井浪真吾『古典教育と古典文学研究を架橋する 国語科教員の古文教材化の手順』より「相互疎外状況から見える課題」(原稿[校正中])を公開

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間もなく刊行する、井浪真吾『古典教育と古典文学研究を架橋する 国語科教員の古文教材化の手順』(文学通信)より、「相互疎外状況から見える課題」を公開します。ぜひお読み頂ければと思います。

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●本書の詳細はこちらから(ご予約受け付け中。2020.3下旬刊行予定です)
文学通信
井浪真吾『古典教育と古典文学研究を架橋する 国語科教員の古文教材化の手順』(文学通信)
ISBN978-4-909658-26-5 C1037
A5判・並製・344頁
定価:本体2,700円(税別)

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序章 古典教育の課題

第一節  相互疎外状況から見える課題

井浪真吾


 「古典を勉強する意味ってあるんですか?」
 中学校や高等学校の教員は、一度はこの問いを投げかけられたことがあるのではないでしょうか。目の前の生徒から、同僚の教員から、友人から、社会から、あるいは自分自身の内側から......。こうした問いをタイトルに付している本も刊行されています。
 教員や研究者、社会はこれまで何度もこの問いについて探究してきました。「古典を教える意義とは何か」、「古典学習を通じてどのような生徒を育成すべきか」、「生徒の育成のために、あるいは生徒が意欲・関心をもって古典学習に取り組んでくれるために、どのような教材を用いたり、どのように古典と出会わせればよいのか」など、問いを細分化したり、新たに問いを立てたりしながら......。

 近年、これらの問いに対して応答する人が増えてきました。

 もう十年以上前のことではありますが、平成一七年度実施の生徒質問紙調査結果において「古典嫌い」「古典離れ」の生徒が目立ち、「愛国心」育成とともにこれの解決も目論んだ現行の学習指導要領において、「言語事項」が「伝統的な言語文化と国語の特質に関する事項」へと変更されました。その際、各種国語教育誌において、「古典復活!」(『月刊国語教育』二〇〇八年六月)、「伝統的言語文化に親しむ」(『月刊国語教育研究』二〇一〇年八月)などの特集が組まれ、古典教育の意義や生徒の「古典離れ」の解決策などがさまざまに提示されました。しかし、そこで発表されたものの大半は、テキストの表層的な内容読解に終始していたり、論者や実践報告者の古文テキスト観や古文教材観がアップデートされていなかったりするものでした。古典教育研究者や古典教育実践者である初等中等教育現場の教員(以下、小・中・高問わず教員。本書では特に中等教育の教員を指す)においては、古典テキストを生徒にどうわかりやすく、どう面白く伝えることができるか、といったことばかりが求められていました。そして、現代を生きる生徒が抱える問題との接点は見いだされず、カノン(正典)として古文テキストが差し出されることになります。
 また、特にここ五年くらいの間に、現在の古典教育に対して、古典文学研究者が提言や異議申し立てをすることが目立つようになってきました。
 国語学・国文学の専門誌であった『文学』第一五巻第五号(二〇一四年九月)では、「文学を教えるということ」という特集が、『国語と国文学』第九二巻第一一号(二〇一五年一一月)では、「教育と研究」という特集がそれぞれ組まれました。そこでは、古典文学研究者から、主に古典テキストの読みに関して提言されています。
 梶川信行編『おかしいぞ! 国語教科書─古すぎる万葉集の読み方─』(笠間書院、二〇一六年)には、編者梶川自身による異議申し立てが見られます。

