徹底討議5万字! 語りつくす文体史のゆくえ:Ⅱ 討議1 文範・文例集の明治|『文体史零年 文例集が映す近代文学のスタイル』刊行記念座談会

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徹底討議5万字! 語りつくす文体史のゆくえ

2025年4月刊行の国文学研究資料館編『文体史零年 文例集が映す近代文学のスタイル』の刊行を記念して、特別座談会「徹底討議5万字! 語りつくす文体史のゆくえ」を公開いたします。

ぜひご一読ください。

■目次
Ⅰ まずは研究紹介から
Ⅱ 討議1 文範・文例集の明治(本記事)
「文範か「文例」か?」/言文一致のスピードと軍人向け文例集/明治後期、素人っぽさへの志向/読者コミュニティの捉えかた/「作品」と文の複数性/『自然と人生』というジャンル
Ⅲ 討議2 文体はどこへ行くのか?
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とき=2024年10月13日13時~18時
ところ=国文学研究資料館共同研究室
参加者=北川扶生子(関西学院大学)、倉田容子(駒澤大学)、杉山雄大(二松学舎大学ほか)、谷川恵一(国文学研究資料館名誉教授)、馬場美佳(筑波大学)、堀下翔(筑波大学)、栗原悠(国文学研究資料館)、多田蔵人(国文学研究資料館)
※誌上参加=合山林太郎(慶應義塾大学)、湯本優希(日本体育大学桜華中学校・高等学校、立教大学日本学研究所研究員)
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Ⅱ 討議1 文範・文例集の明治

〈「文範」か「文例」か?〉

馬場:すみません。では、基本的なことを。今回、対象とする資料群を共有する以外、共著としての統一性はそんなに気にせずにやろうということで、逆にそれが、それぞれの先生方のご論考をいい感じで有機的につながるものにしているのではないかと思いますけれども、ここまできて改めて気になっているのは、意外と用語としての「文範」や「文例集」の使い分けが、難しかったことです。

たとえば第2部、第3部の北川先生と谷川先生は「文範」の定義などを書かれていますけれども、「文例」も同じ意味となるのか、あるいは時代的に使い方が異なる何かなのか。先生方の定義を読んでいた時に、作家の名前が落ちていて、ある表現が生き残っていくというようなことを想像するわけですが、それは要するに一つの「文範」になるのかなと。というのは、私の中では文範と言われると、範例というか、規範意識がすごく強いのです。

多田:個人的には文例でも文範でもアンソロジーでも、とりあえず呼びかたは何でもいいやという感じでやっていて、用語はもともと気にしていません。先ほど申し上げたとおりで、人が文章や話しかたを学ぶ時に触れたであろう本をどのような形であれ集積していくことを優先してきたので、それこそ今回の文例集の中には『白樺の森』(1918)『白樺の林』(1919)『白樺の園』(同)など、白樺派が何回も出した自分たちのアンソロジーのようなものも入れています。それらを読んで文学に入ってくる人もいただろうから、ぜんぶ含めて「文例集」と呼んでおこうというのがひとまずの方法です。たしかに「文範」という名前を冠した本のカタマリはあるのですが、それも入る形で「文例集」と総称しておこうということでやってきました。

馬場:なるほど。私と多田さんの間でかみ合ってこなかったところが、研究会を通してやっと語れるようになってきたと感じるのですが、「文範」よりも「文例」、さらには「文例集」と呼ぶほうが広い範囲を網羅できるということでしょうか。

多田:そうですね。なぜかというと、くだらない文の文例集というか、「範」にならない文をあえて集めた文例集もたくさんあるからです。今日持ってきたのは大町桂月の編んだ『時代青年文集』(1913、『時代青年文集』1905と『第二時代青年文集』1906を合わせた本) )です。この本は投書雑誌『中学世界』に投稿された「無名の」青年の文章を集めたとされます。今は文壇の大家より無名の青年のほうが素晴らしい文章を書いているから、「文壇知名の士」ではなくて、この無名の青年の文を読むべし、そのほうがいいのだということを書いています。

先ほどの谷川先生のお話でいえば、明治40年前後にこういう無名の人間たちの文章が重視されているということがあると思いますけれども、それ以前にもたとえば堀下先生が先ほどおっしゃっていたような、その町の歌を詠んでいる人を全部集めたような本が出ています。幕末明治期に出る志士の歌のアンソロジーなんかでは「雲井にあげよほととぎす」のような言いまわしが何度も何度も出てくる。「ほととぎすよ、自分の名前を揚げてくれ」といった意味で歌の言葉としては平凡なんですが、別に名歌かどうかということではなくてあるテーマに沿った人選の歌として挙げられるわけです。極端なところでは『社会穴探 滑稽大演舌会』(1888)とか『抱腹絶倒辞典 皮肉滑稽風刺諧謔』(1920)みたいな演説や文学のパロディ本もあり、「範」と呼ぶのがためらわれるような、しかし実際に同時代の「文」をたくさん集めた本があるわけです。そういうものも含めると、やはり「文例集」と名付けておいていいのではないかと。

