東アジア文化講座4・ハルオ・シラネ「序 環境と二次的自然」公開
Tweet東アジア文化講座の第4巻・ハルオ・シラネ編『東アジアの自然観 東アジアの環境と風俗』より、序文を公開いたします。
なお本講座の特設サイトはこちらです。あわせてご覧下さい。
●第4巻
ハルオ・シラネ編『東アジアの自然観 東アジアの環境と風俗』東アジア文化講座4(文学通信)
ISBN978-4-909658-47-0 C0320
A5判・並製・カバー装・432頁
定価:本体2,800円(税別)
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序
環境と二次的自然
ハルオ・シラネ
はじめに
本講座の第四巻は、東アジアの「環境と風俗」というテーマで、第一部「地理、気候、文化」、第二部「四季の文化と詩歌」、第三部「風俗と文芸」、第四部「食文化と文芸」、第五部「年中行事と芸能」の五部構成からなる。環境文学は近年の環境問題の深刻化に関わり、注目を集めつつある分野であり、日本だけにとどまる視点ではとらえきれず、地球規模で追究されるべき課題であることが明らかになっている。本講座ではひとまず身近な東アジアへの視野からこの課題に挑戦してみたい。
また、文学は単なる机上の所産ではなく、人々のさまざまな生活に即したものであり、身近でありながらふだん意識されない領域に深く関わっている。これを「風俗」の問題として取り出し、文芸との関わりを追究していきたいと思う。以下、環境と風俗にまつわるキーワードとして「二次的自然」を提起し、ついで各部ごとに具体的に敷衍し、ひとつのモデルケースとしてみたい。なお、「二次的自然」に関しては、拙著(英語版 Japan and the Culture of the Four Seasons, Columbia University Press, 2012、日本語版『四季の創造─日本文化と自然観の系譜』、KADOKAWA 二〇二〇年)に詳しく論じているので、あわせて参照いただければと思う。
日本における二次的自然
わたしたちは環境について考えるとき、環境を一次的自然(人間の手の加わっていない野生の自然)と二次的自然という二つの側面からとらえる必要がある。一次的自然である野生の自然は、今日の日本にはほとんど残っていない。しかし、たとえば、海、山、島といった自然はまだ存在しているし、そうした自然やそこから文化的に再構築されたものが文化的想像力に重要な役割を果たし、わたしたちが世界を認識する方法に大きな影響を与えている。一方、二次的自然は人間社会が創造し、表現してきた自然である。庭園、絵画、服飾デザイン、詩歌、演劇をはじめとする数多くの文化現象を例として挙げることができる。二次的自然は、日常のさまざまな事柄─たとえば着物の柄、桃色や山吹色といった色の名前、うぐいす餅やおはぎといった和菓子など─にもみられる。
日本文化には二種類の二次的自然が存在する。一つは奈良と京都で貴族が発展させたもので、もう一つはわたしが「里山パラダイム」と呼ぶ、平安中期から後期にかけ、地方の荘園に現れたものである。古代に始まり平安時代から中世にかけて拡大した荘園制度にとって、新田の開発は最も重要であった。未開地を田に変えていく過程で、より多くの耕作可能な土地を作り出すために、人々は大木を伐採して森を切り開き、動物を殺した。古代においては自然の荒ぶる神と人間の世界との間には明確な境界が存在し、人間は周囲の山の麓に社を建てて人間に危害を加える神を敬い、鎮めようとした。
しかし、平安中期から後期にかけ、荘園における自然に対する態度に大きな変化が起こる。土地を農作に用いることを妨害していた荒ぶる神が、稲作の神に姿を変える。神々は稲作に欠かせない水、堰、灌漑の神、そして土地を守る鎮守の神となり、「田遊び」のような儀式や豊作祈願をとおして崇められるようになった。これは(人間の側から見て)自然とのさらなる協力関係を象徴している。