     ほぼ全入となった高校生の発達段階に応じた形で教材を提供すべきではないか。そう考えるようになっていたのだ。
     こう言うと、「そんなことは当たり前ではないか」という声が聞こえて来そうである。しかし、実際にはどうだろうか。学生たちに聞いてみると、現在でも高校における古典の授業は文法中心で、品詞分解することが学習だと思っていた、という声をよく耳にする。教科書会社が発行している各社の教師用指導書を見ても、文法的な説明と品詞分解が大きなスペースを占めている。(中略)
     やや語弊のある言い方かも知れないが、現在も多くの高校で行なわれている古典の授業は、古い常識に基づいて、間違ったトレーニング法を強制しているように見える。教科書も、それに加担しているように思われてならない。不幸なのは生徒たちである。さまざまな調査で、高校生の四人に三人は古典嫌いだという結果が出ているが、それは当然のことなのではないかと思われる。(中略)
     本書は主に『万葉集』を扱っているが、これは一人『万葉集』の問題ではない。教科書の古典の教材には、どんな問題が潜んでいるのか。教材とされたものに関する研究の現状はどのようなものなのか。本書はその一部に過ぎないが、研究者の側から情報を提供し、それを世間の方々に知っていただくことで、現在のチグハグな状況が少しでも改善すればと念じている。
 このような古典教育をめぐる状況認識、それに対する異議申し立ては古典文学研究者の多くが共有しているようで、松尾葦江編『ともに読む古典─中世文学編─』(笠間書院、二〇一七年)の中では、小助川元太が次のように述べています。
     「古文が面白くないはずがない」。
     こんなことを言うと、「そんなバカな」と思う人がいるかもしれません。「高校時代の古文の授業はつまらなかった」「文法を覚えさせられた嫌な記憶しかない」「古文など何の役にも立たず、勉強する意味がない」といった声が聞こえてきそうです。
     でも、注意深く聞いてみると、それらは自分たちが受けた古文の授業や、自分たちの出会った古文の教材が面白くなかった、面白いとは思えなかった、あるいは、古文を勉強する意味が見いだせなかった、ということであって、「古文」すなわち古典文学そのものが面白くないということを言っているわけではありません。(中略)
     本書は、そうした古文=古典文学の魅力を伝えたくてしかたのない古典文学研究者たちと、生徒たちを前にして、古文の面白さや古文を学ぶ意義を伝えようと奮闘している現場の教師たちのコラボレーションによって生まれた、前代未聞の本です。(斜体は原文傍点ママ)
 梶川や小助川が異議申し立てを寄せた各々のテキストには、古典文学研究者による提言がなされています。ほかの古典文学研究者の提言も含めてそれらの内実はどうかというと、国語教育誌に見られたものと同様に、「生徒の古典嫌い」をどう打開していくかに議論が集中しており、教科書教材の面白い読み方、教科書に採録されていない古文テキストの紹介、あるいは写本、変体仮名学習など、古典世界へのアプローチばかりが言い立てられています。ここでも〝古典世界の奥深さ〟、〝古典文学の魅力〟など、古文テキストの価値は先験的に認められ、これに「親しむこと」を目的とし、広く「人格の完成」(教育基本法)を目的とする教育の場での学習の意義との回路が明示されることはありません。

 こうした古典文学研究者側からの動きは、本来は古典文学研究と古典教育との「相互疎外状況」を打開するために企図されたものでした。しかし、古典文学研究者にとって古典教育の世界は「授業作り提案と実践報告、学習指導要領解説で埋め尽くされている。結果、〈教育〉は「を」組〈研究者〉の踏み込めない世界」(傍点ママ)と映り、古典教育研究の論考や古典教育の実践を踏まえず、大学生の感想や自身の見聞する範囲でのみ古典教育を捉え、古典教育の実際とかけ離れたものになってしまっています。
 一方、特に教員は、時間的な余裕を持つことができず、最近の古典文学研究をめぐる研究の細分化や領域拡張もあいまって、古典文学研究の世界は「自らとの間の連絡の切実性が未だ十分に見えない世界として懸隔があ」ると感じているのか、古典文学研究の成果を積極的に古典教育に活かそうとすることがありません。 
 その結果、古典文学研究者の側も古典教育研究者や教員の側も、自身のプロパーから発言するのみで、両者を架橋する試みはなされず、「相互疎外状況」は一層深刻になっているように感じられます。

 古典教育研究者の内藤一志は、古典教育の課題が、「指導内容としては益田勝実に代表される学習者の認識形成に深く関与させようとする指導観に基づいた授業を理想として求めながらも、古典文法の知識の徹底と現代語訳をゴールとする入試対応型の授業にとどまる」点にあると見ています。古典教育に関する論考や実践報告において、人間形成(=「人格の完成」)は目指されているが、「入試対応」という現実的な問題がそれを妨げているというわけです。これは教員の実感とも重なるところがあるのではないでしょうか。
 また、国語科教育研究の成果が総覧され、その展望や課題が述べられている全国大学国語教育学会編『国語科教育学研究の成果と展望』(明治図書、二〇〇二年)、同編『国語科教育学研究の成果と展望Ⅱ』(学芸図書、二〇一三年)では、古典教育の展望と課題について、それぞれ次のように述べられています。

