東アジア文化講座3・小峯和明「序 東アジアの文学圏」公開

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東アジア文化講座の第3巻・小峯和明編『東アジアに共有される文学世界 東アジアの文学圏より、序文を公開いたします。
なお本講座の特設サイトはこちらです。あわせてご覧下さい。

本書の詳細●第3巻
文学通信
小峯和明編『東アジアに共有される文学世界 東アジアの文学圏』東アジア文化講座3(文学通信)
ISBN978-4-909658-46-3 C0320
A5判・並製・カバー装・460頁
定価:本体2,800円(税別)

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東アジアの文学圏


小峯和明

1 本巻の構成
 本講座の第三巻は、「東アジアの文学圏」と題して、主に東アジアに共有される文学世界を俯瞰することを目的とする。日本文学に限らず、一国・一地域の文学を追究するのに、自閉的に内向きに見ているだけでは、もはや新しい研究の地平が拓き得ないことが明らかになってきている。これを打開する方策として、まずは〈漢字漢文文化圏〉の東アジアに視野を拡大し、複数の視点から、共有される文学圏の課題を放射状にとらえていこうとするものである。近年の人文系の東アジア文化研究は主に歴史学が主導するかたちで推進されてきており、かなりの成果を収めつつあるが、実証史学に基づく歴史的実体に収束しがちであり、言語表現に即した想像力や思想性に基づく形象力や再生力の面からの検証は不足しており、未開拓の領域も少なくないと観察される。

 人々が長い間積み重ねてきた歴史事象がもたらしたものは、決して目に見える形あるものだけに限らない。たとえば、十三世紀の蒙古襲来がもたらした記憶は、「ムクリコクリ」の成語のごとく、長く日本社会のトラウマとなって後世の神風幻想にまで波及する。人々が心の不如意や見えない畏怖や憧憬、期待の地平等々、精神の空隙を埋めるべくして、想像力や思考力を駆使して生み出したさまざまな神仏(毘沙門天や八幡大菩薩に象徴される)がいた。その超越的な力への幻想に基づく敬虔かつ真摯な信仰をはじめ、託宣や詩歌や物語など多種多彩な言説、絵画や造型(たとえば、聖徳太子や神功皇后は近代の紙幣にまで表象される)を造りだしていることの意義は、実証史学の分野だけではとらえきれないものがある。

 あるいは、遣唐使の問題は異文化交流の花形として研究が進展し、その主体は歴史学によって担われ、歴史事実としての遣唐使の営為が克明に復元されてきている。しかし、問題はそこで終わりではない。遣唐使が廃止されて以後、むしろ日宋以降の交流が活発になる時代状況に応じて、『吉備大臣入唐絵巻』に象徴されるごとく遣唐使をめぐる説話や物語など各種の言説や絵画表象がはぐくまれていくわけで、これらの営みは今まで十分まとまって対象化されていなかったといえる。これこそが文学研究が担うべき課題であるといえるであろう(近時の拙著『遣唐使と外交神話─『吉備大臣入唐絵巻』を読む』集英社新書は、そのささやかな問題提起である)。

 本巻では以上のごとき立場から、東アジアの一「学芸」、二「宗教と文学」、三「侵略と文学」、四「歴史と文学」、五「文芸世界」の五つの柱を立てて、個別の問題を展開していきたいと考える。

 第一部の「学芸」は、東アジアの〈漢字漢文文化圏〉に共有される学芸として、儒学、本草学、類書、兵法等々に焦点を当て、伝統的な学問のひろがりとそれらの意義を追究する。文学の問題は決して詩歌に代表される近代的な芸術的言語観によるいわゆる文芸ばかりでなく、各時代社会の学問研究(文の「学」)をも領域とする。本義としての「学芸」の問題であり、今日の文学研究の基底や根源にもかかわるものである。

