第6章 美術資料の救済[大林賢太郎(京都芸術大学)]★『地域歴史文化のまもりかた』全文公開

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第6章
美術資料の救済

大林賢太郎(京都芸術大学)

はじめに
「美術品」とは、書画、彫刻、工芸品等のなかで芸術的な評価を得たもの、言い換えれば一定の商品的価値を持つものを指すことになるが、その定義はもともと厳密なものではない。たしかに文化財として公的に認められたものはわかりやすいが、それだけを残していければよいということでもない。未指定の文化遺産でも、所有者の思いのこもったものを伝承するなかで、歴史的な価値や美術工芸としての評価が付与されていく事例もある。また、版画や写真などの複製可能なもののなかでも美術品として高く評価されているものもある。被災時にそれを基準に仕訳(トリアージ)することは現実的にも難しいので、美術品たり得るものとして「美術資料」と呼称して曖昧にひとくくりにして述べていくこととする(美術資料という用語は、作品の制作背景や来歴などを伝える「作品とは別の紙資料など」を指す場合もあるが、本章では制作物そのものを指す用語としてあえてこれを使用する)。

また、本章では、こうした美術資料のなかで、装潢文化財を中心に取り上げる。彫刻、工芸品、あるいは絵画でも油画等の洋画に関しては、素材・構造も違うので、将来的にそれぞれの専門家の稿を待ちたいと思う。

1.日本の書画の素材構造
1.1. 装丁のある書画(装潢文化財)

装潢文化財は指定・未指定を限らない用語で、原理的には装丁をともなった書画を指す。つまり絹・紙に書画が書(描)かれたものが作品の実体(=本紙と呼ぶ)であるが、それを補強するために裏打ちが施され、用途に応じた道具としての形態、つまり間仕切りの形として屛風や襖や衝立、読むための形として巻子や冊子、鑑賞するための形として掛軸や画帖や額に仕立てられる。これらの形態においては、本紙は装丁(裏打ちやそれぞれのパーツ)と糊付けされて一体化していることが最大の特徴と言える。言い換えると、この形の作品の本格修理では、本紙を装丁から分離して本紙修理を行った後、裏打ちを行ってそれぞれの装丁の形に仕立ててはじめて修理が完了する。長く伝承されてきた書画の場合、修理は何度も繰り返されて今に至っているはずだが、装丁は修理の際に新調改装されて元のものが伝わっていないことが圧倒的に多い。装丁は本紙を引き立てる衣裳のようなものと考えられており、古くなって汚くなれば着替える、つまり新調することが当たり前で、装丁自体を修理までして再使用することは稀であった。これこそが日本における書画の伝承の特徴的なあり方である。美術資料では、未表装のものも含まれることがある。

1.2. 本紙修理
本紙の基底材は絹もしくは紙で、数の上では圧倒的に紙が多いが、作品としての格は絹の方が高い。この基底材の上に書であれば墨で、絵画であれば絵具で表現がなされている。基底材と色材(墨や絵具)は基本的に何らかの接着剤で固定されており、その接着力が維持されることが必須である。本紙修理の目的は、基底材の平面性を維持し、表現である色材と基底材の接着力を維持し、表現(墨や絵具の色や質感など)を明瞭に読み取れるように表面の異物を除去したりすることである。基底材の平面性を維持するためには欠失部に補填を行って1枚のシートの状態に戻すことも必要であるし、基底材だけで形を維持できない場合は裏打ちによる補強が必須になる。絵具の接着強度を確実なものにするためには剝落止めが必要であり、色を明瞭にするためには汚れやシミを除去軽減させるクリーニングが欠かせない。

1.3. 装丁仕立て
本紙修理の後、裏打ちから装丁の組み立て工程とするが、絹本の場合などでは裏打ちを打ち替える(=旧裏打紙を除去して新しい裏打紙で打ち直す)ことが、修理のなかで最も重要な工程で、特に最初の裏打ち、つまり本紙に直接接着する肌裏打ちを本紙修理に含める考え方もある。その後、それぞれの形態に組み立てるが、形態による差が大きいので、代表例として掛軸と屛風の構造と工程を示す[図1・2]。