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杉山:アンソロジー、文集などに収められていることが、その文章の「文範」性を見定めるうえでの一つの目安になると思いますが、一方でインパクトを持った作品は、発表された時点からすでに単独で「範」的な影響力を持ってしまうわけですよね。例えば、野間宏の『暗い絵』などはたしかに「文範」的な影響力を持っていて、十返肇などは早くから「野間型」というカテゴリを作ったりしている。しかし、このように「型」として捉えられていた作家も、意識的には必ずしも「範」として仰がれていたわけではなさそうですから、戦後文学にまで話を広げていくと、「文範」の定義もまたちょっと変わってきそうですね。

馬場:「文」が「集」として出版される方が問題になってくるのでしょうね。それを規範にするかどうかは読み手にかかってくるという感じでしょうか。それは今に通じる何かですね。

多田:それは本当に今に近いかもしれません。たしかに先生のおっしゃる通り、名文だということで重要視される「文範」が中核にあるわけですが、そこから流れ出てくるあやしい「文例集」たちの方も見てみたいという感じです。最初に申し上げた『小品文集帰省』なんかも、参照用としては割と面白いと思います。

馬場:売ろうと思った人がすごい(笑)。いやむしろ、そうした文例集が求められていた時代だったことを念頭におくべきだということですね。近代文学を新たな目線からとらえる重要な手がかりにもなりそうです。

〈言文一致のスピードと軍人向け文例集〉

多田:明治30年代くらいまでは、文例集を探っていくとこんなにたくさんいろいろな文体があったのかという感じで、とてつもない広がりがありますね。仏教関係ひとつとっても法話もあれば、和讃という仏教を広めるための歌のようなものもあり、新仏教はまた違う文体を広めていきます。青山英正先生が和讃や謡曲と新体詩の関係について書いていますが(「近世韻文としての新体詩」2020『幕末明治の社会変容と詩歌』)、仏教の文体はもしかすると山田美妙の初期の文体などにもつながっていくかもしれません。

なかでも軍人向け文例集は私は最初まったく気づいていなくて、馬場先生が研究会のときに小栗風葉の『下士官』(1900)とともにご紹介なさって「そんなものがあるのか」と思って収集リストに加えました。今回、軍人向け文範は北川先生がまとめてご紹介くださったのですけれども。

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谷川:北川さんに言おうと思っていたのが、やはり日清・日露で圧倒的に読者の視野が広がっていて、同時刻にどこかで戦争を、身内が、近所の人がやっているわけです。死んでいると。それを写生文などで、世界が一つになっていく同時性のようなものがかなり意識されていて、その中に写生文があるのではないかという気はしていました。

北川:ニュースなども戦争で整備されていきますよね。それで新聞の、電信ニュースが早く入ってくるという。

谷川:そうですね。だから正岡子規も従軍していて、独歩も行っていて、花袋も行っていると。

多田:夏目漱石『趣味の遺伝』(1906)など、そういうのがないとできないわけですね。「あのとき、あそこであいつが死んだ」という感覚があるからこそ錯覚が文学の主題になるという。

谷川:そうです。それは従来なかった新しい感覚だったと思います。ヨーロッパでも今、同じ時刻に誰かが何かをしていると。特に日露戦争はものすごい数の軍人が周りから行って死んでいるので。そういう背景で写生文が出てくる可能性は非常にあるのだろうなと。ルポルタージュのような。

馬場:おそらくそれと関わって、軍人向け文範はスピード感を大事にしていますよね。緊急時にぱっと書かなければいけないといって。あと、今回改めて思ったのは、言文一致の文範に関しても、書簡文に対する執念が圧倒的だということです。

多田:書きことばのスピード感は軍事や商業などの国策レベルで、絶対に必要なものとして取りあげられました。森鷗外や矢野龍渓が参加した『臨時仮名遣調査委員会議事速記録』(1909)という委員会でも、鷗外が仮名づかいは難しくたって正しいのをちゃんと教えるべきだと演説したあと、きみは陸軍に所属しているわけだけどそれは陸軍の意見として聞いていいのかいとイヤミをいわれるところがあります。海軍の委員なんかは速く書けるような仮名づかいにしろ、長音なんか「ー」でいいとはっきり言っている。

