茅原 健『文士村散策 新宿・大久保いまむかし』より、「島崎藤村が『破戒』を書いた西大久保の家」を公開
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茅原 健『文士村散策 新宿・大久保いまむかし』(文学通信)
ISBN978-4-86766-016-4 C0095
四六判・並製・288頁
定価:本体2,200円(税別)
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島崎藤村が『破戒』を書いた西大久保の家
新宿に荷馬並ぶや夕時雨 正岡子規
明治三八年五月、小諸の小諸義塾を辞めて上京した島崎藤村は、西大久保一-四五〇番地に居を構えた。この家は、三宅克己の紹介であった。三宅は「確かこの頃、信州小諸の島崎藤村さんも東京に出てこられたのであったが、私が大久保の静かな植木屋の地内の新築家屋を発見して御知らせして、そこに住まわれることになったが」(『思い出づるまま』)と言っている。ここで藤村は、自然主義文学の先駆といわれる『破戒』を完成させた。その西大久保の家を決めたときのことを、作品「芽生」(『中央公論』明治四二・一〇)で次のように書いている。
郊外は開け始める頃であつた。そここゝの樹木の間には、新しい家屋が光つて見へた。一軒、西大久保の植木屋の地内に、往來に沿ふて新築中の平屋があつたが、それが私の眼に着いた。まだ壁の下塗りもしてない位で、大工が入つて働いて居る最中。三人の子供をつれてこゝで仕事をするとしては、あまりにも狭過ぎるとは思つたが、いかにも周圍まはりが氣に入つた。
早稲田大学の学生だった水野葉舟が、蒲原有明とともに西大久保の島崎藤村の家を訪ねている。その時の様子が「藤村覚書」(『明治文学の潮流』)で書かれてあるが、それは別稿の「オホクボ村に住んだ水野葉舟」のところで述べるとして、蒲原有明が思い出として、西大久保の藤村の家について書いたという文章を引用しているので孫引きになるが左記に紹介しておく。
家は極く普通の四室ぐらゐのささやかであつたが、書齋と言はるべき一室が主人公の意匠の加はつたもので、まづ類のないものであつた。素より月並みな文化的装飾のあらうはずもなく、ただオリーブ色に染めさせた木綿の壁かけのやうなものが自慢であつたものの、大體部屋を地床におとしてあつたのがめづらしいのである。それで他室からは一尺も下がつてゐたので、そこに座つてゐると穴倉めいて、書斎といふよりも仕事場といふかたちであつた。
藤村のつましい生活が思い浮かばれる。そういえば、後年の話になるが、詩人でフランス文学者の平野威馬雄が上智大学の学生だった頃、文学研究会を立ち上げようと、菅忠雄や熊田精幸らと語らって、先ずは、研究会創設記念に文芸講話会でも開催しようと当時の文壇で名を馳せていた作家のところへ依頼に出向いたのである。
まず初めに有島武郎のところへ行った。有島は快諾してくれて、お土産に「岩野泡鳴全集」をくれた。その次に、島崎藤村のところへ行った。そしたら「慇懃無礼、ケンモホロロ...玄関にきちんと座って、両手をひざの上にのせ、呉服屋の番頭みたいにていねいにおじぎして(もちろん和服で、たしかまえかけをかけていた)『私はそういうことは一切いたしません』」と断られたという(『アウトロウ半歴史』「話の特集」)。この話、伝え聞く「島崎藤村」の抑制された質素な立居振る舞いが表白されていて面白い。
さて、藤村が気に入った西大久保周辺の情景については、同じく「芽生」で次のように描いている。文中「角筈に住む水彩画家」は、三宅克己のことである。
郊外には、旧い大久保のまだ澤山殘つて居る頃であつた。仕事に疲れると、よく私は家を飛び出して、そこいらへ氣息を吐きに行つた。大久保全村が私には大きな花園のような思をさせた。激しい氣候を相手にする山の上の農夫に比べると、斯の空の明るい、土地の平坦な、柔い雨の降るところで働くことの出來る人々は、ある一種の園丁のやうに私の眼に映つた。角筈に住む水彩畫家の風景畫に私は到る處で出逢つた。