このようなタイプの自然環境が、生態学者が「里山」と呼ぶものの始まりである。村人は川の近くに住み、川を水田の灌漑に用いた。また、中世の説話や民間伝承の登場人物はよく「山に芝刈り」に行く。これは薪を拾ったり、肥料として下生えや落葉を集めたりするために藪や森に出かけることを意味する決まり文句である。つまり、里山の自然は水田と周囲の山から常に収穫が得られ、循環処理と再利用が行われる二次的自然の一つであった。それは都で見られるような優雅で小ぶりの二次的自然とは根本的に異なっていた。この二種類の二次的自然の表象は平安時代から鎌倉時代にかけて出会い、室町時代には多くの文化的ジャンルで混じり合うようになる。
第一部 地理、気候、文化
日本は夏冬ともに降水量が多く、夏の降水量は熱帯諸国にも匹敵する。そして、日本には常緑広葉樹、笹、棕櫚、猿のような、通常、熱帯地域を連想させるような動植物が存在している。こうした気候のもたらす京都と奈良の湿度の高さが、天象に大きく焦点をあてた梅雨の文化を育んだ。
春と秋は穏やかな季節だが、夏と冬という長く厳しい二つの季節に挟まれている。梅雨と梅雨明けに八月の暑い気候が加わり、夏が一年のおおよそ三分の一に及ぶ。より大きな視点で見ると、春と秋は寒い大陸性気候と暑い太平洋気候の間の過渡期にあたる。奈良や平安の貴族文化は、実際の気候を反転させ、短い春と秋を最高の季節として重んじ、古代中国でもそうであったように春と秋を文学や視覚芸術で褒め称え、春と秋に関連する美的、宗教的、文化的連想を発展させた。
古代から平安時代にかけての日本文化は、奈良盆地と京都盆地が中心であった。『古今集』『伊勢物語』『源氏物語』のような古典に見られる「自然」観は、もっぱらこの二つの盆地の自然や気候を反映している。そのため日本の古典文学に描かれた冬は穏やかで、静かに降る雪が豊作を告げる吉兆とされた。これに対し、本州のほかの地域、とくに日本海側と東北地方では雪は厳しい苦難をもたらす脅威とみなされた。しかし、「雪国」と呼ばれる日本海側の豪雪は伝統的な文学や詩歌には描かれていない。十九世紀初頭に、信州の農民であった小林一茶のような俳人が現れるまで、豪雪が詩歌に登場することはなかった。
古代や平安時代には、国の秩序と自然の秩序には相関関係があるとされ、天変地異は治世の乱れの証しと考えられていた。また、天災は不当な仕打ちを受けた天皇や権力者たちの怨霊の仕業とされ、天災が起こると怨霊となった人々の霊を慰め、苦悩のうちに死んだ人々の名誉の回復を図ることが求められた。しかし、十三世紀初めの『方丈記』ではそうしたことは問題にされていない。『方丈記』冒頭の有名な一節「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」は、自然や人生がはかないこと、変化は一瞬にして起こることを表している。重要なのは、そうした時間とは異なるもう一つの時間が後半部に描かれていることである。後半部に描かれる日野の長閑で美しい四季とゆったりとした時の流れは、前半部で描かれる都市の混沌と対応関係を作りだしている。つまり、『方丈記』は、天災をこうむりやすい日本の自然環境という制御できない時間と空間と、制御可能な時間と空間─様々な二次的自然、特に四季の文化、そして、それとなくではあるが、浄土─との間に、人間という存在を位置づけているといえるであろう。
第二部 四季の文化と詩歌