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これらは一般的な工程を順番に並べたもので、作品の素材や劣化状態などによっては画面に表打ちをして肌裏紙を除去する「乾式肌上げ法」が採用されるとさらに工程が増えたり、順番が入れ替わったりする。また、剝落止めは絵具の状態などによっては修理前半に行うだけでなく水を使った作業の後で再度行うこともある。修理中、修理後においても記録を取ったり写真撮影を行ったりするがここでは省略している。

いずれの形態でも装丁仕立てに関しては専門家でない限り、たとえマニュアル等があってもハードルが高いのは明白である。ましてや、本紙修理においては、素材・構造を把握した上で、その劣化・損傷の程度を見極めて適切な処置(修理)を行うことは、経験の積み重ね抜きで行えるとは思えない。さらには文化財レベルでの長期保存を達成するには、装丁仕立ての専門家である表装技術者のなかでも文化財修理の原理原則にのっとった修理仕様を設計、施工できる業者/技術者によるしかないのが現状であるが、その数は限られている。こうした専門家が、被災時のレスキュー、応急処置、本格修理まで関わることができれば理想的であるが、こうした知識経験を持ち、技術をもった専門家は、日本ではそのほとんどが民間組織/人であることも含めて、災害時から現場に投入することはかなり難しいと言える。だからといって、後回しにすればするほど、美術品としての評価を得る可能性を保持したまま伝承できる可能性は限りなくゼロに近づいてしまう。本章では、それを回避するために、被災時に現場でするべきこと、できることを検討していく。

2.美術資料の被災
修理技術者の立場からいうと、被災の種類が違っても、本紙の状態、劣化損傷の種類と程度が重要であるが、本章ではまず被災の種類ごとの特徴的な劣化、損傷を挙げていくことにする。

2.1. 地震災害
地震による被災では、主に高所からの落下や建造物倒壊による圧潰等を原因とする物理的な劣化・損傷が想定される。本紙の突き傷、断裂、欠失、擦れ、さらには装丁構造(掛軸、屛風、襖等)の破損が主なものである。しかしながら、地震による被害は被災時のものにとどまらない。被災したことでインフラが失われて温湿度管理ができなくなってカビなどの生物被害が発生したり、建造物が被害を受けた場合は雨漏りや貯水タンクの水漏れによる水損が発生したりすることも少なくない。

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写真1 突き傷・擦り傷(大船渡市C家襖)

2.2. 洪水、津波(高潮)、土砂災害
こうした災害による劣化・損傷は水損の一部としてまとめられるが、雨漏りや水漏れとは違って、美術資料そのものが、建物ごと流されたり、あるいは屋外に流されたりして行方不明となり消失してしまうこともある。また、日本の書画は紙や絹が基底材であり、色材の固着剤のほとんどが水溶性の接着剤であること、装丁(裏打ちを含む)の多くの部分が水溶性の小麦澱粉糊で接着することで仕立てられていることなどから、水への浸漬は大きなダメージを与える。しかも、それが長時間にわたることでダメージがより拡大していく。絵具層の剝離剝落が進行し、基底材が紙の場合は水素結合が解除されたりして脆弱化する。掛軸が巻いた状態で水損を受けると画面と総裏紙が貼り付き、絵具層の一部が総裏に付着してしまうことがある[写真2]。絵具層だけでなく本紙料紙自体が総裏に付着して画面が欠失してしまうこともある[写真3]。屛風の場合でも畳んだ状態で水損を受けると画面同士が貼り付くこともある。

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写真2-2_絵具総裏へ長明寺08-03裏.jpg
写真2 絵具層の一部の総裏への貼り付き(⻑野市⻑明寺)[掛軸の裏側(総裏紙)に絵具が付着している。当然、画面側に残っている絵具も膠着力が低下しているので、剝離剝落する恐れがある。]

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写真3 本紙料紙の一部の総裏への貼り付き(⻑野市⻑明寺)[掛軸の裏側(総裏紙)に本紙料紙が貼り付いている。]

