茅原 健『文士村散策 新宿・大久保いまむかし』より、「そもそも文士とは」を公開
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茅原 健『文士村散策 新宿・大久保いまむかし』(文学通信)
ISBN978-4-86766-016-4 C0095
四六判・並製・288頁
定価:本体2,200円(税別)
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そもそも文士とは
この本で取り上げる、大久保文士村の「文士」という言葉は、文芸用語としては面目を保ってはいるが、平成、令和の年代の一般用語としては、死語になっているかもしれない。
『広辞苑』(岩波書店)で、「文士」を引くと「文筆を業とする人。特に小説家」とある。そして「三文文士」の用語例が挙げられている。で、「三文文士」を引くと、「つまらない作品しか書けない文士。また、文士の蔑称」と説明してある。「三文」は、はした金のことだ。辞書の説明はこんなものだ。それで、文学事典、たとえば『日本近代文学大事典』(講談社)の「事項欄」に立項されていないかと見たけど、なかった。
そうすると、「文士」の呼称は、明治・大正期、そして昭和初期頃までの小説家をそう呼んだことになる、と理解するしかない。それにしてもなんだかあっけなくて、「文士」という呼び名には何かべつの意味合いはないものかと思いめぐらす。井伏鱒二に『文士の風貌』(福武書店)という一冊がある。登場するのは文壇で一定の地位を保っている作家たちだ。井伏は文中文士の定義などはしていない。森鷗外も夏目漱石も佐藤春夫も志賀直哉もみな文士である。あまり一般的でない、葛西善蔵、小杉天外、嘉村礒多などがいる。彼等も文士だ。ただ、その本の解説を書いている松本武夫が"文士"と表記しているのには、特別な意味合いがあるように思えるが、その意図するところは分からない。
また、文壇資料と銘打った『田端文士村』(近藤富枝・講談社)、『馬込文学地図』(近藤富枝・講談社)、『本郷菊富士ホテル』(近藤富枝・講談社)、『阿佐ヶ谷界隈』(村上護・講談社)などの大正から昭和初期にそれぞれの地域に屯した文士たちの動向をつぶさに跡付けた、それこそ文壇資料をまとめた本が刊行されているが、「文士」の定義については記述がないようだ。それは文士という呼び名が既定の事実として定着していたことによるのかも知れない。「文士劇」という用語もあるが、「文筆家が出演する素人芝居」(『文芸用語の基礎知識』至文堂)と説明されているだけである。
それに、「文士」というと男性名詞だと一人合点していたが、『女文士』(集英社文庫)という林真理子の一冊があった。文壇での名誉欲に取りつかれたという真杉静江の生涯を描いた作品のタイトルに「女文士」としたのは秀抜だが、それによって私小説を書く女性作家の「文士」の正体がはっきりしたとも思えない。また、写真家林忠彦の『文士の時代』(中公文庫)という作家の肖像を撮った写真集がある。川端康成から山本周五郎まで総勢百五人の作家が居並ぶ。貴重な映像で興味ある写真集だが、「文士の時代」とした、それがどういう「文士の時代」だったのか、その中身がこれもはっきりしない。川端などの文豪と言われる作家はすべて「先生」と呼んでいる。「文士の川端康成先生」では撞着語法の感ありだ。それに、女流作家の平林たい子は「さん」と呼び、壷井栄は「先生」となる。であるから、文士詮議はどうにも埒が明かない。いずれにしても、「三文文士」というのが存在感を持った熟語のように思える。その文士たちは、つまらない作品しか書けないのではなく、原稿用紙に向かって悪戦苦闘、書いては消しその原稿用紙を破り捨て、また、ペンを執る。生きることへの自問自答。これぞ文士の姿なのである。
世も合理的な西欧文化が押し寄せて来て、日本古来の着物などの古い文化がそれこそ脱ぎ捨てられた大正期の、思想も大正デモクラシーなるものが浸透し、文士たちも着物から背広へと着替えて足を組み、パイプなどを咥えるようになった時代、その頃、文士は作家となり小説家となったということだろうか。そして昭和になると、大学の教壇に立つ文学者の登場と相成る。
もう一冊、大久保房男の『文士とは』(紅書房)を手に取った。まず、「文士がいなくなって、日本の文学は駄目になったと言われている」と大久保は「まえがき」の冒頭で言う。そして、正宗白鳥の言葉を借りた大久保房男の語る文士を要約すると、次のようになる。
明治の文士たちは着ているものもみすぼらしくて、文学を論じるにも炒り豆を齧りながらやり、論じ疲れると、金がないから、郊外散歩に行こう、と言ってよく出かけた。文士は批評精神が旺盛で、嫉妬心も強く、それに正直だから、思ったことを口にする。ここで肝心なのは、「炒り豆を齧りながら」のフレーズだ。江戸時代の儒学者荻生徂徠が「炒り豆を齧りながら天下の英雄豪傑を罵倒するのが人生最上の快事」と言った故事によるもので、文士は伝統的に反権力であった。そして、論じ疲れると郊外に散歩に出るのだ。
しかもこの文士たちは、「赤貧洗うが如き」生活を余儀なくされた。書いたものがそう高くは売れないからである。一例に過ぎないが、水野葉舟によれば、「生活の報酬を得られる文学は、まず小説に限られてゐた」(『明治文学の潮流』紀元社)から、国木田独歩が詩から散文に文学の処方を変えたのも生活のためであったと言っている。この「売れない」というのが文士の代名詞のように言われる、私小説作家の宿命みたいなものであった。文学の定義の吟味も必要だが、とにかく「文学の鬼」であって、しかも、この貧乏文士たちは浩然の気を喪わず文士気質を堅持した。こういう文士が消えてなくなり、文壇に集う文学者ばかりになって、日本の文学は駄目になった、と大久保は言うのである。その通りかもしれない。それにしても、永井荷風が「文士にして字を知るのは稀なり」(『麻布襍記』中公文庫)と言っているのが面白い。
それに、郊外生活者という視点で文士を語っている文章がある。それは『落合文士村』(目白学園女子短期大学国語国文科研究室・双文社出版)に「序」を寄せた瀬沼茂樹の次のような文章だ。
大正の中葉、まだ十五区制であったころの東京市の郊外には武蔵野の面影が残っていた。その頃落合村(後に町)には国木田独歩の小品を思わせるような櫟林の中に田畑と集落が点在し、長閑な郊外風景が展開していた。文士の多くは市内に住まい、関東震災前後から交通機関の整備するにつれて居宅を郊外に移すものが現れてきた。もちろん、まだ無名の文士、むしろ文学青年にすぎなかった若年の人達は市内の下宿か郊外の借家に住まい、他日の名聲を夢見ていた。落合村に借家または下宿する文士の若き日の姿もまた然りであったというべきであろう。明治の作家たちにたいして、大正昭和の作家は概して郊外生活者であったといっても誤りではないからである。
瀬沼茂樹の大正・昭和の文士の郊外生活はその通りであるだろうが、惜しむらくは、明治期の郊外に住まう引っ越し貧乏の文士までには目が届かなかったようである。文士の詮議はさて措き、明治末期から大正初期の都市に隣接する「街はずれ」の郊外のありようを語りつつ、とかくメダカは群れたがるという批判はあるものの、それでも文士気風を袂に入れた文士たちが、その昔、緑豊かな、空気が清爽な郊外の文士村に屯した日常をこれから描こうというものである。