右に引いた藤村の文章では「郊外」という言葉を頭に振って、その頃の風景を描いているのが注目される。その藤村の家は鬼王神社の側であった。現在、都営大江戸線の東新宿駅の出口に近い職安通りに面した歩道の端に、「島崎藤村旧居跡」の烏帽子型の碑が建っている。それと探してゆかないと、四囲を柵で囲まれた碑の前に自転車やオートバイが置いてあって、見過ごすほどの小振りな碑である。その道を百人町の方にしばらく行くと、西大久保の家で失った藤村の子供たち、縫、孝、緑が葬られている曹洞宗の長光寺がある。藤村にとっては、西大久保の生活は恵まれず、一年半ほどで浅草の新片町の方に転居した。
文学散歩の野田宇太郎が、藤村旧居を訪ね長光寺に詣でている。妻と三人の子ども達が眠る墓域に立った野田の背筋に、冷たいものがさっと流れるような、慄然たる思いに誘われたという(「藤村遺跡」『東京ハイカラ散歩』ランティエ叢書)。
病名は夫々まことしやかに記されてはいるが、何れも栄養不良と手当不十分から来る死であるに違いない。親として愛児にこうした死に方をされるのは、責任上耐え難いものがあったろう。藤村は「破戒」によってようやく作家生活の目安も出来、やがて悲しい自己の痛みをかくすためにも、去り難い西大久保の地を後に大川端の情緒をでも求める閑人のように新片に逃げ得たとしても、今度は三児への詫びでもするように愛妻冬子に逝かれた藤村の心は断腸という言葉そのものではなかったろうか。
正宗白鳥が樋口一葉の死を「小説人物としては読者の詩的涙を誘うのであるが、当人にとっては陰惨至極だ」と貧しさゆえの早世に思いを馳せて、「明治の文学者は概して貧乏であった」(『文壇五十年』河出書房)と呟やく。そのように「破戒」を印行する自費出版の費用を妻冬子が函館の実家まで工面に出かけるほど、藤村のこの頃の生活も貧窮のなかにあり、愛児に充分な手が行き届かなかったのである。岡落葉が大久保にいた藤村を偲んだ文章がある。それを少し引いてみよう。ちなみに、落葉が西大久保で書いた長編「家」と言っているが、これは「破戒」の記憶違いだろう。
独歩が独歩社をやめて西大久保に引込んだのは、明治四十年の四月である。大久保にはそれ以前に島崎藤村が住んで居つた。藤村は卅八年に小諸の小諸義塾をやめて上京すると、大久保に住居を定めた。それは鬼王神社の傍で、この家によつて長編「家」は出来たのである。
彼はこゝで恋女房である細君を亡くした。何人目かのお産のあとがいけなかつたので、細君より前に女の子を三人まで亡くし、長光寺に葬つたと年譜に書いてある。だから藤村に取つては大久保は不幸続きの苦い思出の土地であつたらうと思ふ。藤村は卅九年に大久保を去つて、浅草の新片町に引越してしまつた(「明治大正の文士村 大久保」・『明治大正の文士』こつう豆本・91)。
ところで、その岡落葉が「藤村が大久保を去るあたりからあの界隈に文士の住居が多くなった」と言っている。そこで、藤村の家の近くを文学散歩とでもいうのか少し歩いてみよう。藤村の家から鬼王神社の横を通って、少し西に下った左手に当たるところに、「赤い鳥社・鈴木三重吉旧宅跡」があった。童話の創作に高い理想を抱き、有島武郎や芥川龍之介らの童話を生んで、児童文学に大きな足跡を残した鈴木三重吉の「赤い鳥社」は、大正時代は目白近辺を転々と居を移し、西大久保四一〇番地から四六一番地に来たのは、昭和四年一一月だった。しばらく『赤い鳥』は休刊していたが、大久保に来て昭和六年一月に復刊した。昭和一一年六月二七日、大久保の家で、三重吉は死去した。
その他に、破滅型の私小説作家葛西善蔵が、明治四三年一一月に東大久保三〇六の借家に住み、作家で『無限抱擁』の作品があり、折柴と号して俳句を詠んだ瀧井孝作は、大正四年六月、俳誌『海紅』の編集助手として、西大久保の中塚一碧楼の家に住んでいる。このことについては、瓜生敏一著『中塚一碧楼―俳句と恋に賭けた前半生―』(櫻楓社・昭和六一・一)によると以下のように考証している。『一碧楼句抄』巻末の年譜を見ると、「大正三年、伊予松山の出、河東碧梧桐の姻戚神谷たづ子と結婚上京、市外西大久保九十四番地に住む。」とあるが、この年譜には二ヶ所誤りがあるとして、上京したのは大正二年の秋で、結婚後の新居は府下高田村の鬼子母神裏で、市外西大久保九十四番地に転居したのは、大正四年八月。そこに折柴瀧井孝作が同居したと言っている。