【連載】vol.3 イギリス研究者に向けた本書の読み方ガイド(小風尚樹) - DHへの誘い〜『欧米圏デジタル・ヒューマニティーズの基礎知識』専門分野別読書ガイド〜

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vol.3
イギリス研究者に向けた
本書の読み方ガイド

文●小風尚樹


はじめに

みなさんこんにちは。『欧米圏デジタル・ヒューマニティーズの基礎知識』共編者の一人、小風尚樹です。私の専門は19世紀半ばから20世紀初頭にかけてのイギリス海事史、そしてデジタルテキストの作成・分析を中心としたデジタル・ヒューマニティーズです。今回、本書の読書案内の第三弾として、イギリス研究者向けの記事を担当することになりました。第一弾のアメリカ研究者向け第二弾の古代史研究者向けのガイドもぜひあわせてご覧ください。

前述の通り、私の専門的関心はイギリスの歴史に向けられているわけですが、実は本書にはイギリスの歴史に特化した記事が収録されているわけではありません。このような事情から、私自身も異なる学問分野の様子をのぞき見るような心持ちで、この読書案内を執筆しています。的外れな指摘も含まれるかもしれませんが、その点はご容赦ください。本稿では、文献学(とくにシェイクスピア研究)と歴史学にテーマを絞って、本書を読み進める順番を提案したいと思います。


文献学(とくにシェイクスピア研究)

デジタル・ヒューマニティーズとシェイクスピア研究の結びつきはたいへん強いものです。一般に文献学の営みにおいては、現存する写本同士の間の記述の差異を見比べることによって、史資料の伝播のあり方や当時の書写状況といった来歴を分析します。この作業を経て、可能な限り原本の記述を再構成したテクストを批判校訂版(critical edition)と呼びます。

この批判校訂版を作成するためには、いくつかの写本を見比べる必要があるわけですが、デジタル・ヒューマニティーズではその校合作業を効率的に行えるように、デジタルテキストの「軽さ」を駆使した校訂版(近年ではデジタル学術編集版digital scholarly editionと呼ばれます)を作成する努力が続けられてきているのです。シェイクスピア研究はそのデジタル学術編集版の典型例と言ってよく、さまざまな機関・組織がシェイクスピア作品の校訂テキストを機械可読形式の構造化データとして提供しています。

このようなデジタル環境におけるシェイクスピア研究の作業場の様子を軽やかな筆致でわかりやすく伝えてくれるものとして、まず北村紗衣「2-15. デジタルなシェイクスピアリアンの1日」から目を通すのがよいでしょう。続いて、Pip Willcox(長野壮一訳)「2-17. JADH2015特別レポート『御一統の温かいことばあってこそわが帆ははらむ。さなくばわが試みは挫折あるのみ』ーシェイクスピア劇のボドリアン・ファースト・フォリオの来歴についてー」を読むと、デジタル学術編集版作成の舞台裏を垣間見ることができます。物理的な研究環境をデジタル上で可能な限り再現し、かつデジタル環境上でしか達成しえないことを追求するプロジェクトの実態がありありと伝わってくることでしょう。

これらの記事を読めば、シェイクスピア研究の学界動向を扱った2つの記事、北村紗衣「2-16. イベントレポート 第53回シェイクスピア学会セミナーDigital Humanities and the Future of Renaissance Studies」同「2-19. 書評 "Shakespeare and the Digital World: Redefining Scholarship and Practice"」を読むための素地がある程度整ったと言えるのではないでしょうか。

たしかにデジタル環境上で文献学の営みを再現するには限界があるものの、ひるがえって考えてみれば人間の身体的な営みとしての校合作業にも限界があり、その両者を相互補完的に組み合わせることがデジタル時代の文献学者のあるべき姿だと共鳴しているものとして、安形麻里「2-12. ヨーロッパの初期印刷本とデジタル技術のこれから」船田佐央子「2-30. デジタル時代におけるディケンズの文体研究」があります。機械による精確な計算、人間による精読という分業のあり方は、デジタル・ヒューマニティーズがもたらした学問的変容のひとつとしてすでに広く受け入れられているものでしょう。