そういう制度的な要請がある一方で、書簡文にはもともと日常生活のなかで決まっていたスタイルがあるから、変えること自体かなり苦しいという事情がありました。このあたりは最近の、用事をぜんぶデジタルでやるかどうかというあれに少し近い感じがします。『美文的三体書簡』(1914)のように、候文、言文一致文、そして「ハガキ文」の文例を示した書翰文集などもありますが、戦前の社会人たちはごく普通に候文の手紙をやりとりしていますし、儀礼的な場では候文が必須です。

谷川:世代間の差もあるし、男女差もあります。たとえばひらがな主体で生活している母親にはどう手紙を書くのかという話になるので。

〈明治後期~、素人っぽさへの志向〉

倉田:文範と文例の差異の話でいうと、投稿雑誌に載ったものがただちに文範的な機能を果たすという側面もありますか。あるとすると、例えば小平麻衣子さんが『夢みる教養』で書かれておられるように、とくに女性の投稿について、あえて素人っぽいほうが良いという方向で指導するような選評が付される。すると、先ほどの谷川先生の「素人が押し寄せてくる」という話ですが、むしろ素人っぽくないと載らないというふうになり、それが加速するという傾向が、いつの時期からなのでしょう、投稿誌の中ではあるのではないかという気がしました。

私が書かせていただいた「文範百選」でいうと、文例集がそのまま『少女模範文 文話文例』(1933)というタイトルで出されていて、その中でも繰り返し素人っぽい書きぶりを奨励するような選評が付されています。正確には「素人っぽい」という表現ではありませんが、「心のうちを偽らず飾らず」「ありのままに」綴ることが良いと奨励する。この素人っぽさの奨励が、文範と文例が分けにくいということとつながってくるのではないかと思いました。

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馬場:学校教育らしいですね。

湯本:美辞麗句集の話になってしまいますが、明治期の終わりまで美辞麗句集は典拠のないものがほとんどで、実際に典拠があってもなくてもただ句だけが紹介された資料となっていました。それが、たとえば大正になって刊行された『内外文豪美辞名句叢書』(1917)のように、第1集『夏目漱石美辞名句集』(1917)など、それまでのどこの誰のものかわからないお手本ではなく各作家の美辞麗句集に変化していきました。あくまで美辞麗句集の形式のみの話ですが、素人っぽさは実際の素人からは奪われていったともいえるのかなとお聞きしていて感じました。

栗原:やはり素人っぽさという議論は重要だと思っています。二項対立的にプロとアマチュアというか、素人のようなものを措定するというより、素人っぽさをプロのほうが装うようなシーンも結構あるような気がします。

最初、もともと藤村のことをやっていたので、藤村の話をしようとしていた中で思ったのは、藤村なども、素人ということを自認しながら文章を書くということを結構やっていて、大正期になってからは、特にそれを紀行文などの中で狙ってやっています。その素人っぽさというのが、僕はどういうところに藤村が担わせたのか分からないけれども、とにかく自分が素人であるということを言いながら、素人っぽい目線で軽く書いてみるということを非常によく言うようになるのです。

やはり紀行文や自然の描写のようなものは、こういう文例集・文範集の中の、表現のせめぎ合いの一番大きな場としてあったと思っています。特に、指導者なども非常に多い中で、うまい人は確かにうまいし、下手なものは下手だけれども、大正後期になると、それがもっとツールとして、旅日記のようなものが出てくる中で、藤村はあえてそちらの文体に自分の文章を寄せていくようなこともしています。プロが今度は素人のほうに逆流するというか、還流していくというようなシーンが目に見えると結構面白いのではないかと、素人というところでいうと、個人的には今の話を聞いていて思いました。

倉田:太宰や川端が素人の文章をそのまま使うという事例もまさにそうですよね。

多田:多分それをさかのぼっていくと漱石『坊つちやん』(1906)『坑夫』(1908)徳冨蘆花でいえば『寄生木』(1909)あたりが見えてくるのかなと。素人の言葉をあえて作品の中心に置いて、いわゆる「プロ」の文体では絶対にないものをあえて書いていく文学の流れが、明治30年代のなかばくらいから出てきます。先ほどの『時代青年文集』みたいに無名青年の文章ばかり集めた文例集なんかも出る時期ですね。

ただ、谷川先生がおっしゃった「素人」のインパクトについて、私は「素人」たちの文章にはもう少しこまかい区分があったのではないかと思っています。たとえば昭和初期には投稿雑誌『若草』の投稿を集めた本が出ますね(『若草散文集』『若草詩歌集』、ともに1930)。『若草』は少女雑誌だったのに男が多く投稿するようになるというので知られていて、当時の「女ことば」はたぶん一筋縄ではいきません。

