【連載】第5回「玉藻退治に東国武士の上総介・三浦介が選ばれた理由とは?」 - 朝里 樹の玉藻前入門

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第5回
玉藻退治に東国武士の
上総介・三浦介が選ばれた理由とは?


玉藻前アンソロジー 生之巻』の刊行を記念して連載を再開します(隔週・全3回(第4〜6回))。京を追われた玉藻前は東国にやってきます。そこで討伐を命じられる役としてよく出てくるのが、東国武士の上総介・三浦介です。上総広常と三浦義澄は現在放送中の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも登場しました。今回は東国武士と玉藻前の関係についてご紹介したいと思います。


──玉藻前と東国武士たち

玉藻前は朝廷を滅ぼそうと鳥羽院に近付くも、陰陽師に正体を暴かれ、那須野に逃亡し、その地で上総介、三浦介に討伐され、殺生石となりました。

玉藻前の物語としてよく知られる話ですが、多くの場合、ここに登場する上総介は上総広常(ひろつね)、三浦介は三浦義明(よしあき)に比定されます。

ではなぜこの二人が玉藻前退治の役割を担うことになったのか、これを考えると、玉藻前についてもより多くのことを知ることができるでしょう。

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「上総之助 河原崎権十郎」「九尾の霊 沢村田之助」「三浦之助 坂東彦三郎」(東京都立中央図書館蔵)

まず、史実に見える上総広常、三浦義明とはどのような人物だったのでしょうか。

広常は平安時代末期の武将ですが、上総は官位であるため、本名は平広常です。

広常は保元・平治の乱にて源義朝(みなもとのよしとも)軍に加わり、武功を挙げました。また平氏ではあったものの源頼朝(よりとも)が挙兵した際には頼朝側に従って参戦し、その勝利に貢献します。しかしその後、広常の謀反を疑った頼朝により謀殺されました。

義明も同じく平安時代末期の武将で、娘が義朝の側室になったことから、義朝の家人となり、彼を支えました。義朝の死後、遺児である源頼朝の挙兵に合流しようと居城の衣笠城(きぬがさじょう)を出撃しますが、頼朝の敗戦を聞いて引き返し、畠山重忠(はたけやましげただ)と籠城戦を行った末、戦死した、などと伝えられています。

歴史上、この二人が揃い、協力して何か大きな事件を解決したという話は残っておりません。

両者は同時代、上総国(千葉県中部)、相模国(神奈川県の大部分)を本拠地としていた東国武士であったものの、共に狐狩りを行ったという話は伝説や伝承、物語の中で語られるのみです。

また、広常と関係が深い三浦氏の人物は義明の次男である義澄(よしずみ)で、共に頼朝に仕えています。この二人については現在大河ドラマとして放映されている『鎌倉殿の13人』でも描かれているため、ご存じの方も多いでしょう。

ではなぜ三浦介に義明が比定されるのかといえば、玉藻前が討伐された時代が近衛(このえ)天皇の時代として設定されているためでしょう。

この時代は頼朝が活躍するよりも前の時代であり、世襲の官である「三浦介」を号していたのは義明です。ただ玉藻前の物語や伝承においては単に「三浦介」としか出てこないことが多いため、義明だけでなく義澄の要素も取り入れられている可能性もあります。

整理してみると、広常と義明(義澄)の二人を結び付けるものは何かと言えば、①東国武士の代表的な存在であったこと、②共に源義朝及び子の源頼朝の父子に仕え、戦ったことでしょう。

