明をしたのです。

谷川:ただ私が最近驚いたのは、若山牧水『和歌講話』(1917)を読んで歌を作った人が投書家の中にいるのです。どうして『和歌講話』で歌ができるのか分かりません。そういう使い方をする人も多分いるはずで、全然違うのにマニュアル化しているのです。

多田:そこから精神を汲みとって、牧水のスピリットを受けつぐ歌を作るような感じですか。でも具体的な方法としては、結局言葉を組み合わせるような、俳句や漢詩とあまり変わらない作法があるわけですね。金子薫園『文話歌話』(1911)あたりにも、そういう読者がいそうですね。

谷川:怪しいですね。

多田:40年代に自然主義がやってくる流れというのは、なんとなく散文のなかの自立的な展開として文学史で記述される傾向があるけれども、20年代は北村透谷もいたし、明治は散文と韻文の補完しあう関係が強い。先ほども申し上げましたが、表現の具体的な組み替え方などは、詩歌の作り方から散文がかなり影響されているのではないかという感じがしています。先ほど堀下先生がおっしゃった晶子の『歌の作りやう』などは、自然主義の作法書に必ず書いてあることなのです。「これを読んで書けるようになると思うな」「名作というのはできあいの表現を組み立てるのとは違うのだ」みたいな文言がよく書いてあります。

谷川:今回、河井酔茗『近代詩用語辞典』(1924)はどなたもお書きになっていませんね。あれも大胆で、5行か6行ぐらいでみんな切ってしまって、全部またテーマで並べるのです。だから露風などの象徴詩も口語詩も全部一緒くたです。

多田:やはり詩歌でもともとやっていたそういう方法が、散文のほうに波及してくるような...。有名な田山花袋・德田秋声の50歳記念パーティーと、詩話会が出した藤村の50歳記念の本(『現代詩人選集 島崎藤村誕辰五十年祝賀記念』1921)は同じぐらいでしたよね。

栗原:1年後です。西暦で見れば同じ年ですが。

多田:年が近いんだからあたりまえと言えばあたりまえなんですが...。ただ、だんだん文学の言葉が平準化していって「心境」なんていう言葉があらわれる時代というのは、俳諧の言葉が整理されていったころみたいな感じがあって、群小作者が技術的には言葉を組み替えながら新しい作品をつくり、一方で宗匠格の人が「軽み」みたいな形而上的概念を提唱するのと同じような雰囲気が小説に浸透しつつあったのではないかと思っています。そもそも明治30年代に流行した「美文」というのが、散文のスタイルとしては非常にあたらしい、古今の美辞麗句をツラネて書くような文体なんですけど、これなんかは漢詩・漢文の名句えらびを古文にあてはめるやり方でつくるんですね。

〈模倣と均質な声の登場〉

谷川:同じことばかり言うけれども、明治はまねをすることが良いこととして非常に推奨されて、勉強することはまねすることだったのです。それががらっと変わるわけです。それがやはり大きいのではないでしょうか。馬場さんも書いていたけれども、『色懺悔』が出ると、あれは非常にユニークなので、すぐみんなまねをするので、あっという間に陳腐化して、また次を出さなければいけないというサイクルができてしまう。そうするとすぐ飽和して、また次を探すという運動が始まるのではないかという気はします。

多田:高野純子先生の論考は、そのあたりにも触れるものですね。「文章世界」には田山花袋と前田晃最初のプランがあるんだけれども、「文範」欄が「新文範」欄にかわって内容も明治期の文章中心になる。文例集の方もそれに応じて、古文や漢文くずしが混在する「文範」と口語体だけの「類句」にわかれていく。こうした動きは、彼らが誘致したはずの文学青年たち、「誌友」のエネルギーが雑誌へと反作用した結果だったわけです。
 
湯本:まねをするというお話で、小島烏水が『文庫』の中で最近の紀行文がただの「語彙纂」になってしまっているという言及をしています。『文庫』の読者投稿欄の紀行文では、投稿者たちが典拠もわからずただ美辞麗句集などで仕入れた語彙を組みかえて用いて表現していることが良くないと評者たちが苦言を呈しており、ここでは教育の中で習得したわけではない語彙を非難しているともいえると思います。まねがことばだけのまねになって読者に広がってしまった時文壇と裾野を分断しようという動きにも見えるのですが、ある意味ではこのようにできあがっていたものを美辞麗句集などから選択して組みかえていったことが、個の文体を考える契機にもなったのではないかといえないかと考えています。