堀下:『若草詩歌集』は事前知識なしに読んで、西条八十かぶれの女学生の投稿作が載っているのだろうと思っていたら、男性投稿者が多いので面食らいましたね......。女性向けのメディアに女性名を偽って男性が投稿する例はいくつかあると思いますが、男性名のまま投稿しているのが面白い。女性主体を仮構するのとはまた違う意識がありますよね。もう一つ面白いのは、『新若草詩歌集』(1939)という続編が出ているのですが、自由律短歌の部が設けられているんです。「素人」の投稿作品というと、特に伝統詩形の場合、ジャンルの前衛的更新とは無関係に古風な作品が生産されるというケースが多いのですが、これはそうではない。そして自由律短歌の投稿者には、何子、何代といった女性の名前が非常に少ないです。歌のことばが「女ことば」からモダニズムのことばへと移っていったことと、複雑に絡んでいそうです。

多田:これは私が非常に好きな本で、『歌劇日記』(1934刊、1935年分日記)という日記帳があります。宝塚ファンのためのヅカ情報満載の日記帳に、買った人が日々のできごとを書いていくもの。こういうところに書かれる日記の文体は、やはり博文館の『当用日記』なんかとはおのずと違っただろうなと。『母性愛日記』(1929)という、何ともいえない日記帳もありました。育児情報がいっぱい書いてあって、そこに「母性愛」を書いていく日記帳です。それから『ある夫人の手紙』(1926)という手紙文や『荒鷲の母の日記』(1939)、ドイツで飛行兵をやっている人のお母さんの日記を翻訳したものもあり、「夫人」と「母」は書き方が違うようです。

たとえば太宰治に、昭和16年12月8日の女性の日記がありましたね(『十二月八日』1942)。『女生徒』(1939)の書き手でも『斜陽』(1947)でもいいのですが、太宰の「女ことば」の書き手たちについては、こうした日記群のどれに近い「女ことば」を使っていたのか、どれとも違うのかというように考えてみてもいいのかもしれません。

杉山:戦後の話なので少し違うかもしれませんが、大西巨人『たたかいの犠牲』(1953)という小説は、『嵐に抗して』(1951)という、1951年に九州大学第一分校で行われた単独講和・安保条約反対運動のガリ版刷り冊子からかなりの分量を引用しています。その抜粋が「文範百選」で紹介させてもらった『日本の息子たち』(1952)に収録されているのですが、この本の解説を小田切秀雄が書いていて「文学作品としての評価に堪えうる」と言っています。戦後文学の場合は記録、ドキュメンタリーという文脈から素人の文章が文芸作品に食い込んでいくような流れがありそうですね。

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〈読者コミュニティの捉えかた〉

北川:今『坑夫』(1908)の話も出ましたが、名作だから文例集に入っているという視点もあるけれども、そういった文例集を出すことで、そこに一つのコミュニティがつくられる。例えば出征兵士だったら、「出征するのは私だけではなくてこんなにいっぱいいるのだ。みんなここを見ているのだ」と、隣りにいる人をお互いにバーチャルに見渡せるという機能があって、コミュニティの輪をつくり出すところがこういった文章集にはあるのではないかと思っています。やはりそこには中心と周縁のようなものが出てくるのではないでしょうか。つくられた場の中に力関係が同時に生まれているのではないでしょうか。

たとえば明治時代の場合であれば、文章自体はあまり質が良くないけれども、すごく勇敢に戦って死んだ人の文章だから収録されると。文学の側から見たら、作品としての質が担保されていることが必要だけれども、先ほどの谷川先生のお話にあったように、作文というのは文学よりもはるかに広い社会的な領域で、中学生みんなが書いてるわけです。そしてその周辺層も書いているわけですよね。そこにコミットする資料なので、コミュニティというのは一つのキーワードになるのではないでしょうか。

文例集が作られた時に、そこに一つのコミュニティが現れる。例えば「帰省」というテーマで文章が編まれた時に、「帰省する人たち」という社会集団が認識される。その人たちが「帰省」をどのように受け止めているかという感性の領域もお互いに知ることができる。そういう輪をつくり出している、コミュニティをつくり出しているというところがあるのではないでしょうか。そこには規範性という形で力関係も入ってくるのではないでしょうか。