水損といっても単なる水であることは稀で、雨漏りの場合でも屋根から被災資料に伝わる経路にあるさまざまな異物を溶かして含んだ汚水であり、洪水や津波や土砂災害では言うまでもなく周囲の環境にあるさまざまなものが溶け混じった汚水である。また、被災資料にかかった水が純粋な水であったとしても、作品自体の表面や内部に存在する埃等の異物や劣化生成物等が溶け出して汚水となる。こうした汚水によって、画面に汚れが固着[写真4]したり、汚水の色のシミとなったり、不均等に乾燥した場合には乾燥の瞬間の境界線で際付いたり[写真5]する。

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写真4-1 汚れ(泥)固着(大船渡市S家掛軸まくり)

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写真4-2 断裂・欠失(大船渡市S家掛軸まくり)[巻いた状態で津波で被災し、泥が付着した状態で⻑期間経過した。その部分の料紙が腐朽したことで断裂、欠失が生じており、クリーニングを行っても完全には除去できない。]

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写真5 シミ(際付き)(大船渡市C家襖)[海水を吸い上げ、乾燥する境目で汚れが定着するため濃い色になり輪染み(際付き)が生じる。]

美術資料を汚損するのは、外からの汚水が原因とは限らない。美術資料自体に水に弱い色材などが使われている場合は、水に濡れることで表現以外の場所に移動すると、もともとが本紙の構成要素であっても視覚的な損傷となる。例えば染料系の絵具が使われていたり[写真6]、水性のインクで文字が書かれていたり、掛軸の表装裂を染めた染料の定着ができていなかった場合[写真7]等も本紙の他の部分を視覚的に損傷させる。

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写真6 染料系絵具の滲み(大船渡市S家浮世絵)[明治期の浮世絵で使用された洋紅や合成染料のなかには水に弱いものが多く、重ねて保管されていたために水濡によって移動して汚損を拡げた。]

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写真7 表装裂の染料移動(長野市⻑明寺)[掛軸が巻いた状態で保管されていたが、表装裂(中廻)の紫色の染料が洪水による水濡れによって内側2周目の途中まで移動して本紙を汚損している。]

水損はほとんどの場合、被災後にさらに生物被害を生じる。最も普遍的なものがカビによる被害である。それは、単に見栄えが悪くなるだけでなく、菌糸の成長によって色材層や基底材の物質そのものが破壊されたり、成長する過程で別の濃い色素を産生[写真8]して視覚的な損傷を与えたりする。また、浸漬時間が長くなると、菌糸が密集してできる菌核が形成され、基底材自体を破壊して発芽することもある[写真9]。

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写真8 色素産生カビによる着色(大船渡市S家巻子)

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海水に浸漬した場合は、別の形の劣化を引き起こす。塩水も周囲の環境が一定湿度以下になると水分が蒸発して乾燥するが、塩分は基底材中に残る。塩分は環境湿度が一定以上に達した時点で潮解(物質が水蒸気を取り込んで自発的に水溶液となる現象)を生じるため、乾燥していても、降雨などで高湿度になると直接水がかからなくても濡れた状態に近づく。これを繰り返していくと、結果的に濡れた状態の時間が長くなるので、劣化も進むと考えられる。また、このように塩分が潮解と乾燥を繰り返すうちに一箇所に集中して結晶の塊のようなものを形成する事例[写真10]もあり、そういう意味でも塩分の除去が必要である。

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2.3. 火災
火災による災害では、焼損によって焼失してしまうことが多いが、幸いに焼け残る場合もある。基底材の紙は高熱によって炭化する[写真11]が、経年で黒ずんだ銀は逆に還元されて制作当初の白色に戻る場合もある。また、火災による被災時には消火活動で水を被る場合があり、高温の影響を受けていない場合は水損と何ら変わらない場合もあり得る。また、近年では消火剤もさまざまなものが使われているが、化学消火剤による美術資料への影響などについては、不明である部分もあると思われる。

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3.被災時の安定化処置
上述したように、装丁を伴った書画が被災した場合、本来の伝承できる形=表装仕立てまでを完了するには相応の修復期間が必要で、被災直後に短期間で行えるものではない。また、解体すること自体、その美術資料の本紙の素材構造や状態、装丁の構造などを理解した上で行う必要があり、やはり専門家の関与がなければ難しい。そういう意味で、当初から専門家が関われるかどうかが一番の問題である。関われる場合はその専門家が修理完了までの全体の行程を考え、その場ではどこまでの処置をするのかを判断することが望ましい。そうではない場合は、専門家による修理が行われるまでの間、安定した状態を保つことを目標とすると考えるべきである。とはいえ、資料の種類や素材構造、被災の種類や程度、状態によって千差万別である。被災現場では難しいとはいえ、その最初のタイミングから専門家のアドバイスを求めることが、修理後の仕上がりに直結し、伝承していくべき価値を残せるかどうかにも関わってくる。