 第二部「宗教と文学」は、東アジア文化圏に共有された宗教体系を有し、それに基づく文化を創出した仏教、道教、儒教、神道、陰陽道、キリシタンなどを中心に、宗教と文学のかかわりを解析する。文学と宗教は決して二元的な対置ではなく、宗教をめぐる思想や信仰がおのずと文学として表象され、昇華され、結晶化する一元的な所産にほかならず、より一体化した方位を指向すべきであろう。

 ついで第三部「侵略と文学」は、戦争と文学との関連を跡づけるものであるが、以前から私に提起している「侵略文学」の枠組みに応じて、たんに「戦争」という既定の括りではなく、戦争の発端が必ず一方の他方への侵略から始まるように、侵略と被侵略の相関(拉致や亡命も含めて)から問い直されるべき課題である。モンゴルの世界戦略による各地への侵攻をはじめ、東アジア沿海から各地に波及し、さまざまな軋轢を生んだ倭寇、中国の明をも巻き込んだ秀吉の朝鮮侵略、徳川幕藩体制下における薩摩の琉球侵略、松前藩を尖兵とする蝦夷制圧等々、前近代に際立つ侵略史を文学の側からとらえようとする試みである。これら前近代の検証を抜いて、近代の帝国主義路線の戦争の問題も解けないと思われる。同時に軍記物としての『平家物語』や『太平記』のみに収束するカノン論への反措定も意識している。

 第四部「歴史と文学」は広き歴史叙述の課題で、正史のみならず稗史、野史を始め、多種多様な歴史叙述の世界を掘り下げたいと考える。正史から取りこぼされ、意図的に排除されたり、結果として無視されたりした、いわば負の側からの歴史にも焦点を当て、多面的複合的な歴史叙述の世界を解明したい。おのずと史実と虚構という二元論に陥りやすい研究地平への新たな挑戦をも指向している。

 第五部は、東アジアに共有された文学を、カノン化されがちな詩歌研究ではなく、ここでは主に散文系の「小説」(近代の翻訳概念ではない本義としての謂)、物語、説話類から検討したいと思う。さらにいえば、中国から日本への一方通行的な受容路線を基調とする従来の和漢比較文学研究の相対化ないし反転をはかる意味合いもあり、中国と日本との間に位置し、相互に複雑な文化交流の歴史を持つ朝鮮半島をあえて基軸とすることで、中国と日本をも含み込んだ文学位相を明らかにしてみたい。

2 東アジア文学圏の意義
 本講座第一巻の巻頭にも述べたように、ここでいう東アジア文学圏とは、すなわち〈漢字漢文文化圏〉である。中国、朝鮮半島、日本、琉球、ベトナムが範囲になるが、地域としては圏内に含まれるチベットやモンゴル、女真(満州族)やアイヌは該当しないことにもなる。これら非漢字圏や無文字社会とはもちろん無縁ではありえず、相互の交流や関係性が問われるが、ひとまず漢字漢文を共通して使い、文学・文化を生み出した地域を一括りにして考えようとする発想である。ベトナムは地域的には東南アジアであるが、とくに北部のハノイを中心に前近代までは中国との関係が深く漢字漢文の文化圏にあった。南アジアからの南伝仏教と西域・中国からの北伝仏教とが交差する仏教圏の地域としても特筆される。一般の東アジア概念とそこが大きく相違する(その意味でも「東北アジア」の用語は不適切)。

 漢字漢文の文化圏はヨーロッパのラテン語文化圏のあり方に近似するが、しかし、一方は往来が頻繁で、言語的にも類似し、同じアルファベット文字によるわけで、それが今日のE‌U統合にもつらなってくるが、他方はもともと交流が限られており、風土も言語も隔絶しているところに大きな違いがある。中東におけるアラビア語圏、南アジアにおけるサンスクリット語圏も漢字漢文文化圏と同様の位置にあったといえる。朝鮮半島とベトナムは、中国とは地つながりで、高麗時代のモンゴルによる制圧、ベトナムは北属期といわれる隋唐以前までの中国による制圧等々、直接の支配を受けるほど影響が強かったのに対して、日本は海に囲まれた特有の地政学がおおきく作用した(琉球は中国の明清の冊封体制に組み込まれるが)。