谷川:北川さんがおっしゃっていることはよく分かるのですが、投書段階であるサークルができるということが雑誌ごとに存在しているというのは少し疑問です。

金子薫園なども書いているのですが、『文章倶楽部』の誌上で投書家に対する注意を与えているのです。それは、載ったものをすぐまねする人がいるのです。他の雑誌で見かけた入選作をそのまま写して『文章倶楽部』に投書する輩がいて、これがしばしば入選してしまうことがあるし、そうしたことをしないまでも、選者が気に入りそうな文章を苦もなく書いてみせる手合いはごろごろいるわけです。例えば金子薫園だったら、当時『自然と愛』(1916)という水野葉舟ばりの文集が出ているのですが、ああいうものに合わせて出したら載るだろうと。佐藤義亮だったら小川未明が好きだから、こんな文を出しておいたら選んでくれるだろうという見通しがあるわけです。結構それは知れ渡っていたようです。そういう世界なので、雑誌ごとというよりは、投書家たちの動きというのはもう少し、われわれの想像を超えてえげつないのです。女性のふりをしたりもするし、ひどい場合は選者が作っていますから。

あとは、金子薫園をぜひやってほしいのですけれども、和歌の宗匠は絶対作品に手を入れるでしょう。だから薫園が選んでいる投書というのは、手を入れたものを出している可能性があります。

堀下:短詩形は選者の添削を前提にして投稿します。少なくとも短詩形の場合、その雑誌、その欄に「所属」するという意識が濃厚にあります。発行者が選者を務める雑誌なら理解しやすいですが、それだけではなく、商業雑誌の片隅に載っているジャンル毎の投稿欄にすらその所属意識は認められます。選の傾向それ自体が文学観ですからね。だから、その文学観に同調する、精神的な、無形のものも含むコミュニティの存在を想定したほうがしっくりくるのですが......。ただ、自分の書いたものを活字にしたいという欲望をもっと高く見積もらないと危険だというのも理解できます。平成に入ってからですが、選者の添削は著作者人格権侵害と名誉棄損だという損害賠償請求を起こした投稿者がいました。添削は慣例であるとして退けられたのですが、何にせよ、投稿者の自尊心というのはさまざまな形で存在しているわけですね。

多田:与謝野晶子、鉄幹の雑誌『明星』なども、高村光太郎が何回投歌しても与謝野先生の手が入っているからうんざりしたと書いています。

谷川:光太郎と違って、逆に手を入れて載せてもらったら名誉だという人のほうが多数派なのです。だからそもそもが非常にグレーゾーンで面白い。なかなか一筋縄ではいかないのです。

倉田:『穎才新誌』に投稿している人たちなんて、文学の流派もばらばらですよね。確かにコミュニティーが最初からあるわけではないかもしれません。

谷川:学校の名前が出るから、教師が手を入れている可能性も十分あります。谷崎潤一郎の、例の小学校の先生のような非常に熱心な先生もいるので、やっている時に先生が手を入れる可能性も当然あって、選者も手を入れるかもしれません。だからどこまで本当の投書なのかというのは分からない世界です。

北川:投書や編集の段階では様々な思惑があると思うのですが、出版された現実とどこまで対応しているかというのはおっしゃるとおりだと思いますけれども、出た結果として、例えば「帰省」というものが非常に重要なテーマとしてありますよねというふうに、それは実態と関係なく伝わっていく、流通していくというようなこともあるのではないかと。

谷川:それはそうですね。おっしゃるように、そういう立身出世のパトスのようなものが最後に残る、誰ものもでもないけれども、そういうものが残ってしまうようなところがあるのだろうと思います。

北川:バーチャルなコミュニティーができて、例えば素人らしさや、あえてそこから外れるなど、一つの場が生まれてくるというところで見ていくと、実作との関係だけではなくて、かなり幅広い社会的な領域として捉えられるのではないかと思います。

〈「作品」と文の複数性〉

倉田:北川先生と谷川先生のご論文で、文範の特徴として、文章が元の文脈から切り離されるということが指摘されていました。「なるほど」と思いながら拝読したのですけれども、その一方で、最終的に一人の名前で発表されるという面もあるともおっしゃっていたかと思います。

一人の名前でなくても、文例集というのは一冊の本の中にいろいろな文脈が交差しながら、でも一冊の本としてまとまった形を取ることで、場合によってはすごく古いテキストが別の形で政治化されたりすることがあるように思います。つまり一旦脱政治化されたものが急にまた別の文脈の中で政治化されたり、別の文脈に回収されたりすることがあるということを改めて思いました。

誰が書いたものという文学史の切り取り方ではなくて、その時々で浮かび上がってくる何か磁場のようなものがあり、そこに言葉が集合していくような文学史の流れが見えてくるのではないかということを、皆さんのご論文を拝読して感じました。いったん離散した言葉たちがまた集められて、ある文脈を形成するということがあるのではないかと。

