ごあいさつ★『古文書の科学』全文公開

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ごあいさつ

本郷恵子

30年以上前になるが、ある研究会での大学院生の報告に対して、ベテランの研究者が「その文書はあぶないと思いますよ」と指摘された。だが当該の文書は主要な論拠となるもので、報告者としては簡単に引き下がるわけにいかない。

「文体や内容からして、とくに問題になる要素はないと思いますが」
「私はその発給者による文書については、すべての原本を見ています。その上で疑わしいと言っているのです」
「でも、内容としては......」
「私は全部を見ました。あなたは見ていますか?」
「......」

若い大学院生が、すべての原本を見るのは不可能だ。博物館等で展示ケースのガラス越しに見たことはあるかもしれないが、手もとで子細に検討することは、1点でも難しいだろう。もちろん、すべての原本を精査し、真偽を確認したという先学の意見は傾聴すべきだし、所蔵機関や所蔵者のもとを回り、いちいち許可や信頼を得るなどの積年の苦労があったろうという点にも敬意を払わねばならない。それでも、このような反論不可能な問いかけが研究の場で成されるということに、私は長いこと違和感を抱いてきた。

歴史研究者は、主に古文書・古記録等の文献史料に記されたテキスト(文字情報)を素材として、過去の復元を試みる。多くの場合、原史料を撮影した写真や画像データ、あるいは活字化された史料集を参照・検討する。一方でテキスト情報というのは、数百年もの歳月を生きのびて今日まで伝来してきた原本史料が持つ豊かな情報の一部でしかない。そしてまことに残念だが、原本保護の観点からして、オリジナルの史料を、あらゆる人に必要の都度に公開し、熟覧させるのは困難である。そのためこれまでの原本研究は、原本に親しく触れることのできる一部の研究者が、経験値にもとづいて論じる暗黙知の領域にとどまらざるをえなかったといえる。

「古文書がどのような紙に書かれているのか」は、原本独自の情報のなかでも重要なものの一つである。発給者の権力の強さやメッセージの性格、相手との身分関係等に応じて、文書様式や礼式が定められていたように、使用される料紙にも、さまざまな種類や格付けがあったはずだ。さらに文書が作成された時期や場所(地域)によっても、異なった料紙が用いられていた可能性がある。

本書は、長い伝統を有する学問分野である日本史研究・史料研究の蓄積を踏まえ、文化財科学・植物育種学・考古学等の方法を用いて料紙の科学的分析を行い、得られたデータを、情報学の成果として構築された情報基盤に集約して公開・共有するという、多様な分野の連携から構成されている。暗黙知の内部に光をあてて分析視角を設定し、観察・計測・記録し、その結果をすべての研究者に開放して、総合知の達成をめざすものといえるだろう。あわせて、分析の専門家でない一般の歴史研究者が観察や撮影を行うための、懇切で実践的なガイドも示されている(先行して作成された史料調査ハンドブック『古文書を科学する―料紙分析はじめの一歩―』(https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/assets/pdf/seika2021-9.pdf)を併読すれば万全である)。料紙調査の方法が普及し、データが増加すれば、料紙研究の可能性はいっそう拡大するにちがいない。

本書で述べられる料紙調査は、すべてが非破壊で行われるが、貴重な史料の調査を許可してくださった所蔵者・所蔵機関の関係者の方々には、心から感謝申し上げたい。本書は、研究者と史料所蔵者との信頼関係のうえに成立したものであり、そのような関係がひろがることこそが、料紙研究を推進する力となる。本書が、あらゆる分野、あらゆる立場の過去に興味を持つ方々のもとに届き、わが国に厖大に伝来する歴史史料の保護・研究・継承に資することを願っている。