第三回 情報処理技術の可能性と曖昧な専門性●【連載】計算の歴史学とジェンダー―誰が計算をしていたのか?(前山和喜)

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第三回 情報処理技術の可能性と曖昧な専門性

前山和喜

連載の第一回で触れたコンピュータの「父親探し」は、言い換えれば計算機械の発明・開発の栄誉を授かるに値する人物を「父親」と呼んでいるのである。しかし、黎明期のコンピュータは導入されただけでは利用できず、付随する作業を誰かがこなすことによって初めて利用が可能になる。その意味では、前回のキーパンチャーを含む計算機械の操作・運用を支えた無名の人々は「母親」と言えるのかもしれない。

上記で比喩そのものにもジェンダー性を帯びさせたのには理由がある。事実として多くの場合、前者は男性、後者は女性であった。このような性別による差は、黎明期のコンピュータ特有の問題ではなく、電話交換手など他職種にも見られる。しかし、コンピュータにおけるジェンダーは、技術発展によってコンピュータの存在意義が更新されるごとに、それに携わる人々の専門性も変容し複雑になっていくのである。そこで今回は黎明期の父と母から産まれた「電子計算機の成長期」における専門性について考えてみたい。

▶︎"計算をしない計算機"の利用へ

日本にコンピュータがまだ数えられるほどの台数しかなかった時期を第一世代[*1][*2]、お金さえあれば研究やビジネスの現場で利用できるようになった時期を第二世代とすると、この世代間で専門性のあり様は大きく変わっている。1960年ごろには計算センターが設立されるようになり、また計算機のレンタル利用の体制も整ってくるため、このころを第二世代の始まりと言ってよいだろう。そして1960年は現在でも日本最大の情報分野の学会である「情報処理学会」が設立された年でもある[*3]。電子計算機の開発・導入は、当然その後も続いていくが、同時に電子計算機の応用的な利用についても研究が本格化していく。計算機械としてのコンピュータそのものに関する研究とは一線を画した、電子計算機の利用に関する分野(Information Processing)に「情報処理」という日本語があてられた[*4]。情報処理学会の創立総会で「計算をしない計算機」[*5]というタイトルで和田弘が記念講演を行ったことに象徴されるように、コンピュータの可能性に気が付いたパイオニアらによって、日本語の「電子計算機」は単なる「計算機械」から脱皮し、成長期を迎えるのである。

▶︎可能性と専門性

当時のコンピュータに関する技術雑誌や学会誌でよく取り上げられていたのは、高速計算やオートメーション、大量記録、リアルタイム処理などいかにも電子計算機らしい利用であった。それに対し、萌芽的な情報処理技術は、典型的な数値計算のためにコンピュータを利用している人にしてみればお遊び的なものに過ぎないと思われていた。しかしながら、世間一般からしてみれば、近未来的な夢のある技術が実現しつつあると感じたことだろう。ビジネス雑誌や新聞、専門誌のコラム、あるいは周辺分野の研究書などの端々には、可能性にあふれたコンピュータ利用のあり様がビビッドに描かれており、当時の温度感が伝わってくる。

例えば、山梨県立北富士工業高校の校歌は、電子計算機を用いて作曲したものである[*6]。実際にはすべてを自動化したわけでなく、マルコフ連鎖によって生成した曲を人間の手で調節していた。他にもプロ野球の本塁打王や首位打者の予測[*7]、山崩しなどの数学的なゲームの対戦[*8]、デパートの洋服売り場での「おしゃれ相談室(コーディネートの推薦システム)」[*9]、恋人選び[*10]や健康診断まで、多岐にわたる電子計算機の利用があった。

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図1.コンピュータを用いた相性診断テストをしている様子
(『学習コンピュータ』第2巻 第4号 p.7 1971年)


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図2.コンピュータを用いた健康診断をしている様子
(『学習コンピュータ』第2巻 第4号 p.8 1971年)


このような利用範囲の拡大と並走するように、性能も向上し国産機の生産体制も整った電子計算機は、高度経済成長とも相まって、日本社会に一気に普及する。1970年の『コンピュータ白書』によると1969年の時点で実働セット数は世界第3位になっていたという。コンピュータの設置に伴って、当然社会の側は情報処理技術の専門家を必要とした。しかし、ここで問題となったのは、果たしてどのような専門性を身に付ければ、多様なコンピュータ利用を支える実務者になれるかということである。電子計算機のハード・ソフトウェアの発展は日進月歩であり、利用の可能性が膨らむほど、専門性は不鮮明になっていくのである。

▶︎「情報処理技術者試験」の創設

急速に増えた電子計算機を運用するための人材が不足していたこともあり、情報処理産業の旗振り役の通商産業省は、1969年に「情報処理技術者試験」[*11]と呼ばれる認定制度(2年目以降は資格試験)を創設した。