安定化処置は、被災現場でのレスキュー活動から始まる。

3.1. 現状把握(被災現場での判断)
被災現場において、判断しなければならないのは、まずレスキュー対象かどうかからである。美術品として残すかどうか=レスキューして移動するかどうかを(できれば所有者に確認を取って)判断する。安定化処置が必要かどうかもこの時点で判断し、必要なら、処置ができる場所への移動を前提にレスキューを行う。安定化処置が必要なタイミング(至急か、後でもよいのか)の判断も、移動先等の決定を左右する場合がある。もう一つ重要なのは、そのまま移動することができる状態かどうかという判断である。その上でレスキューを行って、一時保管場所での保管方法について指示を行い、早急に処置が必要なら作業者への指示、あるいは専門家への打診などを行う必要がある。

3.2.保管処置方針の確認(一時保管場所/処置作業場での調査と処置)
レスキューしたものを一時保管場所に運んでも、そこでどのように保管するのか、どういった処置がどの段階で必要かを改めて確認する必要がある。この時点で専門家に直接見てもらえるとよいが、それが難しい場合は、専門家に相談するための情報を集めなくてはならない。必要最小限の情報の例を以下に整理しておく。

・被災資料の状態
まず、全体としてどういう状況かということを本紙だけでなく装丁も含めて把握する必要がある。物理的損傷を生じているのか、浸水被害を受けたのか(濡れた状態のままか、すでに乾いているのか)。現状で持ち上げたり移動できたりする状況か。また、美術資料では保存箱に入っていたり、包材で包まれていたりするので、それが機能しているか、却って本紙にダメージを与えているかなどについても確認する。その上で、以下の重要な項目を確認する。

・カビによる被害[写真8]
コロニーが生じていたり、色素を産生していたりすれば肉眼で観察できる。美術資料の場合、基底材自体や接着剤等、カビの生育に必要な養分が存在するので一定の温度で湿度が上がれば必ず発生し、特に浸水した場合はそれが真水でも海水でも乾燥する段階で発生する可能性が高い。カビによる被害は視覚的なものだけでなく物理的にも基底材や接着剤の強度低下を起こすので、これ以上繁殖させないためにも殺菌処置が必要である。ただし、菌自体はどこにでも存在し、処置後にも発生する可能性が高い。処置をすれば終わりではなく、その後の保管環境も同時に考慮する必要がある。

・劣化を促進する(可能性のある)物質の付着、含浸
被災時に本紙(基底材や絵具層)の表面に異物が付着する場合や、含浸して内部で定着する場合がある。特に浸水による含浸では、先述したようにさまざまな有機物、無機物が本紙中に残されることになり、ゆくゆくは劣化を促進する可能性が高い。安定化処置で最も必要な処置は洗浄作業であるといっても過言ではない。塩分の除去は金属素材の場合は必須であるが、紙の場合でも条件次第では劣化させることがわかったので、水洗による除去は必須である[写真11]。

・絵具層の劣化損傷
顔料は膠などの固着剤で基底材(紙や絹、木等)に接着された構造であるが、軸装(掛軸や巻子)屛風などで向かい側に貼り付いていたり、移動したりしていれば比較的容易に肉眼観察で確認できるが、単純に強度が低下しただけではわかり難い場合もある。特に浸水した場合、時間が長ければ固着剤の接着力が低下し、乾燥後見た目は同じでも少しの物理的な力が加わっただけで剝離剝落する可能性が大きくなる。こうした場合は触診などが必要であるが、経験がなければ難しい。その上で、処置方法を選択するが、これは、その後の本格修理とも深く関係するので、専門家からの指示を受けることが望ましい。染料系の色材(インク等も含む)は浸水すると滲む可能性が高いが、横だけでなく裏側や接している別の紙やものにも移動することがある。これは肉眼で確認できる[写真6]。