日本の文学と視覚芸術に自然と四季が偏在する大きな理由の一つは、日本の詩歌、とくに近代以前、重要な文学ジャンルであった和歌の影響である。さらにいえば、日本の詩歌の主な形式である漢詩、和歌、連歌はすべて、自然にまつわる主題を広く用いている。和歌や和歌に関連するジャンルやメディアにおいて自然界と人間界の「調和」がとれているのは、言葉が同時に二つのレベルで機能する「二重性」とでもいうべきレトリック上の重要な特徴に起因する。和歌の特徴の一つは掛詞と縁語の多用だが、そのことが(多くの場合、自然と人間という)二つのレベルの共存を可能にした。たとえば、富士山は八世紀に歌に詠まれるようになるが、「おもひ(憂鬱な思い)」を連想させる。なぜなら、「おもひ」の「ひ(火)」が火山の炎とくすぶる情熱を暗示するからである。平安時代には富士山の煙を詠んだ歌を作ることは、暗に恋の歌を詠むことであった。和歌の代表的な二つの題は四季と恋だが、恋は季節の歌にもそれとなく詠み込まれ、四季と自然は恋を表現する主な手段となった。
平安時代にさまざまな自然が特定の季節を連想させるようになり、その結果、自然の歌の多くが季節の歌となった。たとえば、鹿は一年を通して棲息するが、和歌における鹿のイメージは秋、そして、つがいの相手を求める雄鹿の悲しげで寂しげな鳴き声と結びついている。鹿は秋という季節を示唆するとともに、ある特定の感情を具体的に表現するようになり、さらに萩や露といった秋のほかの題と結びつき、季節の歌に関するより大きな体系の一部を形成することになった。季節の題の一つ一つがひとまとまりの連想を作り出し、四季そのものもよく知られた歌の名所とともに、連想の集合体を発展させ、それが文化的語彙の一部となった。
和歌という言葉は一般的には、「やまと」(大和、倭)の歌という意味である。「やまと」とは、もともと奈良盆地を指していたが、平安時代までには「やまとのくに」、つまり、当時、「日本」と考えられていた地域を意味するようになる。また、「和歌」の「和」という言葉は、「やわらぐ」あるいは「やさし」を、さらには「調和」という意味も含むようになる。この「調和」という意味を『奥義抄』(藤原清輔 一一〇四~一一七七年)が発展させ、ついで『毎月抄』(藤原定家か。一二一九年頃)がさらに明確にした。
まづ歌はただ和国の風にて侍るうへ、先哲のくれぐれ書き置ける物にも、やさしく物あはれによむべき事とぞ見え侍るめる。げにいかに恐ろしき物なれども、歌によみつれば、優に聞きなさるるたぐひぞ侍る。それに、もとよりやさしき花よ月よなどやうの物を恐ろしげによめらむは、何の詮か侍らむ。
この文章が言わんとしているのは、優しく、深く心を動かす和歌の真髄は、すべてのものの調和がとれた国ぶりにあるということである。恐ろしいものも歌に詠めば優雅になるともあり、優しさや調和に価値が置かれていたのである。ここで強調されているのは、自然とは何かではなく、自然はどうあるべきかである。
古代や中世の京都の夏は、実際には極度な暑さと疫病、そして死の時期であった。そのため、都のさまざまな地域や宮廷で祇園祭や葵祭のような祭りが行われ、田舎では神々を鎮め、罪や災厄を祓う祭りが数多く行われた。たとえば、京都の祇園祭は、近代以前には梅雨明けの、暑さの最も厳しい時期である旧暦六月前半に行われていたが、平安中期に疫病退散を祇園社に祈願したのが始まりである。しかし、夏の持つこうした負の側面は詩歌や王朝文化にふさわしい主題とはみなされず、和歌、とくに、国家や森羅万象の調和がとれていることを表現することを目的とした勅撰和歌集の和歌に登場することはなかった。この点で、『古今集』における季節の循環は、天皇の支配を慶賀し、国の平和と調和を祈る五節句のような、宮廷で行われる年中行事のサイクルと似ている。
第三部 風俗と文芸
