序章「東日本大震災は「普遍性」に回収できるのか」を公開:加島正浩『終わっていない、逃れられない 〈当事者たち〉の震災俳句と短歌を読む』
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加島正浩『終わっていない、逃れられない 〈当事者たち〉の震災俳句と短歌を読む』(文学通信)
ISBN978-4-86766-060-7 C0095
四六判・並製・224頁
定価:本体1,900円(税別)
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序章
東日本大震災は「普遍性」に回収できるのか
■本書の目的
この一首を読むのみでは、コロナ禍で詠まれた歌のようにも思える。しかし、そうではない。これは二〇一〇年に宮崎で発生した口蹄疫を踏まえて詠まれた歌である。詠んだ歌人は伊藤一彦(一九四三―)。宮崎県出身・在住のベテラン歌人である。上記の歌は彼の第一二歌集『待ち時間』(青磁社、二〇一二年一二月)に収められている。
伊藤はほかにも、口蹄疫を踏まえた歌を詠んでいる。
このような歌が詠まれた文脈を知らず、一首のみを取り上げたとき、この歌が宮崎の口蹄疫を踏まえた歌であると判断することはできるだろうか。口蹄疫でも咎のない動物は殺処分を受けたが、福島第一原発「事故」後もこの国は、その二か月後に「警戒区域」にいる全ての家畜を殺処分する指示を出した。そのときに起っていたことを詠んだ歌とも一首目は受け取れる。
〈いのちの声絶えて聞こえず月光を浴ぶる〉という歌も、口蹄疫による殺処分で家畜が一匹もいなくなった状況を詠んでいると思われるが、「警戒区域」あるいは「帰還困難区域」に指定され、人がいなくなり、動物も殺処分され、あるいは餓死するなどしてしまった原発「事故」以後を詠んだ歌と受け取っても違和感はないように思う。
そして「非常事態宣言」は、コロナウイルス蔓延以前に宮崎県で発令されていた。見えないウイルスを封じ込めるために集会を中止し、外出を控えるように県から指示があり、会場を変更せざるをえなかったという伊藤の歌は口蹄疫を詠んだものであるが、コロナウイルス蔓延のただなかでも起っていたと想像できる内容でもある。
ある出来事を詠んだ歌が、別の出来事を詠んでいるようにも受け取れるということは、肯定的にも否定的にも考えられるように思う。たとえば、災害の普遍的な側面を詠んでいると肯定的に評価することが可能である。災害が繰り返し襲ってくる国で発達した形式として歌を捉えるならば、次に襲ってくる災害にも通ずる開かれた秀歌であるという評価もできるはずである。確かに、〈咎なくて〉や〈いのちの声絶えて〉からはじまる二首は大変に優れた歌であると私も感じる。
しかし、このような歌を否定的に捉えることも可能であろう。それは、ある災害の特殊性を十分に詠むことができていないという捉え方である。口蹄疫を詠んだ歌とも、東日本大震災を詠んだ歌とも、コロナウイルス蔓延下の状況を詠んだ歌とも捉えられる歌は、それぞれの災害の特殊性を捨象してしまっているのではないかということである。
柏崎驍二(一九四二―二〇一六)という歌人がいた。岩手県に生まれ、東日本大震災後の岩手に居住していた歌人である。彼は次のような歌を遺している(『北窓集』短歌研究社、二〇一五年九月)。
これまでに研鑽してきた〈表現の技法〉が想定していない事態に巡り合ったとき、それをうまく言葉にするのは難しい。そのため、経験したことのない津波に襲われた後に〈表現の技法〉を駆使して秀歌を生み出すのは、難しいのではないかと推察する。加えて歌を詠むだけではなく、歌会の場での〈批評〉も平時に生み出された〈技法〉のひとつである。平時のように十全に機能しないのは、当然といえるだろう。だからこそ〈被災現実〉を詠んだ〈よい歌〉は、存在しにくいのかもしれない。しかし〈よい歌〉を生み出す基盤も、〈良い歌〉であると評価する基準も、大部分は平時において研鑽されてきたものである。〈被災〉時には、〈被災〉時の歌の詠み方があり、評価のされ方があるはずである。それは平時に研鑽されてきた〈表現の技法〉からみれば、そこからはずれる〈なにか〉と、まずは呼ぶよりほかにないものなのかもしれない。