・基底材の劣化損傷
被災によって物理的な損傷を受けた場合は視覚的にわかり易いが、強度低下等の劣化については見ただけではわかりづらい。触診による判断が可能な場合もあるが、いずれにしても経験に依存するといってもよい。

・装丁の劣化損傷
装丁は破損している場合は取り替えることを前提としてよい。ただ、この段階で、考える必要があるのは、この装丁の存在によって本紙がダメージを受ける可能性がある場合である。何の処置もせずに保管できるケースではさほど問題にならなくとも、安定化処置で水洗などの処置をする際に邪魔になる場合もある。例えば表装裂に使われている染料が水で動く場合は先に外しておく必要がある[写真7]。あるいは、異物の除去をする場合やカビの処置をする場合でも、裏打紙があると完全に除去をすることが難しくなったり、時間が掛かったりする可能性がある。そういった場合は、トータルでの本紙強度を勘案して必要に応じて裏打紙を除去しておく方がよい。

美術資料の種類によっては、あるいは被災の種別によっては、これ以外の劣化・損傷が生じていることもあるが、当然、個別に見極め対応する必要がある。

3.3. 安定化処置の考え方
美術資料の場合は、最終的には専門の修理工房に搬入して本格修理を行わなければ、美術資料として伝承することにはならない。ここでいう安定化処置は、本格処置までの間、現状を維持し、劣化の進行を止めたり、遅らせたりする目的で行われる。あるいは、時期が未定の本格修理を待って処置するより、今処置をする方がより高い効果が見込める場合の処置と言える。当然、それぞれの本紙の素材構造や装丁の状態、劣化損傷の程度、被災後の経過時間などに応じて違ってくるが、書画などの美術資料の場合は、劣化の進行を抑制するために何をすべきかというだけでなく、表現をいかに維持するかということも考える必要がある。

物理的な損傷のみの場合は、保管環境が必要十分な条件を満たしていれば、触らずに梱包するなどしてそのまま置いておくことが可能な場合もある。

浸水被害を受けた場合は乾燥させることが、劣化の進行を止め、カビの繁殖を防ぐために必要な処置ではあるが、美術資料の場合は、基底材の上に膠によって接着された絵具層があり、多種の素材が澱粉糊によって貼り合わされた構造の装丁を伴っていることが多い。こういう構成であるがゆえに、ただ乾かせばよいというわけではない。形態や構造を壊さないように乾燥させる必要があるが、それこそがきわめて難しい。

また、洪水、津波、あるいはその他の自然災害による水損の場合は、基本的に多くの水溶性、非水溶性の異物が含まれており、それらを本紙の中外に残しておくと劣化を加速する可能性が高い。特に冷凍保管でもしない限りはカビによる被害を免れ得ない。従って、できる限りそれらを除去しておくことが本格修理を待つ前提としても必要である。装丁(表装)は本紙を支える構造となっている一方で、劣化を促進する可能性のある異物が残った状態で本紙に接しているため、水洗作業をより難しくする場合が多い。また、裏打紙は本紙と一体になっていることで、裏打紙を含めた厚さの紙を水洗乾燥させるのと同じことになり、より多くの水を使ってより時間の掛かる作業となり、本紙に掛かる負担も増える。そういう意味においては、装丁を取り外して本紙だけにすることも、安定化処置の一環として有効である。

浸水した冊子などの資料を乾燥させる方法として真空凍結乾燥がある。水洗して濡れたままの資料を凍結させて真空中で乾燥させることで、ページ同士が水素結合で貼り付くことを防ぐことができる。一方で、澱粉糊などの接着が解除されるため、美術資料でこの方法を採用できるのは、限られた条件の場合だけで、特に絵具が使われていない場合に限られる。しかし、被災時にはカビの被害を食い止めるためにどうしてもせざるを得ない場合もあり得る。

そして、美術資料としての表現を維持するには基底材と絵具層の構造が維持されていなくてはならない。しかしながら、水洗などの処置に耐えうるか、あるいはそういった処置を行った後の強度が十分かは、よほど低下していなければ専門家でも難しい。とはいえ、この判断を怠ると、美術資料として残したことにはならなくなる可能性がある。絵具の固着力を上げる剥落止め処置も専門家が行う方が確実であるが、どうしても難しい場合は養生紙を貼り付ける処置が可能な場合もある。いずれにしてもこの部分は専門家の指示に従って行うことが望ましい。