表1. 試験の区分と概要[*12]
試験の区分 対象および水準 試験の内容
第一種情報処理技術者試験 プログラムの設計、高度のプログラムの作成及び第2種情報処理技術者の指導に主として従事する者を対象とし、大学卒業程度の一般常識を有し、3年程度以上のプログラミング経験を有するシニアプログラマーを想定して試験を行う。 (1)ソフトウェアの知識
(2)プログラムの作成能力
(3)プログラムの設計能力
(4)ハードウェアの知識
(5)関連知識
第二種情報処理技術者試験 プログラム設計書に基づくプログラムの作成に主として従事する者を対象とし、高校卒業程度の一般常識を有し、1年程度以上のプログラミング経験を有する一般プログラマーを想定して試験を行う。 (1)ソフトウェアの基礎知識
(2)プログラムの作成能力
(3)ハードウェアの基礎知識
(4)関連知識
特種情報処理技術者試験 情報処理システムの分析、設計に主として従事する者を対象とし、大学卒業程度の一般常識を有し、3年程度以上の実務を経験し、それぞれの専門分野と電子計算機についての知識を有し、情報処理システムの分析と設計を行い得る者を想定して試験を行う。 (1)ソフトウェアの知識
(2)情報処理システムの設計能力
(3)ハードウェアの知識
(4)関連知識


さて、この試験は上記の"曖昧な専門性"の問題をどのように受け止めたのだろうか。この試験は、技術者に具体的な目標を作ることと、試験によって一定の水準を示し企業や機関が技術者を採用する時の客観的な尺度を提供することという2つの目的を掲げていた[*13]。そのため試験問題は、電子計算機の各関係機関が協力しあって、特定の機種などにかたよらないように配慮しつつ、情報処理技術全般の広範囲を出題している。つまり、情報処理に従事する人の実務上の能力を、実機でのオペレーションをせずに認定するというややいびつな試験であると言える。しかし裏を返せば、特定の専門性を持たずに広範囲の基礎をカバーすることは、不明瞭なその後の発展に対応するための方略とも言える。この試験は、電子計算機は増えても人が足りないという成長期の問題を解決するために、コンピュータを利用・運用する知識を専門性として認め太鼓判を押すためのものであったと考えられる。

この新たな専門性は、ジェンダーの問題とも関係することになる。以下は、情報処理技術者試験の最初3年分の合格者に関するデータである。

表2.3年間の応募者・受験率・合格者数一覧[*14]
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合格者の女性比率は第2種では概ね1割が女性であるのに対し、第1種や特種では著しい差がついており、確かに女性の数は少ない。これは単純に専門性が高まるからではなく、第1種と特種の対象が3年以上の実務経験を有する人を想定しているところにも理由はあると考えられる。男は外で稼ぎ、女は家を守るという当時の性別役割分業も考慮に入れると、当時のコンピュータも女性には不向きだったとは言えないだろう。このデータからも、コンピュータは決して男性的でも女性的でもなく、社会的・教育的要因によってジェンダーイメージが強固になっていったことが示唆される。

情報処理技術者試験は、1970年から設置され始めた大学の「情報工学(情報科学)科」[*15]で学ぶ専門的な知識を有した大卒との住み分けにもつながっていく。詳しくは次回扱いたい。

【注】
*1:コンピュータの歴史は、しばしば「論理素子」に基づいて世代区分がなされることがある。今回はその意味の第一世代ではなく、利用のありかたによって区分している。
*2:筆者が最も早く「電子計算機」に関する記述として確認しているのは、1948年の『科学朝日』第八巻第八号である。この号では「電子計算機特集」が組まれている。
*3:http://museum.ipsj.or.jp/computer/dawn/0033.html
*4:実際には「情報」「処理」ともに不評であったようである。1962年に東大工学部に設置された情報処理系の学科名は「計数工学科」である。
*5:和田弘「計算をしない計算機」『情報処理』第一巻第一号 pp.11-15 1960年
*6:https://web.archive.org/web/20091119100714/http://fujihokuryo.ed.jp/kitafuji/song/song.htm
*7:磯部孝『電子計算機のプログラミング』オートメーションシリーズ第6巻、共立出版、1963年
*8:一松信『石とりゲームの数理』数学ライブラリー 教養篇2、森北出版、1968年
*9:「広がる電子計算機の利用」『朝日新聞』1964年4月1日夕刊、p.5
*10:先日、テレビで「マッチングアプリ特集」が放送されていたが、その源流はこの時期まで遡れるだろう。現在と当時の比較分析もコンピューティング史のテーマの一つと言えよう。蛇足ながら二部グラフの最大マッチングを求める典型的なアルゴリズムである「フォード・ファルカーソンのアルゴリズム」は1956年に発表されている。
*11:正確に言えば、1年目は「情報処理技術者認定試験」である。1970年に施行された「情報処理振興事業協会等に関する法律」に基づき、2年目以降名称が変更された。
*12:IPAのホームページ「これまでの制度の試験区分一覧」の該当部を参考に作成した。また特種情報処理技術者試験は1971年より実施。
https://www.jitec.ipa.go.jp/1_11seido/seido_gaiyo2.html#kyu01
*13:「コンピュータのライセンスを取ろう 通産省試験とコンピュータ教育機関のすべて」『学習コンピュータ』第2巻 第4号 pp.11-26
*14:「主流は企業内教育,学生が漸増 −3か年の合格者の動向を分析する−」『学習コンピュータ』第3巻 第6号 pp.55-59
*15:情報"処理"でないことに注意。

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