六朝学術学会第29回大会(2025年9月6日(土)13時00分~17時00分、東京大学本郷キャンパス法文2号館1番大教室+オンライン)※要申込

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https://liuchao.gakkaisv.org/
日時 9月6日(土)13:00~17:00
場所 東京大学本郷キャンパス 法文2号館 1番大教室
■プログラム
○総会(13:00~13:30)
○開会 13:30~
会長挨拶 齋藤 希史(東京大学)
○研究発表 13:40~(各発表20分、質疑10分) ※途中休憩含む
①宋晗(フェリス女学院大学)(13:40~14:10)(9:50~10:20)
「詩語としての煙の確立----劉宋文学の新動向----」
司会 堂薗淑子(愛知教育大学)
<休憩(10分)>
②山崎藍(青山学院大学)(14:20~14:50)
「元稹「有鳥二十章」第十八首攷――鸚鵡譚の詩的転用」
司会 佐野誠子(名古屋大学)
<休憩(10分)>
③蔡忠義(明治大学大学院)(15:00~15:30)
「魏晋六朝初唐の並称と古代日本におけるその受容について」
司会 道坂昭廣(京都大学名誉教授)
<休憩(10分)>
④長谷川隆一(長岡技術科学大学)(15:40~16:10)
「君子は聖人になれるのか?----性三品説の展開における顔回の位置づけを立脚点として―」
司会 和久希(二松学舎大学)
<休憩(10分)>
⑤渡邉義浩(早稲田大学)(16:20~16:50)
「天監の改革と梁の貴族制」
司会 川合安(東北大学)
○閉会の辞 副会長 渡邉義浩(早稲田大学)
■要旨
詩語としての煙の確立――劉宋文学の新動向――
宋晗(フェリス女学院大学)
「煙景」「煙華」「春煙」など、かすんだ景観を表す語彙の多くには煙という文字が含まれている。それらは中国古典詩に頻出し、煙という言葉が朦朧たる自然を描く上で常用的なものであったことを示している。煙は元来「火のけむり」を意味し、「もや・かすみ」としての用法が一般化したのは六朝期のこととされる。合山究氏は、漢魏の諸家から謝霊運(385~433)までの詩にこの意味での用例がほとんど見られず、鮑照(414~466)・謝荘(421~466)を境目に急増してゆくことを指摘している(『雲烟の国』第八章「中国文学と雲烟」、1993)。その根本的な原因には、まずもって詩文創作・享受の舞台が中原から温暖・潤湿な江南に移ったことが挙げられる。しかしながら、煙の新たな用法が、江南の自然を精妙に描いた謝霊運ではなく、彼以降の諸人によって確立した経緯については、なお検討すべき余地が残されている。
本発表では、顔延之(384~456)の文章に「もや・かすみ」の意味の煙が用いられているのに着目する。謝霊運が煙という言葉にさしたる関心を寄せなかったのに対し、顔延之は煙の新たな用法を積極的に試み、その意味拡張の過程において重要な役割を果たしたと考えられる(詳細は報告の際に述べるが、謝霊運の存命中から、顔延之は「もや・かすみ」の意味で煙を用いていた)。そうして、顔延之の美意識が用法成立の要因であったと仮定した場合、なぜそれが鮑照ら活躍時期の重なる次世代にも受容されるに至ったのか。その背景には、表現を共有・享受する詩壇全体の動向が関わっていたと考えられる。劉宋文学の展開の中で、煙の用法が精錬されてゆく過程を跡づけてみたい。
元稹「有鳥二十章」第十八首攷――鸚鵡譚の詩的転用
山崎藍(青山学院大学)
本発表は中唐・元稹「有鳥二十章」第十八首「鸚鵡」を主題とし、国際昔話話型ATU1422「オウムが妻の不貞を報告する」の詩的変奏として読み解ける可能性を提示する。これまで十分に論じられてこなかった本詩について、語りの構造と展開に注目することで、新たな文学的意義の所在を探る。
発表者は以前元稹の悼亡詩「夢井」において「境界としての井戸」という文言小説的発想が詩に転用されていることを指摘したが、「夢井」と同じ年に作られた本詩もまた、「真実を語る鸚鵡」という説話を踏まえて、「真実/偽り」「語り/沈黙」といった二項対立の境界が作品内に築かれている点に着目する。
詩の前半では、鸚鵡が主人に「妖姫の裏切り(=愛妾の不貞)」を語った結果、かえって主人に疑われて追放される様子が描かれ、ATU1422の基本的枠組みに準じている。一方、中盤の「隴頭姥」の挿話では、二羽の鸚鵡のうち一羽が嫁の非を告げて殺され、もう一羽は沈黙を守るが、最終的に姑の促しによって真相を明かし、正義が実現される。この挿話は、前半の構図を補強しつつも、語りの正当性や受容の倫理をめぐる別の価値観を提示し、詩全体の主題に新たな視点を加えている。物語をそのまま詩に置き換えるのではなく、鸚鵡に「語ることを許されぬ存在」の苦悩を託すことで、鸚鵡賦に見られる表現の系譜をも受け継いでいる本詩は、「夢井」と同様に、元稹独自の創作姿勢を示す作品と言えよう。
本発表では、唐代までの鸚鵡表象の変遷--------漢代以降定着した、籠中で人語を操る鳥に託す士人の憂懐の象徴、仏教説話や六朝志怪に描かれる「真実を語る禽獣」としての慈悲のイメージ、武則天期における瑞鳥としての政治的転用--------を概観しつつ、文言小説やインド・アラブの類話との比較を行う。その上で、「人語を語る鸚鵡」のメタファーを導入したに留まらない、詩歌と説話の表象を交錯させる本作の特異性に光を当てたい。