安定化処置の先には、できるだけ早い時期に本格的な修理が行われるのが望ましい。被災時には複数の、というより大量の美術資料が現出するので、それを一気に修理すると言うことは現実的には不可能である。被災後時間をある程度経て冷静に考えることができるようになってから、被災によって減じた美術的な価値と伝承してきたことの意味などを天秤に掛け、さらには費用のことも含めて、修理の優先順位を決めて行っていくことが望ましい。

4.安定化処置事例(大船渡市C家の襖)
4.1. 初動調査

現地での調査は被災後2カ月たった5月6日に実施できた。当日、襖の損傷状態を確認するなかで本紙が濡れた状態であることに驚いたが、後にそれは本紙中に残った塩分の潮解現象によるものであると判明する[写真12]。この塩分を除去しない限り、雨が降って湿度が上がるたびに濡れた状態になり、天候が回復すると乾燥することを繰り返すことがわかった。この繰り返しによって劣化が進むことは明らかであり、最低でも塩分を除去する安定化処置が必要であると判断した。安定化処置をどこで行うかを検討したが、現地では襖を処置できる作業台や噴霧器等の器材、吸い取り紙等の資材など必要なものを揃えることは難しいということで移送して処置を行うことにした。

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写真12 現地調査

4.2. レスキュー
襖自体を取り外して移送しようと試みたが、地震の影響で鴨居に上からの荷重がかかり取り外すことができなかったため、急遽、本紙だけを取り外して作業可能な場所に移送することにした。本紙の周囲には無地の台紙が取り付けられてすべての本紙を同サイズに調整した上で、その周囲に表装紙である砂子紙がめぐらされた形であった。この砂子紙のところで本紙をくり抜いて、下貼り層の浮けの層(図2下貼り構造図参照)ごと竹ベラで外すことにした[写真13]。

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写真13 本紙取り外し作業

4.3. 安定化処置
4.3.1. 調査

京都に到着した本紙を、安定化処置の方針を定めるためにさらに調査した。

・本紙の状態
本紙の一部は被災時に津波で流されてきた何かがぶつかって破れた箇所がある。また、下部1/3程度まで津波による汚水に浸水したことでその境目にかなり濃い茶色の際付きが生じており、鑑賞を著しく妨げている。詳細に観察してみると、本紙の周囲の金砂子の表装紙に近い部分では緑色の変色が認められた。これは金砂子の素材が本物の金箔ではなく、真鍮箔であったことで、それが濡れたことによって緑青サビが生じたものと分かった。

京都へ移送して安定化処置を行うことにしたのは、津波による汚水に含まれる塩分が本紙中に残っているからである。環境の湿度が上がると潮解して再度濡れた状態になってしまい、乾燥と濡れを繰り返すことで、物理的な劣化が進んだり、カビによる被害が生じたりする恐れがある。それを止めておかなければ修理までの間、安定した状態を維持できないからであった。言い換えると、処置として最重要なのは水洗処置であり、基本的には本紙がそれに耐えうるかを検討する事が必要であった。

色材である墨に関しては特に被害にあっても滲んだり転写したりして動いている痕跡はなかった。紙に関しては、江戸時代の文人(儒学者)の書に多い、竹紙か宣紙(実際は竹紙)であると思われたが、襖という装丁の宿命的な特徴である常に外気に曝され光が当たる条件から、紙の表面はすでに劣化が進んでいた。

・装丁
移動時に本紙部分をくり抜いて取り外したが、周囲には真鍮砂子の表装紙の一部が接がれた状態である。本紙の裏に裏打ちが何層あるのかについては解体してみなければわからないものの、欠失箇所が旧修理ですでに繕われていたり、断裂(亀裂)箇所が接がれていたりすることから旧修理で少なくとも裏打ちが1層は施されていることはわかった。また、現地で取り外す際に竹ベラで外すことができたことから下貼り層の浮けの層が本紙側に1層残っている。つまり、最低でも2層の本紙以外の紙層があることがわかっている。