 そのような地域ごとの地政学からおのずと自国語にあわせて脱漢字・反漢字の動きが出てくる。日本の平仮名は早く万葉仮名の草書から発展して、十世紀には『古今和歌集』や『竹取物語』『伊勢物語』など後世の古典として確立する仮名文学を生み出す。一方の片仮名も平仮名と併行して漢文訓読の補助記号として習熟し、漢字片仮名交じり文を始め、平仮名主体の和文体とは異なる訓読体の文体位相を形作った。我々が今日に至るまで漢字と二種の仮名を使いわけている文化の意義を東アジア圏の根底から見すえる必要があるだろう。

 ベトナムのチュノム(喃字)は十一世紀(諸説あり)に梵語の陀羅尼の音写をもとにして発明されたというが、国策として必ずしも重用されない面があり、十九世紀にフランスの植民地となってクオック・グー政策により、アルファベットに切り替えられて今日に及ぶ(一方、喃字も生き続けるが)。朝鮮のハングルは十五世紀、有名な世宗の時代に開発され、当初は普及しなかったが次第に日本の平仮名同様、女文字として浸透し、今日ではハングルが大勢を占め、漢字の使用率がかなり低下している。

 いずれも表意・表音両用の漢字に対して表音文字であることが共通する(チュノムは表意も混在)。自国語にかなうように開発された文字で、中国化から脱却しようとするイデオロギー的色彩が濃厚であるが、同時に一般への文字普及を企図したものであった。中国の周辺では契丹文字、西夏文字、女真文字等々があったが、これも漢字に対する意図的な反措定であったろう。ちなみに現在の中国では、すでに一九三〇年代には簡体字改革が主張され、戦後の五〇年代に施行されて今日に至っている。簡体字への移行は同時に縦書きから横書きへの変化を伴い、古典籍を除いて一般書籍の大半は横書きになった。漢字漢文文化の大きな変転といえる。

 日本では和漢混淆文が日本独自の文体のようにいわれるが、このようにみれば、漢字・非漢字混淆文は東アジアの共通現象であり、ベトナムの喃字も漢字と混ぜて六言・八言の歌の形式で表される場合が少なくない。漢文訓読が前提になっていることは明らかで、混淆文は決して日本特有ではない。朝鮮半島でも漢字とハングルを混ぜた写本や刊本が多く残されている。このような漢字と非漢字を組み合わせた文体、あるいは喃字やハングルだけの文章であっても、漢語が多く含まれている文体等々をも合わせた総体が〈漢字漢文文化圏〉にほかならない。

 そうした文体から織りなされたものが、漢籍、漢詩文、漢訳仏典・注疏、史書(歴史叙述)、伝記、霊験記、唱導系、類書、小説等々の諸ジャンルにかかわる。まさに東アジアで共有された漢文文化の所産である。漢文というと、儒教系の漢籍主体のイメージが強いが、実は仏教関連の書籍がもつ多大な影響力を無視できない。中国の伝統的な書籍体系は、経・史・子・集の分類によっているが、これは儒学主体の発想で、仏教の位置づけが極端に低い、という印象を持たざるをえない。仏教は「子」のいわば諸子の一端に位置づけられるに過ぎない。この経・史・子・集の体系は、日本でもたとえば『内閣文庫和漢書目録』などにも及んでいる(その編纂主体は柳田国男)。
 しかし、近年、漢訳仏典の翻訳法をめぐる研究が進展しているのにともない、たとえば『日本書紀』や『古事記』などの文体の基底に漢訳仏典系の表現がかなりかかわっていることが明らかにされつつあり(馬駿)、古代神話の表現が仏教伝来以前の世界であったかのような幻想が大きく崩れ去っている。