本書は、東日本大震災「以後」を詠んだ俳句と短歌のなかから、その〈なにか〉を考察しようと試みるものである。平時において研鑽された〈よい歌〉を生み出す技法や基準が、災害時において機能しなくなったとき、俳人/歌人はどのように句や歌を詠むのか。平時とは異なる状況におかれながらも、なぜ、句や歌を詠もうとするのか。句や歌を詠むことでどう〈被災〉を乗り越えようとしているのか。どのような言葉が生み出され、どのような思考が可能になったのか。〈被災〉時に歌を詠むことで何を訴えようとしたのか。あるいは東日本大震災という特殊な災害を詠う際にどのような問題が発生したのかなど、定型の表現を用いて俳人・歌人がどのように東日本大震災に対峙したのかを問題にしたい。そのため本書では、震災を詠んだ俳句や短歌が優れているかどうかに必ずしも拘泥しない。なぜならば、そもそも俳句や短歌として優れたものであることと、東日本大震災という特殊性を扱うことが両立可能であるのか、ということから問題にする必要があると考えるからだ。
災害に繰り返し襲われきた日本という国では、災害(→「復興」)→忘却という過程が幾度となく繰り返されてきた。そのため、ある災害をその渦中において詠んだとしても、どのような災害であったか、多くの場合忘れ去られてしまう傾向にある。そうである以上、ある災害のみに当てはまる特殊性を引き受けて詠んだとしても、その歌が優れた句や歌として後世まで評価されつづける可能性は低い。後にそれを読む人間が理解できるかどうか、不明であるからだ。
そのように考えれば、冒頭で言及した伊藤一彦のように全ての災害に該当する普遍的な側面を取り出し災害を詠んだ方が、後に読む人間からも理解(評価)されやすいことは間違いないだろう。伊藤は、宮沢賢治が、豊沢川で見た幻想(夢)で地獄の様子を詠んだといわれている短歌〈青じろき流れのなかを死人ながれ人々長き腕もて泳げり〉などを踏まえたうえで、
と詠んでいる。賢治は津波を詠んだわけではないが、その歌は東日本大震災の津波の様子に重ねて読めるということであろう。後世においても言及される歌というのは、個別の事象の特殊性を詠む以上に、なんらかの普遍性を有していることが重要であると述べることも可能であるように思う。
■なぜ東日本大震災の特殊性に着眼するのか
震災を普遍性に開くことが優れた歌の詠み方であろうと述べておきながら、なぜ東日本大震災の特殊性に着眼するのか。そのことに俳句の面から言及しておきたい。
震災直後に発表された震災を詠んだ句集において、注目された句集のひとつが、角川春樹『白い戦場』(文學の森、二〇一一年一〇月)であった。たとえば『白い戦場』には、震災に触れて詠まれた句に〈いづれみな還りゆくなり春の沖〉というものがある。確かに人間は、〈いづれ〉は〈みな〉死にゆくものではある。しかし、津波で亡くなった死者を一般的な人間が経験する死と同等に扱うような詠み方には違和感がある。
ほかにも『白い戦場』には、〈地震狂ふ荒地に詩歌立ち上がる〉、〈瓦礫より詩の立ち上がる夕立かな〉などと詠まれた句が収められているが、彼自身が〈地震〉や〈瓦礫〉から詩を立ち上げているようには思えない。なぜなら〈夕立かな〉と詠嘆を示す切れ字〈かな〉を用いたこの句の詠み手は、〈瓦礫〉から〈詩〉の立ち上がる様子をしみじみと「被災地」の外側から眺めているように思われてならないからである。角川春樹は東日本大震災を詩歌を生み出す契機としては捉えているが、震災を詠む必然性を示すことはできておらず、むしろただ傍観しているようにも思える。震災を詠まなければならないとする俳人の切実さが感じられないのである。それは震災以後の福島を詠んだ句からもうかがえる。
なぜ〈白〉なのか。なぜ〈戦場〉なのか。そのイメージで福島を詠むことが適切なのかということを問題にしなければならない。〈白〉は〈戦場〉と結びついている。そのため福島が雪国だから〈白〉と詠んだということではないだろう(なお付言すれば、福島第一原発立地地域の浜通りは太平洋側の気候で、雪はほとんど降らない)。