魏晋六朝初唐の並称と古代日本におけるその受容について
蔡忠義(明治大学大学院)
魏晋六朝初唐の文献には、人物を比較・評価する際、同一領域で活躍した双璧の両人を挙げる「並称」の形式がしばしば用いられた(「嵆阮」「潘陸」「沈宋」など)。この並称という表現形式については、かつて興膳宏氏により、古代中国語の四声に基づいて語順が決定されるという点からの議論がなされているが、同じ漢字文化圏に属する日本における受容の実態については、まだ研究の対象とされていない。発表者は、初唐期までの漢籍に見られる並称を収集し、その性格について検討した上で、近江奈良朝の漢文学(詩文・史書・金石文など)における並称の受容の実態を考察してみた。その結果、近江奈良朝の資料には、中国の並称が数多く引用されている一方で、日本の人物の並称は確認されなかった。時代をさらに下って平安朝の漢文資料を調査しても、「伴佐」「江菅」「橘藤」など氏族名の並称が見られるにとどまり、個人名による並称は現れていない。
そこで本発表では、興膳氏の驥尾に付し、まず並称の語順に関して四声以外の観点(年代・評価・社会的潮流など)から再検討を行う。その上で、並称が近江奈良朝の人々にどのように認識・理解され、どのように創作に取り込まれていったのかを明らかにする。最後に、「文字面から見る並称」と「批評的意識から見る並称」という二つの視座から、日本における並称の受容を検討する。結論としては、古代中国の並称は漢籍の伝来とともに日本にも伝わり、近江奈良朝の漢文資料に多く引用され、当時すでに並称を成立させる形式的基礎は確かに存在していた、しかしながら、人物を比較・評価するという批評的意識が近江奈良朝にはまだ十分に根付いていなかったため、独自の並称表現はこの時期には発展しなかったと考えられる。
君子は聖人になれるのか?―性三品説の展開における顔回の位置づけを立脚点として―
長谷川隆一(長岡技術科学大学)
周知の通り、顔回は孔子の一番弟子であり、他の弟子とは異なる位置づけを与えられ、特に尊崇されてきた。『論語』をみれば、孔子>顔回>その他弟子という序列が看取できるのである。
この序列自体には何の問題もなく、普通に受容されてきた。だか、漢唐間に支配的な性説となった性三品説(人間を上智・中人・下愚の三に区分し、生まれ持った性は不変であるが、中人のみ上智(聖人)の教導を経て自身の善性を向上させるという思想)より顔回の位置づけを見ると、解釈に問題が生じることになる。
性三品説は、教化を主眼にした理論であり、それには「現実の聖人である君主が中人を教化する」・「中人は聖人孔子の編纂した経書を学習することにより、間接的に教化を受ける」という二つの方法が存在した(長谷川(2019)・(2022))。とくに後者に則ると、孔子の高弟である顔回は、中人の目指すべき最大の極致である君子(賢人)として、位置づけられる。後漢代には、顔回は中人の極致とされ、とくに解釈上の問題は起こらなかった。しかし、南朝梁の皇侃『論語義疏』に至り、大きな問題が生じる。
皇侃は師説を受け継ぎ、性を上上〜下下の九に区分し、孔子を上上、顔回を上中とした。彼は上中〜下中までの七品が中人だと考えていたので、これだけ見れば、やはり顔回は中人の極致に位置づけられており、とくに問題はない。しかし、『論語義疏』を仔細に見ると、顔回を孔子と同格とする記述、顔回が聖人の領域に至れることを示唆するような記述が垣間見える。性三品説は、上智(聖人)と中人の壁は絶対であり、隔絶されている。それを承知しつつも、覆すようなぶれが、『論語義疏』には存在するのである。
本報告では、上記の問題を立脚点として、性三品説の展開における顔回の位置を通して、「聖人不可学而至」から、「聖人可学而至」への展開を探る。まず、吾妻(2000)などの先行研究、及び後漢までの顔回の位置づけを整理し、次に皇侃『論語義疏』における顔回の位置づけのぶれを確認する。その後、韓愈「顔子不弐過論」などを経由し、程頤「顔子好学論」至る過程を詳述していきたい。
天監の改革と梁の貴族制
渡邉義浩(早稲田大学)
曹魏末に司馬昭が施行した五等爵制は、九品中正制度の起家官と爵位が関わることで、西晉において国家的身分制としての貴族制を形成した。東晉でも五等爵の賜与は続けられ国家的身分制としての貴族制が形成することは、西晉と変わらなかった。しかし、東晉の五等爵制は、西晉のように皇帝との近接性を爵制的秩序として表現することはなかった。それは、皇帝が自ら軍事を指揮することが少なく、また戦いが続いたことにより、五等爵が濫授されたことによる。劉宋では、五等爵制は、皇帝との近接性を爵制的秩序により表現するものの、西晋のように五等爵により国家的身分制としての貴族制が形成されることはなかった。皇帝のもとで武功を挙げ、あるいは吏事に努めて五等爵を得た者が、国家的身分制のもと貴族となる道は、ほぼ閉ざされたのである。
こうしたなか梁の武帝は、天監の改革により新たなる国家的身分制としての貴族制を再編する。具体的には、宮崎市定が明らかにしたように、同じ官品の清濁の違いを反映させることで九品官制を流内十八班と流外七班に分け、また将軍号も十品二十四班・八班十四号に分けるものであった。本報告は、天監の改革に見られる「清」と「濁」の意識、「門地」という概念、学校と試経制度などの検討により、貴族の存立基盤を考察することで、天監の改革と梁の貴族制の特徴を解明するものである。