時代が飛ぶので一緒にしないほうがいいのかもしれませんが、先ほど名前が出た平林たい子、小林多喜二などもいろいろな文例集から言葉を得ていると思いますけれども、たとえば平林は短歌の影響を強く受けていて、それらの言葉が結局、プチブル的でない文章を書く時にも役立つわけですよね。そのように、彼女が学習した短歌の表現が別の文脈の中で、プチブル的でない、あえて簡素な文章を書く時に役立ったりするという形で、政治化されることもあるのではないかと思っています。その時々の政治の流れに沿う形で再文脈化されるというところが見えたらもっと面白いなと思いながら読んだところです。

多田:小林秀雄がマルクス主義の言葉を使ったりするのはその逆の例ですよね。

杉山:面白いお話ですね。例えば、野間宏『暗い絵』などの閉塞的で粘っこい文体は「三十代」の「暗い青春」、つまり左翼運動の挫折と戦争体験に由来するものであったわけですが、その文体が「政治と文学」論争を行っていた『近代文学』同人の評価や日本共産党の近代主義批判を通じて、「政治の優位性」や党主流に対するオルタナティブのシンボルとして政治化される流れがあったのではないかと思います。だから、井上光晴は野間宏とは一回りも離れていて、いわゆる「三十代」には属さないわけですが、それにもかかわらず『病める部分』(1951)など、彼の党批判小説の文体が『暗い絵』を思わせるような重苦しさを帯びているのは、そういう点から説明できるのではないかと。50年代に入ると、今度は逆に野間宏が『暗い絵』や『崩解感覚』(1948)の文体から抜け出して、プロレタリア文学を思わせるような素朴なスタイルで小説を書き始めます。それは野間が日本共産党の「五〇年問題」などから『人民文学』の側に移って、党主流に迎合していく流れと一致しているわけで、党主流に対するオルタナティブの刻印を意識的に脱ぎ捨てる振舞いとして捉えることもできるかもしれません。

倉田:先ほど北川先生がおっしゃっていた、コミュニティをつくり出すという話とも繋がりますが、例えば女学生たちの投稿文は、本当に女学生が書いているかどうかは分からないけれども、女学生らしい言葉をかき集めて書かれている。それが一見してコミュニティに見えるような形で投稿されていく。多分いろいろな文範を参照しながらそれを書いていると思うけれども、活字になった時点では一つのまとまりのように再編成された言葉として、一つの雑誌の中では見えてくるのではないかと思いました。

多田:それでお伺いしてみたかったのが、「作品」「テキスト」などいろいろな呼び方で呼ばれている一つの文章のまとまりがあるけれども、倉田先生の言葉でいうと文章のなかに「磁場」が複数あるような構造が見えてきた場合、その評価や取り扱い方はどうなるのかということなのです。これは私自身もずっと考えていることです。

一つの作品という体で出ているけれども、いろいろな言葉が入っていて、それが文例集などを横に置いてみるとよく分かると。それがまた拡散していって別の作品で使われているということになると、この「一つ」という単位はどのように取り扱うことになるのでしょうか。たとえば紅葉の『二人比丘尼色懺悔』は誰にとっても明治20年代初頭の名作だったと思うんですが、その「名作」ぶりの捉えかたはどのようになるのかを、伺いたかったのです。

馬場:そうですね...。おそらく実際に読まれたことがある方は、イメージする「名作」、つまり『こころ』とか『雪国』といった作品と『色懺悔』とが同じようには感じづらいのではないかと思います。筋だけ言えば、時代ものの恋愛小説で、一人の若武者が、敵側にいる元許嫁も主家側にいる新妻も選べない状況に陥って、さらには戦に負けて自害するという悲劇なのですが、紅葉という作家の思想的な深みをこれで推し量ろうとしてもなかなかに難しい。ですが、文章のまとまりとして、文体に焦点をあてると、それこそ多声的というか、和歌表現や演説表現などを引き寄せては、心理や風景を描く表現に鋳直してみせている。先にも言いましたが、記号を多用する分、言葉で説明されていない余白も生まれるわけで、草双紙などの解説的な文体に慣れていた読者が「ここも想像しなきゃ」という余白に反応する鑑賞力が要請されていて、それによって読みの深み体験をさせてしまう、そういった新しさがあったのだと思いました。

多田:たとえば主人公たち、小四郎守真の考えていることがどうか、芳野がどうかというような物語論とは少しちがうもしれないけれども、作品内のいろいろな文体要素の組み合わせ方のようなものをこそ見るべきだということですか。

馬場:その方が「読み」の可能性が広がりますし、おそらく紅葉が試みたものに近いのではないかと思います。たとえば小四郎が、自分を慕う女性たちを受け入れない苦悩を語るときに、長い内言が始まりますよね。まずあの長さがあり得ないのですが、本来だったら不特定多数の人に向かって語る演説スタイルを使って独り言を言うわけです。そのようにして、その人物には実は深く悩んでいる部分があり、それが他者から見えない、自分も絶対言わないというように、人には二重三重に隠されている内面がある、そういう心の多層性のようなものを表現している。そこを基準にすると、これまで指摘されてきた近代的な意味でのプロットの破綻は、さほど問題では無かったとも言えます。