北川:私は明治を中心に見ていますけれども、その時期に限ると、文体は均質化していくというのは文例集の必然でもあったのかなと。固有名も、もちろん何とか村の誰々と出ているわけですけれども、別に知り合いでもないわけです。読者に存在を知らせるために固有名詞があるのではなくて、あり得たかもしれない自分の分身のような形で固有名が出てきているというふうに捉えられたのではないかと。なので、読者同士が実際には顔は見れないけれども、誌面のバーチャルな空間の中で、自分と同じような人がここにいるというふうに、お互いの横を見るような関係というのができていく。それは均質化といっていいのではという気がします。

多田:個人の文の香りのようなものを解体していくという。

北川:もともとそのジャンルが使われていたサークルにおけるいろいろな書き手と読み手、それからいろいろな文体や語彙の、社会的な配置があるけれども、そこから全部引っこ抜くわけですよね。引っこ抜いて、本来同じ場所に並ばないはずのものを同じテーブルの上に並べて見せようと。それは文例集や文範集でもなされていますし、雑誌の投稿欄でもなされています。その総体をどう把握するかというと、やはり横を見て「一緒だよね」と確認をし合うという、均質化するということでもあるのかなと。

多田:文例集が「文範」をうたっているのに、もとの文章を変えるという現象はすごく面白い問題だと思っています。何人かの方が共通して論文で指摘しておられますが、都田康仁先生の、寒川鼠骨が写生文の文例集で森田思軒の『探偵ユーベル』を改変して例示している例は衝撃的でした。思軒の文はそれ自体が明治期の名文として読まれているのに、文例集では変わっているわけです。教科書などでは今もそういうのがあるかもしれませんが、文例集が実作の言葉をどう変えていたかという問題は、追求していくと文体史の骨組みに近い部分が見えそうです。

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〈女性向け文例集〉

多田:それと「文範百選」の書目を選びながら思っていたのは、女性向けのものがすごく多いということでした。言葉づかいの細分化みたいなものも青少年向けより女性のほうが一段細かくて、先ほどの「夫人」「母」「女学生」というふうにわかれている感じがします。

北川:私が見た範囲でも、女性向けと軍人向けが多いと思いました。理由としては、その両方が規範を与えられるべき社会階層としてくくり出されているからではないかという気はその時はしました。こういう資料が出ることで、「こういう社会階層があるよね」と認知されていくというサイクルがあるのではないかと。

谷川:男の手紙はわりと露出していて、幕末の志士の手紙などをみんな読んでいて大体わかるけれども、女性の手紙はそもそもありふれたものではないので。だから文例集がないと、やはり手紙は参らせ候文で書くしかないわけです。

馬場:女性向けの場合は、例えば書簡の文例集・文範集だと、私が見た言文一致関係では、差出人が身内・友人・恩師に限られています。

多田:パブリックな宛先のものが結構少ないという感じですか。

馬場:恩師がせいぜいでしょうか。逆に言うと、それ以外に書けない。書くスキルが育たないということなのではないかと少し思ったりもしたのです。直接社会と渡り合っている女性の書簡というのは......。樋口一葉がそのようなものを残していますね(『通俗書簡文』1893)。

倉田:男性の文章は露出していたけれども女性のものは露出が少ないという話と、文範の多くが文学作品から取られているという話は連続性があるような気がします。そもそも文学者は大半が男性ですよね。その中では当然告白体も出てくるし、書簡形式の小説も出てくるということで、男性の文章はさまざまなサンプルが出版されているのに対して、女性の文章は「女」とわざわざ冠さないとなかなか見ることができない。あえて「女」が付いているもの以外はほとんどが男性向けという前提なのだろうと思うのです。

北川:写生文の文範にも、女性が書く写生文はこういう感じですというようなのがありますね。そもそも女性のものはほとんど載っていないのですけれども、たまに載っていると、「家族のお世話をしている私の毎日」のようなもので、そこから社会性のようなものは読み取れない感じでした。

倉田:そういう文脈で、女子関係のもので面白いと思ったのが、女性ジェンダーを再生産するようなものが非常に多い中で、森仙吉なる人物の『女子作文記事論説文範』(1885)は、基本的に全部カタカナ混じりの漢文訓読体で書かれていて、かつ男女同権論が書いてあるのです。