そして玉藻前に纏わる話の中でいえば、広常と義明を狐退治の役割を担わせることとなった原因は源頼朝なのではないかと筆者は考えています。

先述したように頼朝が台頭するのは玉藻前に纏わる話が語られる近衛天皇の時代より少し後の時代となりますが、実は中世の玉藻関連資料には頼朝の名前が登場します。

例えば、御伽草子『玉藻前物語』では玉藻前が退治された後、その腹の中に金の壺があり、中に仏舎利(ぶっしゃり)(釈迦の遺骨)が入っていた。これは院(鳥羽上皇もしくは近衛天皇)に献上された。狐の額には白い玉があり、夜を昼のように照らした。これは三浦介が受け取った。尾の先に二つの針があり、ひとつは白く、ひとつは赤かった。これは上総介が受け取り、赤針は氏寺に奉納し、白針は平家を恨む伊豆の兵衛佐(ひょうえのすけ)、すなわち源頼朝に献上した、と記されています。

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『玉藻前物語』写本のひとつ(「たま藻のまへ(たまものまえ)」京都大学附属図書館蔵)

また、室町時代の五山僧・瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)が残した日記『臥雲日件録(がうんにっけんろく)』には上総介が狐を射殺したところ、尾から二本の針が出てきたため、源頼朝に献上した。頼朝はこれによって天下を平定した、と記されています。

上総介と三浦介は玉藻前退治により仏舎利、玉、針という三種の宝物を得ることになりますが、そのうちのひとつが後の時代に台頭する頼朝に献上されているのです。


──なぜ玉藻前の体から三つの宝物が出てきたのか

では、この意味を考える前に、まずは玉藻前の体から出てきた三つの宝物について考えてみましょう。実はこの宝物の話は中世の文献には出てくるものの、近世以降の玉藻前を扱った創作物ではあまり見られなくなる要素だったりします。しかし玉藻前に纏わる初期の記録の多くに記されているということは、何かしら意味があったと考えるのが自然です。

三種の宝物から連想されるものとしては、やはり日本神話に伝わり、現在でも実在すると言われている「三種の神器」ではないかと思います。

玉藻前の体から現れた三つのものが三種の神器のパロディになっているのではないか、ということについては、中村禎里著『狐の日本史』等で指摘されています。ここでは、この日本神話への見立てについて、もう少し詳しく考えてみましょう。

玉藻前の亡骸から生じたのは先述したように仏舎利、白い玉、(紅白の)針の三つです。これを三種の神器に当てはめるとすれば、最も分かりやすいのは尾から出現した針でしょう。これは記紀神話において須佐之男命(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した際、八岐大蛇の尾から出現した天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)(草薙剣〈くさなぎのつるぎ〉)に比定されます。

では玉は何でしょうか。単純に考えれば同じ玉である八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)が比定されますが、玉藻前から出た白き玉は夜を昼のように照らしたといいます。これは太陽の神である天照大神(あまてらすおおみかみ)の象徴である八咫鏡(やたのかがみ)のようにも考えられます。理由は後述しますが、白き玉は恐らく八咫鏡に比定するのが正しいのではないかと思われます。

その場合、最後の仏舎利となりますが、日本では仏舎利は仏教においてあらゆる願いを叶える不思議な宝玉、如意宝珠(にょいほうじゅ)と同一視されます。ここで仏舎利と八尺瓊勾玉が玉という点で一致すること、もうひとつの玉である白いき玉が先述したように八咫鏡に比定されるとすれば、仏舎利は三種の神器のうち八尺瓊勾玉に比定されると考えられます。

以上を見ると、玉藻前の亡骸から現れた三種の宝物は、三種の神器を意識していた可能性は十分考えられるでしょう。

ではどうして三種の神器だったのでしょう。

玉藻前の物語は、この神器の享受を狐退治の中で見立て、疑似的に再現しているのではないかと筆者は考えています。ただしここで神器を受け取るのは天孫ではなく、東国の武士たち、すなわち上総介と三浦介でした。

三種の神器は天照大神から天孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に授けられ、後に神武(じんむ)天皇へと継承され、代々天皇に受け継がれるようになったと伝えられています。