多田:小四郎からは絶対に見えないはずの情景が小四郎の回想に入っていて、いわゆる合理的な読み方では全然読めないところですね。でも回想を作っている文体のレイヤーに目を向けると、心理を隠す動きの多層性が見える。

馬場:その見方の方が、読み方を豊かにしてくれるはずです。今回、紅葉の名フレーズとされているものを何度も読んだせいで暗記してしまって。ほぼ丸暗記状態になってくると、いろいろな文範や文例集、新しい作文書で一体どのような表現を生み出そうとしているのかが見えやすくなり興味深かったです。

従来の注釈書などで触れられていないところにも文範的なものが多くあって、今回の発想であらためて注釈を付けようとすると、ずいぶん異なるコンセプトになるのではないかと思いました。例えば大学での文学教育など、明治・大正の古い作品が読めない、読まない、といったことが課題になっていますが、文範・文例集を参照することで日本語作品の面白さを伝えられる可能性があるのではないかと思ったりもしました。

実を言うと、私は文範・文例集を読んでいて次第に楽しくなってしまいまして、いかに有名な文範や文例を使って、新しい感覚を盛れるかという面もあって。そういう視点から作品を読み解くことも、あってもいいのかもしれないと思いました。

多田: 馬場先生が引用している堺利彦の、来島恒喜襲撃みたいな政治的大事件よりも『二人比丘尼』のほうがはるかに大きい衝撃だったという証言はすごく印象的で。文章を書く上での認識の枠組みのようなものを転覆させてくれるようなところが『色懺悔』にはあったんでしょうね。

馬場:きっとそうだったんだと思います。紅葉は「文範クラッシャー」だと思うのです。文範があると分かるけれども、そこを絶対に......

多田:とびきりの文範マニアだからこそできる、という感じですね。やはり文範カタログで、『美人詞林 衣香扇影』(1899)でしたか、山田美妙が金がなくなったころ、「昔、紅葉と一緒に抜き書きして見せ合っていたこの文集を今出版する」と言って抜き書きをさらしたような本があるけれども、紅葉と美妙が手製の文例集を見せあっていたというのが多分、先生のおっしゃる「文範クラッシャー」の原動力のひとつなのかなという気がします。

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杉山:実作と文例集との関係から、その実作の評価、またはそれを論じることを考えた時に、文例集の方向から作品を見ていくと、その作品を解体していくような形になっていきますよね。

つまり、その作品を一個の作品として評価するためには、文例集という観点からその解体の方向へ引っ張っていくだけだと難しくなるわけで、もしそれを一個の有機的な完結した芸術作品として評価をそこに与えようとするなら、それに加えて、そこに描かれている思想などとの差分を見る必要がありそうです。文例集のほうから引っ張って解体したものと、その作品に表れている思想などとの交錯に注目することで、新しい作品論、作品評価のようなものが開けるのではないかと思います。

多田:そうですね、書いてある中身と書きかたの交錯を見つめなおす、というやりかたになりそうです。今でも小説が出版されると、「なんかSNSみたいな文体だな」と思ったりしますね。まさに北川先生がおっしゃるように、メディアがあるからこそ、メディアの文体が違うジャンルの文でもなんとなく意識されるわけです。大学生の皆さんに授業で聞いてみても、SNSごとの文体みたいなものは厳然とあるようです。チャットとメールとでは全然違う言葉を使うとか。一つの作品の中でそういう複数の文体を感知するというのは、ごく自然な読み方なのではないかという気もします。

馬場:そうした読み方が、従来の分析方法、たとえば語り論などとうまく切り結ぶと、作品の解像度が上がる可能性が高くなると思います。そうしないと、削ぎ落としてしまうものが大きいと言ったほうがよいのかもしれませんが。

〈『自然と人生』というジャンル〉

多田:やはり明治30年代くらいまでは、いくつかの文体の流れが一つの書物や作品の中でも渦巻いているというのが、日本語の文章の特徴かなと思います。その後、20世紀に入ってから言文一致がスタンダード化するというような見取り図がありますが、私個人は、先ほどのお話ではありませんが、それは文学だけ見たときに出てくる説かなと思っています。言文一致のなかに見えにくい差異があるというのもそうですが、大正期以降も文の〈ヴァリエイション〉の感覚が色濃くつづいていたことを示すのが、徳冨蘆花『自然と人生』(1900)の流行ぶりではないかと思います。この本は明治時代の文範の集大成みたいなところがありますね。