3 東アジア文学史の可能性
 現段階で、東アジア文学圏の課題を不鮮明にしているのは、日本における「東アジア文学史」の欠如であり、それにともなう時代区分の設定の難しさである。中国ではすでに、
王暁平『亜州漢文学』(天津人民出版社、二〇〇一年)
張哲俊『東亜比較文学導論』(北京大学出版社、二〇〇四年)
などがあり、後者は教科書としても普及し、版を重ねている。韓国でも、
趙東一著、豊福健二訳『東アジア文学史比較論』(ソウル大学出版部、一九九三年、日本語訳・白帝社、二〇一〇年)
が出ている。後者は文字通り、東アジア諸地域の文学史を総ざらえして比較した文学史〈学〉といえ、種々の問題が少なからずあるにしても、東アジア文学史を指向してそれなりのまとまりを提示していることは意義があるだろう。

 日本では、まだ東アジア文学圏を俯瞰しうる文学史そのものが書かれていないし、そういう指向への兆しさえもみられないのが実情である。いずれは東アジア文学史の構築に焦点が当たる時が来るのを待つしかないが、その前提として、まずは文学史の時代区分からして問題になる。日本の古代・中世・近世・近代という区分が西洋の区分をモデルにした、日本でしか通用しないモデルであることは言うまでもなく、一方で中国史は内藤湖南以来の宋代以降は近世とする区分もよく知られている。圧倒的な歴史の長さを持つ中国と周辺諸国とではおおいなる文化時差(タイムラグ)があり、もとより共通する時代の範疇を設定しにくいのは必然であり、基準をどこに置くかでいかようにでも変わってくるだろう。

 私的には、古代・中世・近世式の区分けはもはやそれほど意味をなさず、世紀割りでよいのではと考えているが、いずれにしても相互の対応関係でみていくことが肝要である。

 たとえば、朝鮮半島は、漢の時代頃までは中国の配下にあったが、高句麗・百済・新羅の三国時代を経て唐と連合した新羅が七世紀に統一をはたし、唐の圧力も排除する。十世紀に後三国の分裂から新羅は滅亡、高麗に再統一され、十三世紀に宋から元・モンゴルに代わるとその制圧下に入る。三国時代から高麗までは仏教を主軸とし、武臣政権は都房という政庁を設置するが、これは鎌倉幕府のありようとほぼ共通する。日本の南北朝内乱終結による合一と高麗王朝の滅亡、朝鮮王朝の成立とは同じ一三九二年である。モンゴルの元から脱却した漢民族による明建国も同時代である(朱元璋は一三九八年没)。

 この朝鮮王朝は儒教を基軸として強固な身分制を敷いて十九世紀まで続くが、十六世紀末期の豊臣秀吉の朝鮮侵略(壬辰倭乱)によって前後を区分される。秀吉による日本統一は戦国時代の乱世終結を意味し、その余勢が朝鮮侵略を引き起こす。この戦争を契機とする文学は『壬辰録』以下、多く作られ、日本でも『朝鮮軍記』が近年注目されているが、特に戦乱に巻きこまれ、人質として朝鮮から日本に連行された人物がさらに中国やベトナムまでさすらい、最後は朝鮮に戻る『崔陟伝』や『趙完璧伝』なども朝鮮の伝記文学として見のがせない。この壬辰倭乱に参戦した明はために疲弊し、その数十年後の一六四四年に滅亡。明清交替は東アジア史上の画期となった。

 また、壬辰倭乱による財政逼迫打開に薩摩藩が琉球を侵略するのは、一六〇九年、徳川政権発足からわずか六年後である。琉球の歴史文化はこの侵略の前と後に大きく区分けされ、前者を「古琉球」と呼ぶが、歌謡の『おもろさうし』を除いて『中山世鑑』から『球陽』にいたる歴史叙述をはじめ、数々の古典が生まれるのは後者の十七世紀以降である。