・旧修理
欠失箇所の一部では旧修理で補紙(繕い)が施されているが、簀目の方向が本紙と一致していないために視覚的な違和感を感じさせる箇所もあった。

4.3.2.処置方針決定
調査の結果を踏まえて安定化処置の方針を立てた。

最優先事項は、塩分の除去であり、水洗処置である。一般的な装潢文化財の作品の修理の際の水洗処置と同じ方法、つまり10枚程度重ねた吸取紙の上に本紙を置き、画面側から浄水(金属イオンや異物を除去した濾過水)を噴霧して、重力と紙の毛細管現象を使って下の吸取紙に吸収させることで、本紙上や中に含まれる異物を溶かしだしたり(水溶性の物質の場合)移動させたり(繊維の隙間を通り抜けるほど小さな非水溶性物質の場合)して除去する方法である。その処置を行う上で本紙に与える負担を最小に減らし、効果を最大とするために何をしなくてはならないのかを検討した。

・本紙以外のものを除去するかどうかの検討
まず、前項で挙げたように、真鍮箔砂子の表装紙は水洗(乾燥)時に本紙にサビ由来の緑青色の変色物質が移動する可能性があるので、事前に除去が必要である。また、本紙以外にも2層の下貼り紙(浮け紙)や裏打紙があると、その中に含まれる塩分も含めて除去しなくてはならなくなるため、必要以上に洗浄水の量を増やす必要があり、処置時間も長くなることから本紙への負担が過剰にかかる恐れがある。これらも除去しておく方が良いと判断した。もともと大きさの違う本紙のサイズを揃えるために周囲に台紙(足し紙)が浸けられていたが、よほど傷んでいる場合を除いて、そこまでを本紙と定義して取り外さず処置を行うことにした。

・本紙が水洗に耐え得るかの検討
本紙の表現が墨書であり、墨以外には落款の朱が表現の主体である。これらは水に対してある程度の耐性があることが知られているが、パッチテスト(濡れた吸取紙の小片を置いて移動しないかを確認するテスト)を行って移動しないことを確かめた。

4.4. 安定化処置
4.4.1. 表装紙除去

本紙の周囲に残っている表装紙は継目に少量の水を与えて接着剤である糊を緩めて除去した。

4.4.2. 旧下貼り紙(浮け紙)、旧裏打紙除去
旧浮け紙は作業台の上で裏側を上に向けて置き、浄水を噴霧して除去を行った[写真14]。旧裏打ち紙も同様にして除去を行った。除去を始めたところ、裏打紙は2層あることがわかった。本紙が短い繊維の紙ですでにかなり劣化(強度低下)していること、亀裂部は裏打紙があることでつながっていること、欠失部には補紙が施されて1層目の裏打紙(肌裏紙)がそれを支える形であることから、この肌裏紙の除去は非常に困難であると感じた。この肌裏紙を除去するためには、その場で欠失部の旧補紙を除去して新しい補紙を補填し、新しい肌裏紙を打つ(接着する)、つまり本格修理を行う必要があることになるので、この1層目の裏打紙(肌裏紙)は残して水洗処置を行うという判断をした。

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写真14 裏打紙除去作業

4.4.3. 水洗処置
肌裏紙だけを残した本紙を重ねた吸取紙の上に置いて浄水を噴霧して水洗処置を行った[写真15]。津波による塩水を含んだ部分はなかなか水が浸透しなかったが、時間をかけると徐々に浸透し、噴霧を数回繰り返しては本紙の直下の吸取紙に含まれる水の塩分の濃度を計測し、ほぼゼロなったところで水洗を終了した[写真16]。
この水洗で浸水した部分との境目に生じていた茶色の際付きもかなり軽減されほとんど気にならなくなった。

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写真15 水洗処置[本紙に負担を掛けないように、上から浄水を噴霧して含浸させ、下に敷いた吸い取り紙に吸収させて除去した。]

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写真16 塩分濃度測定[塩分が除去できたかどうか、表層の吸取紙に含まれている塩分濃度を測定して判断した。]

4.4.4. 乾燥
水洗が完了した本紙を毛布の上に置いて自然乾燥させた。裏打紙を残した状態でもあり、本紙がしっかりしていたことから、乾燥による暴れはほとんどなかった。