カタカナ混じりの漢文訓読体ということは、『穎才新誌』に掲載されていたようなものと同質の文章なのですが、これが女子向けの文範として書かれています。内容的にも男女同権を視野に入れている人物であることは間違いないのですが、文体のレベルから男女同権を実践しようとしている傾向というのはゼロではなかったのだなということで、面白く読みました。

多田:そうなんですよね。明治20年代初頭のいわゆる文体革新の季節にも、和学者や「かなのかい」のメンバーから、「男女の手紙の言葉が違うのは教育にとって非常にマイナスだからやめましょう」という動きがあらわれます。たとえば落合直文は男も女も「候」を使うのはやめようという運動を孤独にやっています。何かそういう、男でも女でも書けるような文体の試みが、眺めているとときどき出てきますよね。女性の文例集が細分化する一方で、女性も男性と変わらない言葉で書いてみたらどうかという運動がときどき起こる。

谷川:習字の時間では変体仮名を教えていたのでしょうか。

多田:そのあたりの、男女の書き文字のリテラシーはわりと交錯しているようです。たとえば漱石の『行人』(1912~1913)で、二郎が父親に「おまえの書く拝啓の「啓」の字のくずし方は間違っているから、よく見ておけ」と言われて手本の手紙を見せられるものの、見てもさっぱりわからないという場面があります。『万年筆新書翰』(1913)というきれいな、見開きページの片方にペン書きの絵はがきを載せて右ページに活字で「文字起こし」を載せた本があるんですが、これなどは男向けか女向けかわからない文体です。つまり先ほどの「平準化」というお話と近いかもしれませんが、筆のくずし字――ペンでもくずし字は昭和期までつづきますが――から離脱していく人々のあたりから、やはり男でも女でもいいような中性的な文体みたいなものが登場するように思っているのです。

倉田:ありえますよね。タカクラ・テルはかなりラディカルな姿勢......

多田:『ニッポンの女』(1951)ですね。

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倉田:表音式仮名づかいを実践して、それを広めようとした人物ですけれども、書き言葉の中に、やはり差別や階層が温存されるので、それを書き言葉からなくしていこうという。断続的にそういう方向性の人は出てくるのだなという印象を持ちました。

馬場:明治期の同権論と社会主義の発想とが、ジェンダーとは関係なく、社会階層をなくすために言文一致の文範を広めなければいけないというものの応用というか、関係的には似ていますよね。

多田:倉田先生が解題をお書きになった『少女模範文』などを見ていると、結構男が手を入れて書いているものがあるのではないかという気がします。何か「女らしさをそぎ落として書け」のようなことが書いてあるのですよね。さっき話題にあげた太宰の小説に出てくる女性の書き手たちも、きゅうに男だか女だかわからないような口調を使いはじめたりする。

倉田:この話と少しずれてしまいますけれども、先ほど『むらさき』の話が出ていましたが、『むらさき』の通信欄には「男も読んでいるぞ」「女性雑誌に限定しないでほしい」という投稿が定期的に来るのです。

多田:女性雑誌に男が実は投書していると。

倉田:先ほどの『若草』などもそうですよね。そういう揺さぶりがありつつ、しかしやんわりと男女のカテゴリーがずっと保たれていくというところですかね。

谷川:高等女学校もずっとありますからね。そこで女性の手紙などを教えなければいけないわけだから。教科書も中学校用と高等女学校用、男と女では全部違う。

多田:たとえばこれですね(『GIRLS' NEW AGE READERS』1924)。

馬場:谷川先生がご論文で書かれていた新美文の、女子文壇社の『美文作法』(1906)は、美文だけれども中身が言文一致なのですね。これが面白いと思いました。

谷川:だから「新」が付いているのです。でも僕は本当に全部投書なのかは非常に怪しいと思っています。その前後で『女子文壇』のスタッフが全部変わるのです。それまでの割と古めかしい連中を追っ払って口語文にシフトするので。

北川:小説のなかには「少女小説」などと読者を限定するものがありますが、純文学はそういうものを否定していくわけですよね。でも文例集になると、女性向け、男性向けというものが出てくる。そういう点にも、この資料体のおもしろさはあるのではないかという気がします。

〈言葉の平準化〉

谷川:それから言っておきたかったのは、文範類の人称です。人称の問題があって、割と一人称の文章が多いのです。自分で身辺を書いたり、自分の目で夕焼けを見たり、こう見えた、こういうパノラマの展開をしていくなどと。そこでは当然一人称に何を使うのかという問題が出てきます。

