坂口安吾研究会 第45回研究集会 (2025年9月27日(土)13時~、関西学院大学 上ヶ原キャンパス)

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第45回研究集会について
下記の要領で第45回研究集会を行うこととなりました。

《第45回研究集会》
◇期日:2025年9月27日(土)13時より 
◇会場:関西学院大学 上ヶ原キャンパス
(〒662-8501 兵庫県西宮市上ケ原一番町1-155)
文-11教室(文学部 1階 リンクの〈キャンパスマップ〉の11)

特集「坂口安吾とミステリ再考」
発表
安吾とポー――〈ロヂカル〉な〈ファルス〉としてのミステリ
押野武志

犯人をめぐる考察――ミステリは民主主義に資することができるのか
西田正慶

『明治開化 安吾捕物帖』について
浅子逸男

坂口安吾『安吾捕物帖』と探偵小説・捕物帳ジャンル
松田祥平

共同討議

◇総会

※研究集会の後に懇親会を行う予定です

◇特集「坂口安吾とミステリ再考」 企画趣旨文
 坂口安吾におけるミステリというテーマについて、本研究会では2004年に発行した『坂口安吾論集Ⅱ 安吾からの挑戦状』で企画した「共同討議 坂口安吾とミステリ」(法月綸太郎・浅子逸男・押野武志・加藤達彦・武田信明)で既に取り上げている。討議は安吾のエッセイ「推理小説論」(1950年)やミステリの代表作「不連続殺人事件」(1947~1948年)を通して、安吾とミステリとの関係を再検討するところから始まっているが、その流れで次のようなやりとりがある。
 「法月 (略)そこらへんの一種乱暴な転倒というか、飛躍の仕方というのが、煎じ詰めればある種のファルスに通じる考え方ですね。そこはファルス論と探偵小説論がやっぱり同根のものであるというところを、きちんと見ていかなければいけないと思うんです。/加藤 でもファルス論と探偵小説論とでは、少し時間が離れている気がしますが......。/法月 そうですね、それも興味深いところです。」58頁
 ミステリについての批評や実作が1940年代後半に始まったものととらえる限り、1932年の「FARCEに就て」との間との時間差がどうにも埋めがたいものとなる。しかし、2022年に見出された探偵小説「盗まれた一萬圓」(1933年)は安吾のミステリへの関心がファルスへの関心と同時期から始まっていることを示唆してくれる。ファルスとミステリとの関係についてあらためて検討する機会が来ているのではないだろうか。また、2004年から現在までの間に、近代日本文学研究においてミステリ研究が占める位置ははるかに大きなものとなっている。先の共同討議では安吾が語るミステリの「ゲーム」性や「人間」性についても検討の対象になっているが、現在のミステリ研究から見て安吾のミステリ論やミステリの実作をどのようにとらえられるのか、再検討する可能性もあるだろう。
 以上の問題意識から、ミステリを通して坂口安吾やファルスを、また坂口安吾からミステリを、再考する研究発表を広く求めることにしたいと考えている。