 十三世紀のモンゴル帝国の膨張は朝鮮半島のみならず、日本やベトナムにも及び、ベトナムの陳朝は徹底抗戦によってこれを退けた。東海岸の港町ハイフォンに近い白藤江河口に打たれたおびただしい杭による艦船撃退は名高い。モンゴル襲来を契機に神話や伝記を集成した『粤甸幽霊集録』や『嶺南摭怪』が編纂される。ベトナムは十世紀前半までは秦漢から唐に到る中国王朝の支配を受け、北属期と呼ばれる。呉朝、丁朝、前黎朝を経て、一〇〇九年、李朝がハノイを首都に建国、大越国とした。ついで陳朝、胡朝の後に十五世紀前半、一時的に明に帰属するが黎朝が立て直し、莫朝から中興黎朝(後期黎朝)が十八世紀末まで続き、鄭氏政権(東京鄭氏、北河)と阮氏政権(広南阮氏、南河)とに分かれ、さらに西山朝(阮氏大越国)と続き、十九世紀初めにフエを都に阮朝(阮氏越南国、阮氏大南)となる。王朝交替が激しく、南北分断と統一の抗争および中国の侵略を受け続けたが、文字文学は中国の圧倒的な影響下にあった。

 上記のような東アジアの関係史から文化史・文学史の掌握が必要になるが、一方で戦争ばかりでなく臨済禅の五山世界に代表されるように、宋元の禅僧らによる文化交流は活発化する。とりわけ壬辰倭乱から明清交替に至る十六世紀から十七世紀は、東アジア文化史にとってきわめて大きな意味を持っている。その明に抗して王朝を建てたのがベトナムの黎朝であった。壬辰倭乱の時代はまたキリシタンの時代であり、大航海時代といわれるように、西洋文化が東アジアに伝わった時代でもあった。十六世紀がまさに画期であるゆえんである。

 しかし、政治史と文学史が合致するわけでもない。文学史で重要な指標となるのは出版文化史である。中国の明代に盛んになる出版文化は朝鮮半島や日本に波及し、朝鮮では十四、十五世紀に金属活字版をもたらし、日本では十七世紀以降の近世社会における木版の出版文化全盛期を迎える。これによって文学の位相が大きく変わったといって過言ではない。一点しかなかった写本が複数の刊本になり、同時に複数の不特定の読者が生まれる。書くことと読むことの格差がよりひろがり、作り手は見えない読者に向かってテクストをつむぎあげることになる。また、版本化されるか否かが、古典か否かの識別にも作用するようになる。出版の如何が古典を生み出すことにつながるわけで、さらには仏教説話集や軍記物のように、ジャンルの形成にも大きくかかわっていくのである。

 日本の出版文化で着目されるのは、漢籍、仏書の和刻本の刊行である。その多くは原文に返り点やふりがな、送り仮名など訓点を施して読みやすくした訓読を交えたものである。一体近世期にどれくらいの漢籍、仏書が出版されたであろうか。その実体は把握しきれないほどの多さであり、これが人々の教養の基底を形作ったのである。漢籍、仏書の何がどのように、どれほど刊行されたのか、それによっていかに古典となったのか、という出版文化に即したカノン研究が必要になるだろう。ことに漢籍、仏書を問わず、『芸文類聚』や『太平広記』などの類書の刊行が重視され、東アジア全体にかかわる学と知の体系そのものであったといえるであろう。

 また、仏典に関していえば、近世に実権を握るいわゆる鎌倉新仏教系の浄土、禅、法華等々の宗派が自流の教線拡張をめざして出版文化に意を注いだことも関連して、たんに漢訳仏典のみならず教義に関する注疏をはじめ、説教唱導、儀軌儀礼そのほかさまざまな分野に及んだ。