金子薫園は、「僕」というのは良くないから「私」に変えろという指導をしていて、実際投書家たちも変えたようです。だから自然主義以降の人称の使われ方には面白い問題がありそうです。結局、やはり平準化してくる感じがします。

北川:平準化ですか。

谷川:そうですね。あまり「僕」などを使わせないのです。投書のレベルでいうと「私」が多いのではないかと思います。「自分」も出てきますけれども。確か、数を勘定したのですが、「私」が一番多くて、次に半分ぐらいが「自分」で、かなり少ないのが「僕」です。そういう人称詞の使い方がどうなって......。

杉山:これは戦後の話ですが、田中英光の『風はいつも吹いている』(1948)という、政治家としての自己の裏で文学者としての自己が主張をしていくという筋書きの小説があります。この小説では、運動に携わる政治家としての自己の人称は「私」で、太宰治などに惹かれる文学者としての自己の人称は「ボク」なのです。関係はないかもしれませんが、小林多喜二の『党生活者』(1933)などはやはり「私」ですよね。太宰治は都度使い分けている印象ですが。

多田:大正期にさかのぼると、芥川龍之介の「僕」あたりは多分、相当プライベートな響きだったんじゃないかと思っています。

谷川:作文教育で「僕」と言われたら添削された可能性があります。

多田:「子どもっぽいからやめなさい」という。このあたりは、社会から「軍隊」と「軍人」がいなくなった時代にはあまり想像しにくい感覚もありそうです。

谷川:高等学校の問題集や模範回答集の本など、今の赤本のはしりのようなものがいっぱい出ていますが、試験で、「我」「余」などと書いたら落とされる可能性があります。

多田:たぶん人称の言葉の選び方は細かくあって、キャラクターを分けるというか、それこそ範型が決まっていく感じがあります。芥川龍之介『羅生門』の下人は自分のことを「己(おれ)」と言いますけど、これなどは武者小路実篤の戯曲の人物みたいな響きですね。下人が「では、僕が引剥(ひはぎ)をしようと恨むまいな。」とかいったら何か小学生のお坊っちゃんみたいな、変な感じがするわけです。「余」だと今度は下人じゃなくなる感じがしますね。

馬場:それと文例・文範集の人称が関わってくるということですね。

多田:はい、先ほどの「女ことば」でいえば、明治30年代なかばに女性一人称の「妾」をやめた方がいいという議論があり(白檮舎主人「自称代名詞に妾の字を用ゐる可否」1902・5「をんな」)、実際に書簡文例集でも減りはじめます。その代わりに提案されるのが「私」だというのは、「私」という言葉のセクシュアリティを考える際に面白いかなと思っています。

平準化に関していえば、方言がどんどん減っていくということもあります。山本歩先生が徳田秋声の『会話文範』(1911)の解題を書いておられますが、方言的なもの、当時の言葉でいうと「地方語」は自然主義初期には非常に重要だと言われたのに、だんだん地方語は難しいからやめようという方向に動いていくのです。そういう動きが徹底していくともう行きどころがなくなって、一回文学が詩のほうに近づくのではないかと。詩や童謡、童話の本がたくさん出るし、作家たちも童話や詩などを急に書いていきます。

谷川:それが嫌だから、谷崎のように『文章読本』(1934)なんか出して「俺は偉い」と。「素人と俺は違う」という感じで作るという。

多田:そうですね。一方で谷崎にしても国語の「混乱を整理する方が、急務ではないか」といってなだらかな文章をたっとぶわけで、このあたりの論調は鈴木三重吉の『綴方読本』(1935)とよく似ています。

ですから、最後は赤ちゃんの文体に近づいていくというか。大正10年ぐらいになると、詩人も小説家もみんな童話を書きますよね。藤村ももちろん書いているし。そのあたりは、童話ではないけれども童謡、民謡の本を、栗原先生が「文範百選」で書いてくださっていますけれども。

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栗原:アマチュア化の極みというか、本当に子どもも分かりやすい、素人みたいな言葉なのかなと。

多田:おとぎ話自体はもちろん明治から巌谷小波を中心にずっとあって、口演童話の運動になって大正初期も広がっていくけれども、大正後期には文壇内部で童話をどんどん書こうという感じになって、童謡とか童話の文体が大人向けの詩や小説にはねかえってくる。