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写真17 乾燥[急激に乾燥させると輪染みなどが生じるので、毛布の上でゆっくり全体的に乾燥させた。]

4.4.5. 保管
乾燥後は、色材が剝落する恐れもないことから本紙を重ねて巻いて保管した。

以上が、被災後2011年度に行った安定化処置に至る経緯と処置内容である。こういった処置は現地でも条件が揃えばできないことはないと思う反面、やはり設備が整っている慣れた環境で状態を確認しながら処置する方が格段に安心できると感じた。特に、この事例では対象が墨書であったが、もし絵具(色材)による表現のある美術資料に対して現地で処置を行う必要があったらどうしただろうと考える。
(本美術資料に関しては、その後2014年度に、京都造形芸術大学の特別研究費や東北大学災害科学国際研究所、特定非営利活動法人文化財保存支援機構からの援助もあり、最終的な修理まで行うことができた ➡︎コラム参照)。

おわりに
最初に現状の課題について考えてみたい。こうした美術資料を修理(処置)できるのは現代では工房などにいる技術者以外には、数える程しかいない。被災時にこうした民間の専門家に関わってもらえるような仕組みを整えたり、専門家と協議を行える知識と経験を持ち、場合によっては応急処置を行える人材を養成したりすることが必要だと感じる。本格的な修理は無理でも、応急的な安定処置を担える人材はいずれにしても必要であろう。とはいえ、すぐには解決できそうもないので、当面は、専門家を紹介してくれる窓口に頼ることになるだろう。現在、独立行政法人国立文化財機構のなかに文化財防災センターができてそういった相談もできるが、文化財としての対応となる。民間では歴史資料ネットワーク(史料ネット)でも対応はしているが、美術資料に関してはNPO文化財保存支援機構の方が直接専門家が対応してくれる。それ以外にも文化財保存修復学会にも専門家が所属しており紹介してもらうことが可能である。

最後に、筆者がいくつかの被災資料の修理(処置)に携わって感じたことを述べて締めくくりたい。被災した美術資料の修理では、実際には被災したことによる損傷というより、長年放置された経年による劣化損傷に対する処置の比重が大きいことが多いと感じる。つまり、修理が必要な段階に至っていたのに放置されていたのが、被災がきっかけで修理が始められたという皮肉な現実に直面するのである。たしかに、被災した際の処置や修理について考え、備えておくことが重要なのは当然であるが、こうした美術資料(未指定の美術品)の場合は、美術的な価値を維持することが重要であり、メンテナンスを行いながら、日常的に守っていくにはどうしたらよいかということが根底にあるのではないだろうか。

参考文献
・ 津波により被災した文化財の保存修復技術の構築と専門機関の連携に関するプロジェクト実行委員会・赤沼英男・鈴木まほろ編『安定化処理 〜大津波被災文化財保存修復技術連携プロジェクト〜』(津波により被災した文化財の保存修復技術の構築と専門機関の連携に関するプロジェクト実行委員会・日本博物館協会・ICOM日本委員会、2018年(増補版))
・ 動産文化財救出マニュアル編集委員会『動産文化財救出マニュアル 思い出の品から美術工芸品まで』(クバプロ、2012年)
・ 大津波被災資料連携プロジェクト安定化処置(動画)
https://www.j-muse.or.jp/06others/stabilization.php (2024年1月23日最終閲覧)

COLUMN 本格修理

安定化処置から3年後に予算が付いたことで、本格修理を行うことができた。

安定化処置の際に判断したように、旧肌裏紙を本紙に負担を与えずに除去することは難しいことを再度確認した。旧肌裏紙も本紙の一部として残し、旧補紙は紙の向きが斜めになっていたりして違和感を生じていたため、すべて除去して本紙に似寄りの補修紙で新しく補填し、さらに2層目の裏打ちを施した。下地骨は歪みもなくしっかりしていたため元のものを使用し、6種8層の下貼りを新たに施して本紙を貼り込んだ。表装紙(台紙)には真鍮箔砂子が使用されており、それが水損したことで青い銅サビの色が本紙を汚損していたため、本金砂子の表装紙を新調した。引手は元のものを使い、縁木は黒漆塗縁木を新調して仕立てた。現地で敷居、鴨居、柱の傾き等に合わせて調整して納めた。

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