 これらが文学にもたらした影響ははかりしれないものがあり、文学そのものでもあったといえる。和刻本の対象は中国のものばかりでなく、たとえば中国明代の志怪小説集で名高い『剪燈新話』が朝鮮版の注解書『剪燈新話句解』を媒介とし、その和刻本が流布したように、朝鮮を経由したり、朝鮮を媒介に広まったものも少なくなかった。こうした文化現象を東アジアの〈漢字漢文文化圏〉の次元でとらえ直す意義があるだろう。

4 比較文学と交流文学
 また、より留意されるべき問題に、比較文学と交流文学の差異がある。双方はしばしば混同されるが、単純無媒介に一括はできない。東アジア文学圏研究においては、この双方がもとめられるが、比較文学においては、繰り返し述べているように従来の日中比較・和漢比較の単一的な受容路線を越えて、朝鮮半島やベトナムの漢文古典をも研究対象に据えなくてはならない。日本では一般に書名さえ知られず読まれざる古典を読み抜き、研究の俎上に載せる営為であり、まずはそこから始めるほかない。その試行の一端として、訳注『新羅殊異伝』『海東高僧伝』(いずれも平凡社・東洋文庫)を刊行し、現在は十八世紀、朝鮮時代の野談の嚆矢『於于野談』を解読中である。以下、概略を述べておこう。

 『新羅殊異伝』は、成立は高麗時代初期と思われるが、残念ながら散逸し、わずか十例程度の逸文を伝えるだけで、その全貌を知ることができない。しかし、逸文の内容は新羅を中心とする説話が中心で、卵生の脱解王の建国神話や日本の記紀と重なる天日矛神話をはじめ、善徳女王と唐との関係をめぐる話題や法華経霊験譚、幽婚譚や崔致遠と姉妹の亡霊との交歓を描く幽明譚等々、多彩であり、かなり浩瀚な作であったかと思われる。中国の志怪小説や仏教の霊験利益譚等々の影響が色濃く、朝鮮古典文学史の始発に位置づけられる重要な述作である。

 また、『海東高僧伝』はこれも巻一、二のみの端本であるが、成立は高麗時代中期、一二一五年、霊通寺の覚訓の編。現存分は三国時代から新羅統一時代の高僧伝で、『三国遺事』にも批判的に継承される。朝鮮半島では数少ない僧伝文学として見逃せない作である。逸文によれば、巻五に比丘尼の話題があったようで、高麗時代の高僧の伝記も多く含まれていたとみなせよう。

 ついで、朝鮮王朝時代、十七世紀初期の『於于野談』は、豊臣秀吉の朝鮮侵略、壬辰倭乱を経験した柳夢寅(一五五九〜一六二三年)の編。後世に多くのテクストが生み出される野談ジャンルの始発に位置する。『青丘野談』をはじめ当初は漢文本であったが、次第にハングル本も増えてくる。『於于野談』は漢文体で写本が多く残され、相互に異同が少なからずあり、それだけよく読まれたことを示す。「野談」は古典漢語にはない語彙で、「野史」や稗史に相当する話の「野談」という位置づけであろうか。日本でいえば、「説話」としか言いようのない話譚で、「野談集」は「説話集」と言い換えてもよいだろう。日本や中国の「説話」と「野談」との対比、つき合わせが今後の大きな課題となるであろう。

 とりわけ『於于野談』は話題の種類が豊富で多岐に及び、ある程度の連想のつながりで配列されているようであるが、明確な巻構成や部立はみられず、写本のみで流布し、諸本によって話の配列も一定しない。独特の位置を占めている。壬辰倭乱に関する話題や地元の災害、両班の逸話ほか、多種多彩で、東アジアの視野から広範に読まれるべき説話群といえよう。遅々とした歩みではあるが、朝鮮古典といえば、『三国史記』と『三国遺事』しか連想できない現況の打破をめざしている。