    ①これまで分化・独立した形で展開されてきた、「古典としての古文」教育と「古典としての漢文」教育が、国語科教育の中に固有の領域を保ちながらも、「日本の古典」教育として両者を統合した教育をどのように創造するか、また、日本の言語文化の継承と創造を考えたとき、「古典(古文・漢文)」と「現代文」の総合化をどのように図るべきかは、今後の実践研究上の大きな課題である。
    ②言説論を生かした古典教育論の提唱を受けて、改めて、「古典」の概念及び「古典教育意義論」の検討が必要な段階にきている。古典教育意義論史の研究と合わせて、それぞれの理論的な検討が必要である。
    ③「日本の古典」とは何か。益田勝実の提起をふまえて、今後、古典教材のあり方について検討するとともに、新たな古典教材の発掘に取り組むことも必要である。また、古典テキストについては、小・中・高の発達段階や学習のねらいをふまえて、どのように系統化を図るかが、理論的にも、実践的にも検討される必要がある。
    ④古典(古文・漢文)の読解指導においては、これまでの実践研究の成果を生かして、内容を読みとることに機能する古典語句・文法指導の展開が期待される。また、学習者の興味・関心や問題意識を生かした学習テーマ(主題)を設定して教材編成を行い、単元的展開の古典授業が実践されることも望まれる。
    ⑤古典教育史及び古典教育実践史の研究がさらなる発展を遂げるとともに、その研究成果が実践の場に生きるものとなるよう努めたい。
    教育意義:思考・認識の形成を目指そうとしており変化はない。現代的な教育課題に対して古典教育をどのように位置づけるか、議論を深めること。
    教育史:着実に未着手の問題を解明している領域である。教育が文化的営為であることを踏まえ、より広範な視覚をもつ研究へと展開すること。実践史研究を通し、方法の典型化と教室に生かす方途を求めること。
    教材研究・指導方法:竹村信治らの提言を受け、学習者の実態に即して方法化すること。多くの実践報告や教材研究を有効活用するためにも、現在進行的に実践知の集約とレビューを行なうこと。

 ここまで見てきたことから、古典教育の現在の状況がどのようであるか、ある程度つかんでもらえたのではないかと思います。繰り返せば、古典教育研究者や教員、古典文学研究者の提言や実践報告において、古文テキストや伝統的な言語文化は先験的に価値あるものと認定され、これをどうわかりやすく、どう面白く伝えていくかばかりに議論が集中しています。そして、古典文学研究者と古典教育研究者や教員との間の相互疎外状況により、それぞれのプロパーから発言や提言がなされるだけで、古典文学研究と古典教育とを架橋する試みは見られません。古典教育はまだまだ課題を抱えています。

 それらを踏まえ、特に取り組むべき課題であると稿者が考えているのは、次の二点です。

 一点目は古文テキストや伝統的な言語文化に対する捉え方の再考です。古典観、言語文化観の捉え直し、とも言い換えられるでしょう。ここまで繰り返し述べてきたように、古典教育研究者の提言や教員の実践報告、古典文学研究者の提言などにおいて、古文テキストや伝統的な言語文化はアプリオリに価値が認められていました。これは現行の学習指導要領や新学習指導要領においても同様で、中等教育で扱われる「言語文化」は「文化的に高い価値」があるとされています。それゆえ、古文テキストや伝統的な言語文化は教養として伝えられるだけで、それらがどのようなモノで、どのようなコトを記しているのかなどについて考えられることがありません。言い換えれば、テキストに記された、人間、社会、自然に対する書き手の対話過程や、文化の継承過程などに目を向けて、それらを動的に捉えようとする試みはほとんど見られない、ということです。こうした言語文化観がはらむ問題について、竹村信治はすでに次のように指摘しています。

    諸表象を文化(言説)共同体の言表群として束ねようとする議論に欠落しているのは、表象生成の現場への眼差しである。それぞれの表象は、むしろ言説共同体との拮抗をその生成過程にもつ。しかも、表象主体(わたし)が語っているのは、その語りの現在(いま・ここ)における拮抗の最中での世界との対話の、個別的なあり様である。