谷川:百田宗治のように、民衆詩からつづり方に行くと。

多田:白秋も民謡を重視していくことになるし、杢太郎もそちらで行こうと。語彙のレベルでも語法のレベルでも、詩歌のうちの一番簡単なものに寄せていくような運動が起こっていると感じます。

谷川:だから言葉としてのレベルでは価値はゼロだけれども、きちんと心情を吐露している、内容があるなど、そういう評価の軸ができてしまうのです。武者小路がそうだと思うけれども、言葉としては価値がゼロなのです。「文章が下手な人ランキング」のようなものが『文章倶楽部』に出ているのですが、武者小路はダントツで、「本当に文章が下手だ」などと言われています。

谷川:けれども書いていることはインパクトがあるのだと。文章としてみたら価値がゼロだけれども、そうではないところに価値があるのという見方が出てくるわけです。

谷川:要するに、紅葉などの正反対だと。誰でも書ける。唐木順三は中学生と言ったけれども、小学生でも書けると。そして川端が『十六歳の日記』を中学生で実際に書いているという、そういうことになってしまうわけです。

多田:そうすると本当に白鳥の言うとおり、昭和10年代ぐらいで「文」としての近代文学は一回終わったことにしないといけなくなるわけですね。でもまた軍隊言語のようなものがすごく出てきたり、別の言葉の混淆状況がはじまるというところはあります。戦時下には「愛国」とか「銃後」などの言葉を冠する文例集やアンソロジーがいっぱい出ていて、最近は樫本由貴先生や野間颯先生などがこのあたりの詩歌について精力的に書いておられます。小説の方でいうと軍人援護院が出した『青人草』(1941)あたりのアンソロジー、満州ではまさに川端が編んだ小説集が出たりします。どれも言葉づかいがかなり特徴的です。

〈文例集的文学の再登場〉

谷川:明治の半ばくらいまではやはり「つづり方」以前なので、漢文をベースにして考えているから文章はあくまで書き言葉で、話し言葉と連続しないのです。だから練習しなければいけない。大町桂月はおそらく最後まで言文一致の文章を書かないで、基本的に全部文語文で通すはずです。そういう世代と、大正になると口語文ネーティブのような人が出てくるのです。もう生まれた時から口語文で、新聞も全部口語文という人は全然違っていて、白鳥などは当然その境目だから書けないのです。

花袋の『蒲団』が画期的だったのは、文語文の人々に「あのスタイルなら俺たちにも書けるかもしれない」と思わせるところがあったからだと思います。口語文ネーティブの人は何でもできるのでいいけれども、文語文で育った人たちは、口語文を書くのが非常に難しい。だから島崎藤村などはあんな新体詩を書いていますが、多分死ぬ苦しみでやっていたと思うのです。

だから藤村の『千曲川のスケッチ』というのは、僕は非常に面白いと思っていて、比喩をおそらくほとんど使っていないのです。西村真次や五十嵐力が言っているようなフィギュア・オブ・スピーチというのは、あれにはほとんどないと思います。擬人法が少し出てくるかとは思いますが、いわゆる隠喩や直喩などはもう一切排除しながら口語文で書くという、むちゃくちゃなことを僕はしたと思っています。だから最後に非常に平板な文体になった時に藤村のものが出てくるのではないかと。生き残るといいますか。

多田:以前谷川先生が言っていましたけれども、どうも地方の旧制高校生で後に文学に関わっていった人を見ると、よくポケットに『藤村詩集』の色んな版を入れているという。格好つけているというか何というか、何か文学的な雰囲気みたいなものにつながっていくアイテムだったわけですね。栗原先生がかつて細かく検証なさっていましたが、『藤村詩集』はまさに途中からポケット判で出はじめます。

栗原:事あるごとに新しいバージョンのようなものがずっと、新しい詩は作っていないにもかかわらず出続けています。

谷川:世代的に亀井勝一郎など、みんなが藤村論の本を書くのです。渋川驍まで。高見順を含め彼らはみんな藤村詩集から来ているのです。唯一の例外は中野重治で、彼は啄木でした。だからその辺の世代は非常に面白くて、丹羽文雄も藤村詩集です。藤村詩集はあの時期、ほとんどの世代が読んでいました。そしてそのまま『千曲川のスケッチ』へ行って、藤村のものを読み続けて、最後は藤村の本を作ってしまう人たちが出てくるということです。