平安時代の貴族が創造した二次的自然には基本となる二つの役割がある。両者は互いに関連し合うが、一つは、都や貴族の住まいが自然と調和しているというイメージを創り出す役割である。もう一つは、祝儀、吉兆、お守り、厄払い、奉納、供養、そして浄土や蓬莱のような理想郷との結びつきなどを担う役割である。たとえば、本巻所収の小山弓弦葉の論文では、中国と日本における染織模様の歴史に関して「常に吉祥や瑞祥が意識されて来た」ことが指摘されている。「染織が衣服や帳、寝具など人間の身体に近い部分を覆い、守る役割があった」のである。
花や草木の持つ特別な力に対する信仰は、唐から日本に伝わり、七世紀から八世紀にかけて貴族の間で流行した唐草文様にも明らかである。唐草文様の中でも最も人気のあった文様は、蓮、忍冬、宝相華、唐草だが、どれも決して枯れることはないとされた草木や花である。また、宝相華の文様に牡丹、蓮、柘榴などの花を組み合わせ、唐草模様に一つの美しい花を浮かび上がらせた文様もある。その花は中国では極楽や不老不死の世界に咲くと考えられ、日本では仏典を納める経箱などに描かれた。
季節を越える木々のなかでも、松は最も重要でとりわけ人気が高かった。古代において松の枝に紐を結ぶことは、無事と長寿を祈る行為であった。さらに松は、神が降臨する場所である依代でもある。新年の門松、能舞台の橋懸り手前にある三本の松、鏡板に描かれた老松はすべて、松に対する信仰に由来する。同じように、平安時代に正月の子の日に行われた小松引きも、長寿を祈る行事であった。さらに、慶事の折に作られる屛風絵にも松は欠かせない要素となった。
中国同様、日本でも日常生活で竹を多く用いた。竹は成長が早く、縁起がよいと考えられたため、長寿と繁栄を意味するようになったと考えられる。中国で竹林といえば、世俗を離れ、竹林の下に集って清談を楽しむ「竹林の七賢」を連想させたが、日本でも「竹林の七賢」は人気の高い画題となる。さらに、竹が常緑でまっすぐに伸びることから、忠義や貞節の象徴ともなった。
天平年間(七二九〜七四九年)に、古代アッシリアやエジプト、ペルシャなどを起源とする装飾文物が、唐からの使節や新羅から日本にもたらされたが、それらの文物の多くが、鳳凰、迦陵頻伽、鸚鵡、鴛鴦、孔雀といった特別な力を持ち、縁起がよいとされた瑞鳥や花喰鳥などの文様で装飾されている。鳳凰は中国で麒麟、龍、亀と並んで四霊とされ、さらに、中国と日本において平和と賢帝による治世の象徴となり、皇帝や天皇の袍(表衣)には桐、竹、鳳凰の文様が施された(もともとは龍が王で、鳳凰が后を象徴)。さらに、日本では、飛鳥時代に鳳凰が手工芸品に描かれはじめ、平安時代には鳳凰堂の名で知られる宇治の平等院阿弥陀堂のように、絵画や建築の重要な題やモチーフ、文様になった。桃山時代には大名の間でも人気が高まり、彼らは屛風に鳳凰を描かせたが、その風習は江戸時代も続いた。
植物や鳥と同じく、魚にも縁起のよいものがあり、とくに鯉と鯛がそうであった。中国では「魚」という語は「余」と「玉」と音が同じなので、「幸運」や「子孫繁栄」を意味した。魚は大量に排卵するので多産豊穣の象徴となり、古代から日本でも人気のある文様であった。エビは漢字で「海老」と表記するように長寿を連想させ、カツオは「勝つ」と音が同じなので、武士の間で縁起がよいと考えられた。黒豆が「まめ」(健康や丈夫な身体)を連想させるので、新年に食されるのとよく似ている。また、江戸時代には、美味で姿形が美しく、縁起もよいとされた鯛が最良の魚とみなされるようになり、それまで魚の中の魚とされていた鯉に取ってかわった。また、鯛は縁起のよい色をしているとされ、また「めでたい」という形容詞とも音が重なるため、七福神の一神である恵比須と結び付き、恵比須は鯛を手にした姿で描かれるようになり、商売繁盛の神となった。