 誰かが何事かについて語るとき(書くとき)、一からすべてを創造するわけではありません。書き手の多くは複数の共同体に属しています。共同体においては、ある語りの様式が流通していたり、権力をもっていたり、制度化されていたりします。私たちはそれを獲得して語れるようになるのです。そして実際に語るに至り、ある語り方を選択する、どの語り方も選択せずに自らが創造する、あるいはこうした語りの過程に気づかずに語りを再生産するなどして、何事かを語ります。ここではかなり単純化してしまっていますが、こうした語り(表象)のダイナミズム、そこで起きている、人のことばを介した社会や自然、人間との関係の取り結びといったことに目を向けず、「言語文化」として均質化し、「古人のものの見方や考え方」などのように一般化してしまうことの危険性を竹村は指摘しているのです。
 竹村の指摘を踏まえれば、古典教育において、古文テキストの価値を先験的に認めるのではなく、テキストをその歴史的社会的状況において捉え直して批評する必要があるということです。そしてこれは、竹村をはじめとして、古典文学研究者がこれまで行ってきたことでもありますし、国語科教育の中でも近現代の文学テキストを用いた文学教育において、当たり前のように議論されてきたことでもあります。この点において、古典文学研究と古典教育とが架橋されることになるのです。

 二点目は「現代的な教育課題」を踏まえた「古典教育意義論」の検討、これと関連した「古典教材のあり方について」の検討です。これも前に見たように、学習指導要領では、古典は教養として伝えられることが目指されていました。そしてさらに、教養を身につけることを通じて、生徒たちが「思考・認識の形成」をすることが目指されていますが、こうした考え方は新学習指導要領においても顕著です。高等学校の新科目である「言語文化」や「古典探究」の「1 性格」には、それぞれ次のように述べられています。

    急速なグローバル化が進展するこれからの社会においては、異なる国や文化に属する人々との関わりが日常的になってくる。このような社会にあっては、国際社会に対する理解を深めるとともに、自らのアイデンティティーを見極め、我が国の一員としての責任と自覚を深めることが重要であり、先人が築き上げてきた伝統と文化を尊重し、豊かな感性や情緒を養い、我が国の言語文化に対する幅広い知識や教養を活用する資質・能力の育成が必要である。
    時代がいかに変わろうとも普遍的な教養があり、かつてはその教養の多くが古典などを通じて得られてきた。これらの教養は、先人が様々な困難に直面する中で、時代を越えた「知」として蓄積されてきたものであり、そのようにして古典は文化と深く結び付き、文化の継承と創造に欠くことができないものとなってきた。国際化や情報化の急速な進展に伴って、未来がますます予測困難なものになりつつある中、社会でよりよく生きるためには、我が国の文化や伝統に裏付けられた教養としての古典の価値を再認識し、自己の在り方生き方を見つめ直す契機とすることが重要である。

 古文テキストに記された「普遍的な教養」を生徒たちが身につけることで、議論されてきた「予測困難な」「社会でよりよく生きる」といった「現代的な教育課題」の解決が目指されています。しかしそれは果たして可能なのでしょうか。新学習指導要領には、「教育水準の国際比較、現代のグローバル資本主義への対応を基軸に置きながら、それがもたらすだろうひずみを、表層的で観念的なナショナリズムのイメージによって上書きしていく」側面がないでしょうか。また、古文テキストには「普遍的な教養」など書き込まれておらず、時代ごとに価値を付与されて「古典」とされたことはすでに指摘されている通りです。

 こうしたことに目を向けず、現場の教員が古文テキストに書き込まれた「普遍的な教養」から「現代的な教育課題」の解決への道筋を具体的に描くことに邁進すれば、古文テキストは誤読、曲解されてしまうことになるでしょう。それがどのような問題を引き起こしたかは、歴史がすでに教えてくれています。とすればこうした新学習指導要領の古典教育構想とは別に、これまで発表されてきた古典教育に関する論考、実践報告などから古典教育の意義や目標を検討する必要があります。
 竹村は、先に挙げた引用に続けて、次のように述べています。