谷川:あれは完全に。

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多田:この本を「文範百選」に入れるのは北川先生の発案でした。解題でも大岡昇平の文章を引用なさって、自分たちの時代は中学教科書の大半にこれが載っていたとあるわけですけれども、あらためて北川先生いかがですか。

北川:やはりいろいろな証言で出てくるので、非常に広がったという意味でも、大きな存在だったのだろうなという気はすごくします。実際に読んでみると、時代小説のような『灰燼』もあり、タイトルにわざわざ「小説」という角書きのようなものが付いていて、ジャンルが明示されている。これは『明星』などもそうなのですが、作品タイトルの上に「美文」などとジャンル名がいちいち書いてあって、小説や美文や写生文などのジャンルの境界線が不明確だったということがよくわかります。大岡昇平は、それら全体が「文」として受け止められたのだと証言していると思います。

多田:何といったらいいか、この本からあとは〈自然と人生〉という概念が上位分類で、小説とか随筆とかは下位分類という感じになるんですよね。集めていておかしかったのは、『美文資料 自然と人生』という同じタイトルの本が別の内容で2冊あるのです(1910、1916)。だから徳冨蘆花以後、〈自然と人生〉という......

谷川:ジャンルが。

多田:ジャンルになっている感じがしていて、それは蘆花が開いたのだと思うのです。

馬場:そういう文範項目がいっぱいありますものね。

谷川:雑誌でも特集号を作って『自然と人生』というタイトルにするようなむちゃくちゃなことをするのです。

多田:宮崎湖処子の『帰省』もそれこそ一回小品文集が出るぐらいのブームがあったと思うけれども、『自然と人生』はそれよりはるかに大きい現象になっていて、北川先生がおっしゃるように、美文も写生文も小説も入っているという、結構大きなジャンルの変動だったのだろうなと。

北川:最初はワーズワースから始まるのですよね。この時期の散文が、小説や詩までも総合したひとつのジャンルを作っているような、そういう時代の雰囲気をよく伝える本なのではないでしょうか。

多田:『自然と人生』と、国木田独歩『武蔵野』もそんな本ですね、形も同じですけれども。『武蔵野』も版元をかえて62版まで出ていますが、『自然と人生』はもっと、私が見たかぎりで254版まで、版数にごまかしがあったとしても継続的に出ています。これと、先ほど谷川先生がおっしゃった『新文章辞典』や『新描写辞典』との関係はどうなるのでしょうか。

谷川:多田君とも議論していたのですが、新しい文例集には入る作家と入らない作家というのがかなりあって、むらがあって、あれが非常に面白いのです。正宗白鳥などは当然あまり入らないのですが、武者小路などもあまり入らないのです。しかしたとえば「灰色の空」というのがあって...。

多田:谷川先生がおっしゃってましたが、自然主義あたりの文例集を見たら、みんな口をそろえて「灰色の空が...」と書いていると。

谷川:あれはある時代のキーワードで、「灰色の何とか」と言うだけで具体的な表象がみんなに共有されるのです。

多田:小川未明っぽいですね。

谷川:そうです。小川未明の冒頭なんかが頭に浮かぶような、非常に強力な言葉でした。象徴詩や北原白秋なんかに流れ込みます。もともとは『自然と人生』の中に「灰色の空」という表現があるのです。

馬場:楽しいですね。

谷川:だからあれを蒲原有明が取って詩に入れて、小川未明などが使いまくっているということです。先ほどの「里川」と同じような感じで、みんな『自然と人生』から来ているとは思わないけれども、その可能性はあります。やはり有明や小川未明のイメージは強烈ですから。未明などは投稿文の選者も金子薫園とやっていたりするので、やはり結構影響力があるのです。

多田:関わるかどうかわかりませんが、先生が先ほど、手紙文例集に近づいていくとおっしゃっていた点、私は大正期の小説のつくりかたはどうも近代詩などの作法に近づいてくるのではないかという感じがします。

谷川:詩のほうに戻ると。

多田:百田宗治などの近代詩作法書をたくさん出す連中のものや、栗原先生がご紹介なさった詩歌の文例集を見ると、結局小説の作り方と同じなんですね。言葉を組みあわせるというか。これは近代詩が小説にあわせたというよりは、もともと詩歌の作法書にあった〈言葉の組みあわせ〉的なやりかたを小説作法書がまねていたということになるのではないかと思います。ということで、後半は詩歌の話からいきましょう。

Ⅲ 討議2 文体はどこへ行くのか? へつづく】

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文学通信
国文学研究資料館編『文体史零年 文例集が映す近代文学のスタイル』(文学通信)
ISBN978-4-86766-079-9 C0095
A5判・上製・440頁
定価:本体4,000円(税別)