古代日本の貴族文化における護符的で縁起のよいモチーフの多くは、中国にその起源がある。たとえば、中国起源の梅は、花が優雅なことと、冬の寒さの中でほかの花よりも早く咲くところから、力や忍耐を示す花として称賛された。宋の時代になると、常緑の松や冬でも葉を茂らせる竹と組み合わされて、梅は誠実さと不屈の精神を意味する「歳寒三友」という画題を形成するようになる。また、梅は菊、蘭、竹(いずれも風、霜、雪、氷を堪え忍ぶ)と組み合わされ、「四君子」の一つとされた(「四君子」は学問にすぐれ、高徳な人物の清廉さや高潔さを表現するのに用いられた)。また、漢詩や室町時代の漢画の屛風絵、さらに江戸時代の文人画のような中国の影響を受けたジャンルでは、梅の堅忍さや強い幹や枝に注目することが多く、梅は護符的な役割と同時に強靭さ、順応性、清廉さ、高潔さという道徳的な性質を帯びた。
自然の持つ護符的機能を理解する鍵は、いけ花の起源に見いだせるだろう。仏典では浄土は花で満ちた場所として描かれることが多く、寺の内部もこの世に浄土を表現する花で飾られ、花は蝋燭や香と一緒に仏画の前に供えられた。この習慣からいけ花が生まれたと考えられる。同時に、日本では古代から花は、自然の中に住むとされた神々の力を目に見える形で表現したり、利用したりすることができると信じられていた。たとえば、元旦に家の門に飾る門松は、元来は神が降臨する場と信じられ、門松は神々の出迎えとして機能した。また、書院造の床の間も同様の機能があった。つまり、仏教の儀式であれ、日本の神々に対する祭祀であれ、自然、とくに花のイメージは仏陀や神々を表すものとして機能した。
第四部 食文化と文芸
食べ物の性質と利用法は地域、社会的あるいは経済的階層、さらに共同体ごとに大きく異なる。一方、食べ物は東アジア文化の大きな共通項のひとつでもある。米、酒、麺、茶、大豆などが広く用いられていることはその一例である。また、酒や茶などのように東アジアで重要な文化的役割を果たしているものもある。
日本では近代になるまで野菜と魚が主たる食料であった。この点で中国や朝鮮半島、ヨーロッパのような、豚、牛、羊などを食べる肉食の文化と異なっている。日本は縄文時代以来、植物型の食体系であり、弥生時代になっても、牛や羊は日本に入ってこなかった。馬や牛が人に飼われるようになり、家畜化したのは、古墳時代以降(五世紀以降)である。農民は田畑を耕すのに馬や牛を用いたし、武士は馬に乗る必要があったので、馬や牛は家畜として飼われていたが、食用ではなかった。六七六年(天武紀四年四月)に天武天皇が出した肉食禁止令では、鶏も食べることが禁じられた。その後も、鹿や猪など野生動物の狩猟は行われ、それらの動物を食べることはあったが、動物を食用として育て、殺すことはほとんどなかった。考古学者の佐原真によると、このような非畜産農業は世界的にも珍しく、この現象が中国や朝鮮半島の食文化と日本の食文化との大きな違いを生んだ。
典型的な農村の風景には、山に面する里山と海に面する里海の二種類があり、山は狩猟の、海は漁業の場であった。飼育された豚、牛、羊が一年中、食べられるのとは違って、里山でとれる果物や野菜、海や河川でとれる魚は季節とのつながりがはっきりと見られる。現在、世界で注目されている日本料理の文化が、食材の新鮮さや季節と強く結びついているのはこうした理由からである。
第五部 年中行事と芸能
東アジアにおける年中行事は祭り、儀式、芸能(語りもの、舞踊、歌、音楽、演劇)と不可分に結びつき、長寿や豊穣の祈り、神楽、鬼払い、鎮魂などの役割を担ってきた。多くの世俗的芸能の伝統はこうした儀式や年中行事から生まれてきたものである。年中行事は、場所、共同体、時代によって大きく異なる。年中行事は、初詣や盆のような宗教儀式から、田植えや稲刈りのような農耕儀礼まで、幅広い領域の活動に及ぶが、花見や月見、紅葉狩りなど季節の自然を鑑賞するものもあれば、三月三日の雛祭りのように娯楽的な行事になったものもある。多くは五節句のように、もともとは宮廷の行事だが、衣替えのように家庭で行われるものもあった。いずれの場合も、こうした年中行事は四季の推移と密接に結びついた独特の飾り付けや衣装、供物、食べ物などによって、日常の時間とは明確に区別されていた。