    そこ(稿者補、諸表象)にあるのは、「我が国の言語文化の特質」としての「ものの見方、考え方」ではなく、「ものを見る」「考える」その営みの具体的個別的な局面である。とすれば、「言語文化」は言語をもってした世界との対話のアーカイブスと読み替えることができる。国家、歴史、社会、自然、生、存在、性、心、愛、欲、言葉......。古典テキストはそれらの問題領域をめぐる対話の一々を今に伝える。この言語アーカイブスを教材化し、学習指導を構想することはできないか。そうした個別の対話過程を主題化することこそが、流通する諸言説に取り巻かれながら世界との対話を個別に重ねている学習者にとって必要なことなのではないか。
 古文テキストに書き込まれているのは「「ものを見る」「考える」その営みの具体的個別的な局面」であって、「我が国の言語文化の特質」としての「ものの見方、考え方」、ここまで述べてきたことで言えば、「普遍的な教養」が書き込まれているのではない、ということが指摘されています。とすれば、
    古典などを読むことで、先人が何を感じて何を考えたのか、いかに生きたのかということを知ることができる。古典に表れている、人間、社会、自然などに対する、ものの見方、感じ方、考え方には、現代と共通するものや、現代とは異なる古文特有、あるいは漢文特有のものもある。古典の学習を通して古典の豊かな世界に触れるとともに、古典についての解説や評論なども必要に応じて参考にしながら、それらの様々なものの見方、感じ方、考え方に、主体的に関わることを通して、思考力や想像力を伸ばし、豊かな感性や情緒をはぐくむことで、社会人としての資質の形成に資することをねらいとしている。このような力を育成して、生徒が自分の思いや考えを広げたり深めたりすることを目指している。

といった新学習指導要領で新設される「古典探究」の目標は、「普遍的な教養」を伝えるのではない方法で目指していく必要があります。その方法が竹村では、「言語アーカイブス」の教材化とそれに応じた古典学習の構想です。生徒たちを取り巻く社会の問題、自然の問題、人間の問題、これらは取りも直さず生徒たちが抱える「現代的な教育課題」です。こうした「現代的な教育課題」の解決として、生徒たちが、それらの問題と言葉を介して自らをどう関係させていくのかを考える時に、各々の問題に対する言葉を介した自己の関係のさせ方が記された「アーカイブス」(資料)として、古文テキストを用いることが提案されているのです。そして、「言語アーカイブス」の「具体的個別的な局面」のあり様を明らかにしてきたのが、いうまでもなく古典文学研究です。これまで発表されてきた古典文学研究の論考から、古文テキストに記された語りの現在がどのようであったか、言い換えれば、書き手を取り巻く歴史的社会的文脈はどのようであったか、そこでは何事かを語るときにどのような語りが様式化、制度化されていたか、それらと対話しながら書き手は何をどのように語っているのか、を探っていくことが必要となります。

 古典教育研究や実践報告から古典教育の目標や意義を探り、古典文学研究から古文テキストの語りの現在を探り、それらと生徒たちの現在とを突き合わせていくことで、古典文学研究と古典教育とが架橋された新しい古典教育を構想することが可能になるでしょう。
 そこで本書では、『宇治拾遺物語』(以下、『宇治拾遺』)を一つの手掛かりとして、古典文学研究と古典教育の架橋を試みたいと思います。『宇治拾遺』は中等教育において戦後から教材として採録されてきました。特に現代の高等学校国語科教科書においては、単元目標を「古文の世界に親しむこと」とともに「説話のおもしろさを味わうこと」と設定し(明示していないものもありますが)、「古文入門」の単元に『宇治拾遺』を出典とする説話を採録する「国語総合」の教科書が多く見られます。ほかの説話集テキストも含めて、『宇治拾遺』が古典入門教材として採録されている理由は、「おそらく、そこに収められている説話が短くかつ完結していること、話の内容が現代人にも親しみやすく古典的教養をそれほど必要としないこと、そして、何よりも笑い話などが多く面白いと見なされている」からでしょう。

 しかし、これまでの『宇治拾遺』研究、特に80年代以降の『宇治拾遺』研究においては、『宇治拾遺』は表層的な読みやすさとは裏腹に、事象や語のモティーフ性、話型、さらには流通する人物像や逸話を援用しつつ、それをずらしたりして説話を語り、批評性に富む複雑な表現性を有した説話集として語られてきました。古典教育で語られる教材としての『宇治拾遺』と、説話研究で語られる説話集としての『宇治拾遺』との間には大きな懸隔が認められるのです。こうしたテキストを対象として、古典文学研究が明らかにしてきた「具体的個別的な局面」を生かし、古典教育研究や古典教育実践が明らかにしてきた古典教育の意義や目標と照合し、現在の古典教育をめぐる状況を踏まえながら教材化を試みることで、古典文学研究と古典教育との架橋の一つの例を示してみたいと考えています。

以上、原文にある注はカットしています。ご了承ください。

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●本書の詳細はこちらから(ご予約受け付け中。2020.3下旬刊行予定です)
文学通信
井浪真吾『古典教育と古典文学研究を架橋する 国語科教員の古文教材化の手順』(文学通信)
ISBN978-4-909658-26-5 C1037
A5判・並製・344頁
定価:本体2,700円(税別)

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