玉藻前の亡骸から取り出された新たな三種の神器は、一部を除いて上総介、三浦介に託され、また針は源頼朝に献上されています。

この頼朝こそが平安京を中心とした天孫、すなわち天皇を中心とした政権を、軍事力により獲得し、東国である鎌倉に本格的な武家政権を樹立した人物です。

先述したように『臥雲日件録』では狐の亡骸から取った針を得た頼朝は、これによって天下を平定した、と記されています。玉藻前を通した神話の再現は、記紀神話において神から人へと世界の中心が移って行ったように、朝廷から武家へと政治の中心が移っていくことを暗示する物語だったのではないでしょうか。

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『臥雲日件録』写本のひとつ(「臥雲日件録抜尤」国文学研究資料館 鵜飼文庫蔵)

そしてそのために源頼朝に近しい武士であり、玉藻前が現れた近衛天皇の時代に実力者として知られる東国武士、上総広常、三浦義明が選ばれたのではないかと考えられるのです。

また、玉藻前から出てきた宝物が針と玉である理由としては、天照の孫であり、瓊瓊杵尊の子である彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)が、兄である火闌降命(ほのすそりのみこと)を平伏させるため、妻となった豊玉姫(とよたまひめ)の父である綿津見大神(わたつみのおおかみ)から「貧鉤(まぢち)」「潮涸瓊(しおひのたま)」「潮満瓊(しおみつたま)」という針と玉が授けられたことが念頭にあったのかもしれません。いわゆる「山幸彦と海幸彦」の話です。

この彦火火出見尊と豊玉姫の子が鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあわせずのみこと)であり、豊玉姫の妹である玉依姫(たまよりひめ)と婚姻して神武天皇を生むことになります。こうしてみると、ある意味で神武天皇の誕生には針と玉が関わっていた、ということになります。

また、上総広常は源頼朝の東国泰平を祈願して「小桜皮威(こざくらかわおどし)の鎧」という鎧を上総国の玉前神社(たまさきじんじゃ)という神社に寄進しました。神社の祭神が玉依姫であり、また所在地である九十九里浜に夜になると光る「明(あか)る玉」という玉が現れたため、神社の神庫に納められたという伝説も残っています。これも影響があったのかもしれません。

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上総一ノ宮の玉前神社

このように日本神話において天孫降臨とともに継承された三種の神器は、天皇が天照大神の系譜に連なる存在であることを証明することになり、また天孫は「貧鉤」「潮涸瓊」「潮満瓊」という神から享受されたものによって守られたのです。そしてこれらの宝物は玉藻前を通して改めて、疑似的に東国の武士へと与えられました。


──玉藻前は東国武士のために利用された?

さて、これだけでは単に玉藻前は武家のために利用された狐のような印象を持たれてしまうかもしれませんが、筆者の意見は違います。

玉藻前の目的を思い出してほしいのです。玉藻前は唐では褒姒(ほうじ)、天竺では塚の神となり、国を傾け、滅ぼして来た妖怪です。

そして日本において玉藻前が近付いたのは当時の国の政治の中心にいた人物、すなわち鳥羽上皇でした。物語や伝承の中で玉藻前はこの鳥羽上皇を取り殺すことができないうちに正体を暴かれ、那須野において武士たちに命を奪われました。

しかし、もし玉藻前の亡骸から取り出された針や玉、仏舎利が朝廷から幕府へと政治の中心を移すきっかけとなるものであったのならば......。

玉藻前が傾けようとした鳥羽院の国、すなわち朝廷を中心とした国は、実際に武士たちに政権を奪われることになったのです。それは褒姒が傾けた国、周(しゅう)と、国の王である幽王(ゆうおう)が、家臣であった申侯(しんこう)の反乱によって滅ぼされたように。

玉藻前は死してなお、傾国の呪いを振りまき続けていたのかもしれません。


参考文献
・中村禎里著『狐の日本史』戎光祥出版、2017年
・千野原靖方著『上総広常』戎光祥出版、2022年
・三浦大介義明公八百年祭実行委員会著『三浦大介義明とその一族』三浦大介義明公八百年祭実行委員会、1980年
・「上総一之宮 玉前神社」公式ホームページ https://www.tamasaki.org/index.htm


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