たとえば、古代中国では三月の最初の巳の日は水辺で祓除(穢れを祓う儀式)が行われた。日本ではこの儀式が曲水の宴となり、奈良時代には三月三日に行われるようになる。桃の日とも呼ばれ、五節句の一つとなるが、平安時代には巳の日の祓として、穢れを人の体から人形へと移し、その人形を川か海に流す儀式へと変化した。着物を着せた人形で遊ぶ風習はここから生まれたもので、室町時代には三月三日は雛祭りとなり、さらに江戸時代には庶民にまで広がり、庶民の家でも雛人形を飾る風習が生まれ、俳諧の題ともなった。
宮廷行事は、藤原北家による摂関政治が最盛期を迎えた一条天皇の頃には、貴族の屋敷でも行われるようになった。『枕草子』などからわかるように、平安中期の貴族にとって最も重要な年中行事は五節句である。一月一日、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日という奇数の重なる縁起のよい日として、重要な宴が催された五節句は、季節感を形作るのに大きな役割を果たした。
鎌倉幕府は平安時代の宮廷で行われていた年中行事をおおむね踏襲したが、室町幕府はそれまでの行事に替えて、新しい行事を年中行事の日程に組み込んだ。そして、江戸時代には、宮廷の主な年中行事、とくに五節句は、新興の都市庶民社会で不可欠なものとなる。さらに八朔のような農村に起源を持つ行事も付け加えられた。八朔は農村で八月一日に近所で贈り物をする行事であったが、一五九〇年八月一日に徳川家康が初めて江戸城入りしたことから、大名や旗本にとっても年中行事となり、将軍に祝辞を述べる日となった。
民俗学者が重視してきたハレ、ケ、ケガレは、大まかに解釈すれば、「公的/儀礼的」(ハレ)の時間、「日常」(ケ)の時間、そして「穢れ」(ケガレ)である。神への祭祀であるハレは季節の境目に起こることが多く、一年の終わりにケガレを清め、一年の始めに再生することを目的としている。ケガレがたまると清めと再生の儀式が必要となるため、芸能者がその儀式を行った。とくに季節の変わり目─とくに冬の終わり─は危険で安定を欠くと考えられ、そうした状態を正すために祓の儀式と祈りが芸能者によって行われたのである。たとえば、節分は文字通り「季節の間の点」を意味し、冬の最後の一日と旧暦の大晦日を指す。その節分には、芸能者が「鬼は外、福は内」などと告げながら、鬼を追い払う儀式である追儺を行った。つまり、儀礼、演劇、そして数々の芸能が、これらの年中行事に大きな役割を果たしていたのである。
おわりに
では、日本に関する問題をどのようにして東アジア全体の問題へと発展させることができるだろうか、また、今後、どのような研究テーマが考えられるだろうか。まず、一つの可能性として、樹木、植物、魚、動物、水、山といった自然を、浄土教や禅など東アジアの仏教がそれぞれどのようにとらえているか、その自然観を比較することが挙げられる。自然のとらえ方は時代や共同体によって異なるので、そこでは地域の特性が鍵となるであろう。また、宗教、文学、視覚芸術、文化に関する研究が、考古学、地理学、環境史、農業、経済史、医学と交差する地点にも豊かな可能性が存在している。本巻で取り上げられた多くの事項─稲作、茶、デザイン、年中行事、祭り、詩歌など─は東アジア全体への広がりをみせているが、その多くは中国から朝鮮半島や日本へと伝播したものである。そこでは、たとえば、中国から伝わった暦と日本列島の実際の気候や風土とのズレを埋めるために日本に住む人々が絶えず努力してきたことが示すように、相違点が類似点と同様に重要となるであろう。