おそらく、防護服が〈白色〉であるからであり、〈戦場〉は見えない放射性物質との戦いであると推測される。俳句としては理解できないこともない。ただ仮に福島や福島第一原発に近い相双地区が〈戦場〉であったとしても、そこには人が生きている、あるいは「事故」以後に(強制避難区域からの避難、区域外からの避難は関係なく)住んでいた場所を追われた人々が生きていた場所なのである。〈白い戦場となるフクシマ〉と俳人が詠むときには、そこに生きている/生きていた人の姿が見えない。
角川は〈原爆忌チューブの赤を絞り出す〉とも詠んでいる。福島を白と結びつける一方で、原爆を赤と結びつける。さらに「赤い」電話と「フクシマ忌」を対比させ、〈フクシマや向日葵すらも日に叛き〉と詠んでいる。向日葵がセシウムを吸収するという話が広がり、一時期、向日葵を植える動きが起こったことを前提に詠まれた句と推察されるが、〈フクシマ〉が白と結びつけられていることを踏まえ、黄色い向日葵が〈フクシマ〉に〈叛く〉という句を捉えると、角川は福島が〈白色〉一色で覆われ、他の色が消えたかのような印象を持っているように思える。しかし、実際にはそうではない。福島全体が防護服を着なければ入れない土地になったわけでもなく、防護服を着用しなくてもよいとされている地域においても、放射線量が高い地域は存在するからである。政府が区画し、線引きすることで、統御しようとした「現実」のイメージとは異なり、あるひとつの色だけで表象することが不可能なほどに、原発「事故」以後の福島は多様な問題を抱え、多様な人々の思いが交差しながら、引き裂かれ、現在にまで至っている。
このために、東日本大震災を普遍性へと開いて詠むことが可能なのかという問いが生じる。スリーマイル島やチョルノービリ原発での「事故」以上ともいわれる、かつてない規模で起こった福島第一原子力発電所の「事故」は、広範に被害をもたらしたが、その被害は一様ではない。加えて、絶えず放射線量や行政の政策で状況が変化する原発「事故」以後においては、どこで・いつ詠まれた句や歌であるのかが問題ともなる。つまり、現在も継続している原発「事故」以後の現実に即して詠むことを試みる限り、特定の場所と時間を引き受けざるをえないということである。福島市と、原発立地地域である大熊町や双葉町、その周辺の浪江町、福島第二原発を有する楢葉町、富岡町が経験してきた「事故」以後の様相は全く異なり、いずれかの町を詠んだとしても、それを他の町に敷衍することのできない特殊性をそれぞれの町が有している。そのため、原発「事故」以後の「客観的な」福島の現実を捉えたかのように詠うものには、警戒する必要もある。(→第六章を参照)
もちろん、津波が襲ってきた瞬間や原発「事故」が起こった瞬間をひとつの出来事として「客観的に」詠むことは可能であるだろう。しかし、それでは発災の瞬間を詠むことはできても、「以後」を詠むことはできないはずである。地震が起こった瞬間、津波が襲ってきた瞬間、避難所で過ごすあいだの時間などは、確かに他の震災や津波と重ねて詠むことのできる普遍性を有する部分が多いかもしれない。しかし災害は、遭遇した人のそれ「以後」の人生を大きく変える(→第三章を参照)。災害は発災時のみで終わるのではない。それを経験した人は、災害以後を生きつづけなければならないのである。津波で、原発「事故」で、変容させられた故郷に直面しつづけなければならない人々や、津波や原発「事故」をきっかけに近しい人を亡くした人々は、震災「以後」を延々と生きつづけなければならないのである。そのような「以後」を俳句や短歌が詠むとき、詠み手の特殊な経験が色濃く反映されるのは当然のことであるだろう。
■東日本大震災は「当事者」だけが直面した問題か