 またベトナム漢文では、十四、五世紀の陳朝時代、神話伝説集の『嶺南摭怪列伝』を読んでいる。ベトナム古典も、歴史叙述に『大越史記全書』などがある。神話伝説、縁起類の『粤甸幽霊集録』、漢詩文集の『皇越文選』、説話的類書の『公余捷記』、僧伝の『禅苑集英』、中国の『三国志演義』の影響を受けた歴史章回小説の『皇越春秋』や『越南開国志伝』等々、多彩であり(後者には日本との交流もみられる)、中国の『剪燈新話』の翻案『伝奇漫録』、『金雲翹伝』の翻案『金雲翹』なども評価が高い作として知られる。テクストは『越南漢文小説集成』(全二十巻・上海古籍出版社、二〇一〇年)に集約され(『越南漢文小説叢刊』台湾学生書局もある)、原本は漢字・喃字資料センターの国立漢喃研究院に多く所蔵される(極東学院収集)。

 とりわけ、『嶺南摭怪列伝』は武瓊(一四五二〜一五一六年)が、十三世紀半ばに成った陳世法の説話集を校訂、修成したもので、原型は十二世紀から十三世紀にさかのぼるとされる。長い歴史を経て語り継がれ、幾度もの改編、改訂を経て書き継がれた話譚の集成といえる。中国の殷秦漢などに制圧された古代の北属期の神話から始まり、独立王朝の十一世紀初頭の李朝や十三世紀の陳朝にまで至る抗争史にかかわる英雄像や種々の起源譚からなる。今日のベトナムでは、『嶺南摭怪』なるテクストは忘れ去れても、個々の話譚は誰でも知っている著名な神話、物語であり、絵本などに表され、ベトナムの人々のアイデンティティーに深くかかわっている。

 具体例に「蕫天王伝」をあげると、蕫天王は伝説的な雄王の時代、中国・殷の侵略を撃退する英雄である。父の富翁が六十余歳で正月七日に生まれた申し子、三歳でも物言わず、いつも仰向けに寝ていて、酒飲し腹いっぱい食べていた。それが中国の侵略を知るや十余尺に長大化し、王から鉄の馬、笠、剣をもらい、くしゃみを十回以上し、鉄の馬を駆けて敵を撃退する。典型的な小さ子譚であり、鉄器文化による異国撃退譚でもある(くしゃみの呪力も興味深い)。地元の衛霊山の頂上には、この蕫天王が鉄の馬にまたがって空を駆ける姿の大きな銅像が建っており、この英雄が記憶され続けていることがうかがえる。これらの話譚も東アジアの文学圏の比較研究の絶好の対象となるであろう。

 右は、東アジアの比較文学研究の一翼を担うものだが、一方、交流文学は異文化交流もしくは多文化交流の一環としてあり、異文化交流の文学史に結実化されるべきものである。唐物研究などに代表される人と物の交流、流通が対象となるが、ややもすると平安期の研究に見られるごとく、結局は自国文学研究の範疇に止まるケースが少なくない。時として自国文学賞揚の具となりかねず、それは真の意味で国際化とはいえないであろう。以前から、私に提唱している西洋とアジアとの交流をもとにする〈東西交流文学〉も、この範疇に属する。たとえば、仏典から東アジアはもとよりイスラムからヨーロッパに伝わり、キリスト教の聖者伝に組み込まれ、それがまた東アジアに伝わった二鼠譬喩譚(日本では歌語「月のねずみ」説話として著名)をはじめ、西洋からキリシタン渡来を契機に伝わり、キリシタン版や挿絵付きの整版、漢訳本とその訓読本等々、日本や中国で翻訳されたあまたのイソップなど、双方向や多極面からの方位での読み解きがもとめられるのである。

 以上、概要を述べるにとどまるが、ひとまず開かれた東アジア文学圏の世界への招待としたい。