藤村の戦略というのは、あえて『千曲川のスケッチ』を『中学世界』へ出したり、自分で雑誌を作っていろいろ集めたりして、読者を自分で開拓していくような。

多田:曾根博義先生が書いていますが、梶井基次郎が藤村の家に行ったら、「あなたには若い女性の友達はいますか」と、「そういう人を意識しながら文章を書きなさい」と言われてショックを受けるという、何かそういう感じがありますよね。夏目漱石の漱石山房なども、年長の作家が若い世代の言葉を「文例」として吸収していった例として見てよいかと思っています。そういう、明治作家たちが大正以後の青年男女の言葉を摂取していくような逆転現象が起こる。

それからプロレタリア陣営の文学者は、マルクス主義の言語観ともあいまって、プロレタリア向け文例集を非常にたくさん出していきます。新感覚派やプロレタリアのある種の文体というのは、文例集的なものの復活、再編として見ることもできるのではないかというような、風呂敷の広げかたもあるかもしれないと思います。

谷川:「文壇」が全く素人を相手にしなくなったので、その代わりにプロレタリア文学の人たちが素人を招いていく。歌などと違って、宗匠のような人が小説にいなくなるのです。志賀直哉などもそうだけれども、別に何かをしてくれるわけでもないし、面倒を見てくれるところのほうがいいので。たぶん、多喜二などは言文一致ネイティヴでしょう。

多田:そうですね。多喜二や中野重治、川端康成といった言文一致ネイティヴでも書ける世代は、かえってああいう文例集的なものをうまく使っていたんじゃないかと考えています。投書雑誌全盛時代に中学に入るか入らないかぐらいだった年齢の作家たち、新感覚派など、プロレタリアに入っていく人たちにはああいうものがかえって新鮮というか、家に残っていて、「これは面白いぞ」という感じだったのではないのかと。

川端の日記にありますが、新年になって、学校で出す生徒日誌を「面白く」書こうとする。机のわきには大町桂月の『文章大辞典』(『現代文章大観 附録 文章辞典』1914か)にはじまって何と9種類ものこの手の文範が重ねてあり、首っ引きで見ながら書いているというのが出てきます(『大正四年 当用日記』)。これは川端がのちに文例集の書きぬきから卒業してオリジナルなものを書くようになったというようなことではたぶんなくて、ありきたりの文章をめちゃくちゃに切り貼りして書くようなスタイルが川端にはずっとあったと思われるんですね。『水晶幻想』なんかは特徴的だし、古典と関わる作品にもそんなところがある。高見順の「文章展覧会」(1935、1937『描写のうしろに寝てゐられない』所収)は、先ほどお話に出た谷崎の『文章読本』に言いにくそうに反論する文章なのですが、高見順が自分たちの世代は日本語の混乱こそが「国民性」なんだと述べ、自分たちの世代の「画期」として挙げたのは武田麟太郎の『暴力』(1929)でした。この武田麟太郎に一時期世話になった北川冬彦は、武田が劇場の脚本をシーンごとにバラバラに書いていて小説執筆のヒントになったと言っています。稲垣足穂の回想にも、関西学院の非常に熱心な国語の先生がいて、自分がその先生に褒められた作文は有名作家の文章を写したものだったというのがサラっとでてくるのです。

東京以外の地域に住んでいた、大正半ばにはまだ中学に入るか入らないかぐらいの人たちにとっては、こういう美文集とか文章辞典みたいなもの、それをどう切りつなげるかという発想が、文体の隠れたスタンダードになっていくような感じがするのです。

谷川:また変なことを言うけれども、現代作家で小説作法を書いた最後は大岡昇平でいいのですか(『現代小説作法』1972)。

杉山:ちなみに「文範百選」の下限は1952年です。わだつみ会の『日本の息子たち』ですね。

多田:今回寄贈したコレクションのなかでは、井上光晴『小説の書き方』(1988)が小説作法書のもっとも新しい本です。大岡の本とのあいだには寺山(修司)の『ポケットに名言を』(1977)という文例集があって...ということでまだまだ話したりないこともあるし、戦時中から50年くらいの流れについてはさらに5時間話がつづきそうですが、さすがに長いのでこれにて打ち出しとしましょう。 

(構成=多田蔵人)

■国文学研究資料館「国文研文例集コレクション」目録
https://bungaku-report.com/image/kokubunken_bunreishu_collection.pdf

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文学通信
国文学研究資料館編『文体史零年 文例集が映す近代文学のスタイル』(文学通信)
ISBN978-4-86766-079-9 C0095
A5判・上製・440頁
定価:本体4,000円(税別)