このように考えてくると、東日本大震災「以後」を詠むことができるのは震災に遭遇した「当事者」だけなのではないのか、という疑問が生じるだろう。確かに、東日本大震災において人生を大きく変えられ、「以後」を生きざるをえない状況におかれたのは「被災した」人がほとんどであるだろう。現に本書で扱う俳人・歌人のほとんどは、震災の「被災者」か、「被災地」とされた地域の出身者か居住者で、その土地に縁のある人である。ただしそれは、東日本大震災「以後」の「被災地」を問題にして俳句や短歌を論じた類書が存在せず、東北を中心とした「被災地」で詠まれた句・歌を問題にする必要性の高さから、範囲を限定することになった結果である。決して狭い範囲の「当事者」だけが「以後」を経験しているわけでも、詠めないわけでもないことは重要な点であるため、道浦母都子(一九四七―)の『はやぶさ』に言及することで付言しておきたい。
道浦母都子の『はやぶさ』(砂子屋書房、二〇一三年一二月)には、東日本大震災を詠んだ歌のほかに、彼女がチョルノービリ(当時の表記はチェルノブイリ)を訪れたときの歌、広島で平和祈念式典に出席した際の歌も収められている。本歌集でまず注目したいのは、「東北」と別の事件をつなげた歌の存在である。
一首目は、広島の平和祈念式典での黙禱とつなげられ、二首目は二〇一一年五月にパキスタンで殺害されたオサマ・ビンラディンとつなげられている。本来つながらないはずのものをつなげることで、読者にその関係性を考えさせる歌自体に問題があるわけではない。ただ、ビンラディンと「東北」をつなげる詠み手の特殊性には気を配ってみたい。
詠み手の〈わたし〉は、福島原発がみえる護岸に立っていることが〈奇妙〉であると詠んでいる。つまり〈わたし〉は、原発「事故」がなければ、福島原発がみえる護岸に立つことはなく、「事故」以前には福島と(おそらく「東北」とも)縁を持たなかった人物であると推察される。しかし〈わたし〉は、東日本大震災以後に〈行方不明〉となった〈わたし〉を抱えている。現在は忘却にさらされつつある東日本大震災だが、発災した当時は衝撃的な災害であったことは疑いようがない。二〇一一年三月一一日一四時四六分をどこで迎えていたとしても、同時代の災害としてそれに遭遇した者は、程度の差はあれ、何かを感じずにはいられなかったはずである。震災以前に「東北」に縁のなかった人であっても、〈なにか〉を失ったと感じる人はいたはずである。たとえ失った〈なにか〉が明確にわからなかったとしても。
詠み手の〈わたし〉は〈わたし〉(を形作る何か)の行方がわからなくなってしまったのであろう。
■失った感覚すら失ってしまう日常の前で
あまりにも凄惨な事件に居合わせたり、その傷跡が残る場所を訪れたりした際に、わたしたちは言語化しえない感情に襲われ、絶句することがある。その際にわたしたちは、なにを失ったかもわからないまま、もしかすると、失ったことにも気がつかないまま、〈なにか〉を失っているのではないだろうか。そのように歌人は問いかけているようにも思う。
詠み手の〈わたし〉は〈わたし〉を見失ってしまった原因を、おそらく〈チェルノブイリ〉での経験に求めている。〈チェルノブイリ〉の土地を踏んだときから〈からだのどこか〉が噴きこぼれてしまったと〈わたし〉は詠う。その経験があるからこそ、〈わたし〉は東日本大震災によって自分のなかの〈なにか〉が失われたことに気がついたのではないか。単に〈チェルノブイリ〉を訪れた経験があったから、東日本大震災で〈なにか〉を失ったと感じたのではない。〈からだのどこか〉が噴きこぼれてしまった〈チェルノブイリ〉の経験があったために、誰しもが気がつかないうちに失っていたものの存在に、〈わたし〉は気がつくことができたのではないか。
直接に〈なにか〉を奪われたわけではないにしても、東日本大震災を目にしたとき、わたしたちは〈なにか〉を感じたはずである。そのときに気がついてはいなかっただけで、〈なにか〉をみな失っていたのではないか。失った〈なにか〉の全貌を適切に言語化することは難しい。部分的ではあるにせよ、たとえばそれは政府への信頼であるかもしれないし、無意識のうちに抱いていた科学技術への信頼、明日も同じ生活がつづくはずだと根拠もなく信じることができた感覚といったものなのかもしれない。なにを失ったのかは、震災以前にその人が有していた経験によるのだろう。その個別性を読むことが俳句や短歌を読むということなのかもしれない。