◎発表要旨
安吾とポー――〈ロヂカル〉な〈ファルス〉としてのミステリ
押野武志
法月綸太郎は、安吾ミステリとファルスの方法論との共通性を『不連続殺人事件』( 1947~48年)を中心に論じた(「フェアプレイの陥穽」『坂口安吾全集』第6巻月報3、 1998年、筑摩書房)。八木敏雄は、パロディストとしての安吾とポーのファルス作品との共通性を論じた(「消えなましものを――坂口安吾とエドガー・ポー」『ユリイカ』 1975年12月)。それに対して本発表は、ポーのファルス的作品とミステリとの共通性から、安吾のファルス的作品に内在するミステリの特質を明らかにする。
安吾は、西洋において「ファルス全体の構成が甚しくロヂカルになつてきた」と言い、その例として、ポーの三作品「Nosologie, Xing paragraph, Bon-Bon」を挙げている( 「FARCEに就て」1932年)。また、「風博士」(1931年)は、「Xing paragraphとかBon Bonなどといふ馬鹿バナシ」に刺激されて書いたという(「二十七歳」1947年)。「風博士」をはじめ、「群集の人」(1932年)、「盗まれた一萬圓」(1933年)などの安吾のファルス的作品から見出される、パロディ性・表層性・分身関係といったポー作品とも共通する視座から、両者のミステリの特質を考える。
犯人をめぐる考察――ミステリは民主主義に資することができるのか
西田正慶  
民主主義は探偵小説を発達させる土壌」だ(田村隆一)という言説がある。とくに19世 紀欧米の一小説形式に倣った「近代日本の探偵小説」が存立するためには、犯罪を「監 視する規律権力がすでに市民社会に拡散したかたちで深く内面化されている」近代的な国民国家もまた前提として不可欠であるという論理である(内田隆三『探偵小説の社会 学』岩波書店、01・1)。
 例にもれず、坂口安吾も形式的犯罪論に重きを置く「新憲法は探偵小説の革命的発展 を約束づけている」(「推理小説について」『東京新聞』47・8・25~26)としていたが 、この予期は「新憲法」の刑法分野への影響が一部にとどまったために十全に実現され なかった。坂口安吾「孤立殺人事件」(『新潮』51・8)は静岡県伊東市で発生した夫妻殺害事件を起点に骨肉間の怨恨やその孤立に着地するエッセイであるが、そのなかには 「未開人の礼儀を尊重」するばかりで、「真理や正義のためには甘んじて面子をすて、 被告的な取り調べにも応じる必要がある」という論調を採らないマスコミおよび国民へ の批判がみられる。この時当然、日本国憲法の定める国民の黙秘権などは思考の外におかれている。重要なのは、作家がこうした着想を西欧の「探偵小説」の摂取から得たことである。発表に際しては、ミステリというフィクショナルな書物を読むという経験と、作家の思考あるいは小説を書くという行為への影響を検討したい。
『明治開化 安吾捕物帖』について
浅子逸男
第一話の「舞踏会殺人事件」に、「そこで総理大臣は(十八年十二月までは太政大臣と云った。その前後がちょうどこの捕物の時期に当っているので、官名を史実通りにハ ッキリかくと秘中の実が知れてしまう。そこで太政大臣をひッくるめて、前後一様に総理大臣とよぶことにする。(以下略)」という断りが出てくる。そのあとにも、「そこでZ国の大使フランケン(この名もデタラメ。発音によって国名が知れるから、いい加減なのを選んだ)(以下略)」と記されている。ところが開巻早々「時はもう明治十八 、九年という開化の時世であるが」とあるので、時代については明白だと思うが、「官名を史実通りにハッキリかくと秘中の実が知れてしまう」という「秘中の実」あるいは「秘中の史実」と書かれているのはどういうことをさすのであろうか。そこにはいかな る狙いがこめられているのだろうか。
かつて、勝海舟に「だから、オレは、舞踏会が嫌いなのさ」と言わせているのは明治二十年五月の建白書に基づいていると書いたことがあったが、「秘中の実」なるものを あきらかにすることはできなかった。今回も、開化期の様相をうかがわせる箇所について言及するつもりではいるけれども、安吾が隠した「秘中の実」にせまることはできる のだろうか。
坂口安吾『安吾捕物帖』と探偵小説・捕物帳ジャンル
松田祥平  
坂口安吾の晩年の仕事として知られる『安吾捕物帖』は、舞台となる明治開化期に戦後の世相を重ね合わせ、安吾の批評精神を読み取る尾崎秀樹の論考以降、主として作家 の思想との関連から読み解く作家論的視点に基づいて論じられてきた。こうした潮流がある一方、近年では、探偵小説および捕物帳というジャンル論的な視座からの把握もな されつつある。しかし、それらにおいて、両ジャンルの、とりわけ捕物帳の同時代的動向を踏まえた分析は乏しく、『安吾捕物帖』のジャンル的位置づけは未だ充分に検討さ れているとは言い難い。そこで本発表では、一九五〇年前後の捕物帳ジャンルの動向を視野に入れつつ、『安吾捕物帖』が同ジャンルにおいていかなる位置を占め、またどの ような特性を持つのかを明らかにする。これによって、同作品の再定位を試みるとともに、戦後探偵小説・捕物帳ジャンルの再編成過程における一断面を提示してみたい。