歴史学

次に、私の専門である歴史学に目を向けてみます。まず最初に読むべきは、「第2部 時代から知る」のうち、長野壮一「序ー近世」でしょう。歴史学とデジタル・ヒューマニティーズの交差点としてのデジタル・ヒストリーの潮流を、20世紀後半における数量史の盛衰からの文脈に位置づけており、これから紹介する記事の理論的背景を準備してくれるものになっています。

近世イングランドをひとつの中心として発達した書簡・書物ネットワークへの関心は、いくつかのデジタルアーカイブに結実しています。書簡については、小風尚樹「1-8. 書簡資料のデータ構造化と共有に関する国際的な研究動向ーTEI2018書簡資料WSを通じてー」小風綾乃「2-23. 18世紀研究におけるDHの広がり 第3回 各種ウェブコンテンツの紹介(2)ー第15回国際十八世紀学会(ISECS 2019)に参加してー」、書物史については菊池信彦「2-18. 三大デジタルアーカイブのデータセット比較と近世全出版物調査プロジェクト」と、小風綾乃「2-21. 18世紀研究におけるDHの広がり 第1回 個別発表にみるデータの可視化ー第15回国際十八世紀学会(ISECS 2019)に参加してー」同「2-22. 18世紀研究におけるDHの広がり 第2回 各種ウェブコンテンツの紹介(1)ー第15回国際十八世紀学会(ISECS 2019)に参加してーにそれぞれ言及があります。書簡を通じて結ばれる人的結合関係や、出版物の影響圏を地理的分析を踏まえて探る書物史へ関心を寄せる方にとって、デジタル・ヒューマニティーズにおけるネットワーク分析やGIS分析の蓄積が参考になるでしょう。

なお、時代を少しさかのぼって中近世の端境期、活版印刷術によって出版されながらも中世写本の手書きの伝統を色濃く残すインキュナブラについて、一点一点異なる書き入れや装飾が施されたモノ史料としてのインキュナブラへの関心に応えるデータベースが充実している様子を、徳永聡子「2-13. インキュナブラ研究とcopy-specific information」が伝えてくれます。前節の文献学的関心とも親和性の高い、興味深い内容です。

史実を後世に伝える史料には、残りやすいものと残りにくいものがあります。そのうち、歴史上の紛争の様子を伝える史料は比較的残りやすいもので、本書でもこのような種類の史料のデジタルアーカイブを扱った記事が採録されています。槙野翔「2-20. 発表レポート 17世紀アイルランド史個別事例研究 "Utilising 1641 Depositions in History: A Statistical Study"」は、1641年のアイルランド反乱において主にプロテスタント聖職者が収集した被害者供述のデータベースを活用したデジタル・ヒストリーの取り組みを紹介しています。視覚化されたデータ分析結果をまじえた歴史叙述の是非を考察する記事として興味深く読むことができます。

次に、小風尚樹「1-6. イベントレポート 第132回アメリカ歴史学協会年次国際大会」では、イギリスのデジタル・ヒストリーをけん引する人物の一人であるTim Hitchcockが監修している近世イングランドにおける裁判記録集成であるOld Bailey Onlineプロジェクトに言及しています。Tim Hitchcockは、以前にもこのOld Bailey Onlineを活用したテキストマイニングの論文を刊行しており(cf. Tim Hitchcock and William J. Turkel (2016). The Old Bailey Proceedings, 1674-1913: Text Mining for Evidence of Court Behavior. Law and History Review, 34(4): 929-55 doi:10.1017/S0738248016000304)、ある程度均質かつ大規模なテキストデータベースの利点を最前線から私たちに伝えてくれます。


おわりに

本稿では、イギリス関連の文献学および歴史学にテーマを絞って、本書の読み進め方のひとつを提案しました。ここで紹介した切り口以外にも、イギリスの研究機関・組織からデジタル・ヒューマニティーズの研究動向に迫ることも可能です。その場合には、本書末尾の「DH Map」を参照されるのがよいでしょう。読者の方々に少しでも参考になる情報を提供できていれば幸いです。
 
 
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