はじめに★『古文書の科学』全文公開

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はじめに

渋谷綾子

1.古文書と科学―料紙という結節点
本書を手に取ったあなたは、「古文書」「科学」「分析」という言葉に対して、それぞれどのようなイメージをお持ちだろうか。

古文書―博物館や史料館などに行くことの好きな方、行かれた経験のある方は、陳列ケースに収められている、くずし字で書かれた古い手紙や日記などを
思い浮かべるかもしれない。一方の科学と分析、あるいは科学分析。こちらは、白衣を着た人が試験管を持って何かの薬品を使っていたり、顕微鏡をのぞいていたりする姿や、テレビドラマや映画などに出てくる科学者の姿を連想する人がいるかもしれない。

こうした「一般的なイメージ」を並べてみると、古文書という歴史資料の研究と自然科学の分析・研究は、まったく別物で相容れないように思われる。しかし実際、古文書と科学分析は密接に結びついている。その結節点が、本書で取り上げる古文書や古記録類に用いられた紙、すなわち料紙である。

2.料紙研究の新常識を提唱する
黒板勝美が日本における近代歴史学の補助学として提起し(黒板1940)、以来展開した古文書学では、様式や筆跡など古文書のもつ多様な歴史情報に注目した研究が進展してきた。そのなかで料紙研究では、古代・中世期の文書を中心として、材料や抄紙(紙漉き)過程で生じた痕跡などから料紙を分類し、それらの歴史的な意味について議論されてきた。近年では、自然科学や製紙科学、文化財修復などの分野において、多様な顕微鏡を用いた観察によって料紙の構造を分析する手法が積極的に用いられており、歴史学だけでなく自然科学的な視角による研究からも古文書への注目が集まっている。

古文書の自然科学的研究では、古文書のモノとしての側面、すなわち物質的な構造を解明する。顕微鏡を用いて料紙を観察し、厚み、重さ、簀の目(和紙は一様の太さの竹ヒゴが糸で等間隔に結ばれた簀で漉かれ、その痕跡が簀の目として紙に残る)などのさまざまな形態情報の確認、繊維素材の組成、抄紙(紙漉き)過程で配合される添加物(填料)を検討する。料紙のモノとしての特徴を観察してわかったことは、料紙の種類の特定や表裏の識別、墨や朱などの素材の特定、料紙自体の製法や使用方法の解明、装丁技術の復元に役立てられている。本書はこうした自然科学的研究と、人文学的アプローチの成果を総合的に検討することで、古文書研究に新たな可能性を見出そうとするものであり、それは東アジア全体における歴史資料の科学研究へ貢献できる射程を持つものである。

本書は「料紙研究の新常識の提唱」として、古文書研究に自然科学を結びつける入門として、基礎的な情報を紹介していく。

3.本書の読み方
本書は4部構成である。最初から順番に読めるように構成してあるが、それぞれ独立したものとして読むこともできる。

第1部は、古文書研究、日本史研究、異分野連携研究という三つの視点から、料紙が注目されてきたそれぞれの背景と経緯を述べる。

古文書研究では、1930年代から現在まで膨大な料紙研究の成果が蓄積されており、現在の料紙研究へ大きな影響を与えてきた。日本史研究では、文書調査や地域研究の広がりから、地域的な特性を解明する手がかりとして古文書の物質的特徴が注目されている。また近年、文化財科学の分野では、料紙を構成する物質に対する研究が進められており、科学分析の実践例が蓄積されている。それぞれの視点から、なぜ料紙の分析が注目されているのかについて紹介する。

コラムとして、2022年9月6日に開催した富田正弘氏(富山大学名誉教授)、湯山賢一氏(神奈川県立金沢文庫)、大川昭典氏(元高知県立紙産業技術センター)による研究座談会を収めた。料紙分析に対する先輩たちのあゆみを紹介するものである。

第2部は、料紙の科学分析について、繊維、添加物、植物材料のDNAの三つを取り上げて解説する。
実際の料紙の顕微鏡撮影画像や分析結果を用いて、各物質の特徴や見分け方、分析結果のどこに注目ポイントがあるのかなどを紹介している。分析経験のない人や自然科学を専門としない人が、料紙分析や関連の書籍・論文を読むとき、あるいは自分で分析を試みようとするときに、参考にできるような作りにしている。それぞれの目的に合わせて読んでほしい。

第3部と第4部は、実際の史料調査や料紙分析の事例をあげながら、現在の取り組みを紹介している。

第3部では、史料調査と料紙分析の連携によってどのようなことがわかってきたのか、科学分析を取り込むとどのような成果が見込めるのかなどを紹介している。

第4部は、分析データの記録・保存ツールの紹介や情報基盤との連携の意義、また国際的な研究にむけてどう展開していく必要があるのかなど、取り組みの事例を交えて考察する。

コラムは、上述した料紙分析に対する先輩がたのあゆみや彼らの抱く今後の研究への期待を含め、歴史学研究における科学分析の実践、分析で得られたデータをどう活用するのかなどを扱っている。コラム単独で読んでもよいだろう。さらに本書の最後には、少し難しいと思われる用語を用語集としてまとめている。随時参考にしながら、読み進めてほしい。

本書は、大学や自治体、博物館、文書館、図書館など歴史資料の研究や保存・継承に従事する方がた、また料紙分析に関心のある方がたの参考になるような、いわば「古文書の科学」の案内書を目指したものである。いまこの文章を書いている私は、考古学の遺跡から、肉眼では見えない微細な植物の痕跡を探し出す研究者であり、顕微鏡を日常的に用いる科学者である。今でこそ古文書の調査・分析を進めているが、かつては私も、人文学の研究対象である古文書と自然科学の分析がかけ離れており、研究にどのような意味があるのかと疑問に感じていた。本書をきっかけとして、読者の皆さまが人文科学と自然科学を融合した研究への理解を深めていただければ幸いである。

なお本書は科学研究費補助金基盤研究(A)「『国際古文書料紙学』の確立」(2019~2022年度)の成果を踏まえたものである。詳細はおわりにで述べた。合わせてお読みいただけると幸いである。

引用文献
黒板勝美『虚心文集』414 pp、吉川弘文館、1940