わたしたちは、自らの意志に反して日常の生活が大きく変えられなければ、凄惨な出来事を前にしたときの感覚を次第に忘れ、日常の生活へと戻っていく。しかし気がつかなかっただけで、忘れてしまっただけで、わたしたちはおそらく〈なにか〉を失っている。圧倒的な日常の前では、失った感覚すら失ってしまう。忘れてしまったことすら忘れてしまうが、そのことを思い出させて、認識させなおすことが「文学」にはできる。失った〈なにか〉を詠むことで、失った〈なにか〉が詠まれた句や歌を読むことで、わたしたちはそれを探求することもできる。
本書は、凄惨な出来事の「以後」を生きざるをえなくなった歌人や俳人に言及する。彼ら・彼女らは失った/失われつつある〈なにか〉と対峙しつづけている。彼ら・彼女らの「以後」の句や歌を支える〈なにか〉に関する本書の分析を通じて、この一三年間でなにが失われたのかを考察してもらえれば、幸いである。そこでの考察を基に、新たな震災「以後」の俳句や短歌が生まれれば、それに勝る喜びはない。
なお本書では、一貫して原発「事故」の表記を用いる。政府の地震調査研究推進本部が二〇〇二年に公表した「長期評価」は、三陸沖から房総沖の日本海溝沿いで、将来的にマグニチュード八程度の地震が発生する可能性が高いことを報告している。また二〇〇八年時点で、福島県沖で地震による津波が、最大で一五・七メートルの高さになるとの計算結果を東京電力は把握していたことがわかっている。
さらに二〇〇六年の一二月には、日本共産党の吉井英勝衆院議員(当時)が、第一次安倍晋三内閣に対して、地震などが原因となり送電線塔が倒壊し、外部電源が喪失し、内部電源や非常用電源が機能しなくなった場合には冷却機能が停止し、メルトダウンが起こる危険性を指摘している。
つまり東京電力も日本政府(自由民主党)も、地震に伴う津波によって、原子力発電所が過酷事故を起こす危険性を認識できていたのである。にもかかわらず、東京電力は防潮堤の建設が数百億円にのぼることを理由に津波対策を見送り、日本政府(自由民主党)は「安全の確保に万全を期している」と述べ、危険性の指摘を無視してきたのである。東京電力と日本政府(自由民主党)が、計算結果や危険性の指摘を真摯に受け止め、その時点で行える最善の対策を施していたとしても、福島第一原子力発電所が事故を起こした可能性はある。
しかし、危険性の指摘がありながらも真摯にとらえることなく、過酷事故を起こしてしまった現実がある以上、本書では福島第一原子力発電所の「事故」は、天災による偶発的なものではなく、限りなく人災に近いものと認識し、原発「事故」の表記を用いる。
また原発「事故」以後、原発が核兵器の技術転用であるにもかかわらず、「原発」からは「核」の文字が消されているために、適切な認識を妨げているという批判も起こった。原発と核兵器が切り離されて認識なされていることに、「原発」という表記が関わっていることを看破し、別の表記を用いた早い例として、栗原貞子(一九一三―二〇〇五)の〈核文明〉(『核・天皇・被爆者』三一書房、一九七八年)という表記があり、原発「事故」のことを〈核災〉と表記した福島県南相馬市の詩人若松丈太郎(一九三五―二〇二一)の例もある。
しかし本書では、栗原や若松の表記の意義を認識したうえで、当該表記が一般に定着していないことと、核兵器との連続性を強調するねらいの強い書籍ではないことを踏まえ、原発「事故」の表記を用いる。ただし、原発「事故」のために放出された放射性物質による「汚染」を本書が軽視しない背景のひとつに、原発が核兵器と原理的に同じ技術で成立していることへの意識があることは、付記しておく。
【この続きは製品版でお楽しみください】
加島正浩『終わっていない、逃れられない 〈当事者たち〉の震災俳句と短歌を読む』(文学通信)
ISBN978-4-86766-060-7 C0095
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