第3部 料紙から古文書を読む 2 陽明文庫所蔵史料による料紙研究の可能性★『古文書の科学』全文公開

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陽明文庫所蔵史料による料紙研究の可能性

尾上陽介

1.はじめに
平安時代以来、代々の摂政・関白を輩出した摂関家は、近代に至るまで政治権力の中枢にあり、文化面でも社会を牽引し続けた。そのため摂関家において作成・蒐集された史料には各時代の貴族社会における知識が膨大な故実として記録されてきた。摂関家の文庫には原典のみならず、関係諸家から提出させた写本や、抄出・部類といった作業により故実を体系的に整理した典籍が収められ、それらは各時代の政治・経済・社会・文化などを考える上で必要欠くべからざるものである。特に、五摂家の筆頭であった近衞家の史料群は摂関家文庫のなかで唯一、散逸することなくまとまって伝来しており、大規模史料群のなかでも極めて貴重なものである。

現在、京都市の公益財団法人陽明文庫には、この近衞家伝来の奈良時代から近代にまで及ぶ十数万点の古文書・古記録・古典籍や茶道具・楽器・刀剣・人形その他什器などが護り伝えられており、それらは歴史学のみならず日本文学・日本文化といった領域においても研究の基盤となっている。

これらの大部分を占めるのは紙に書かれたものであり、料紙研究という面からみても、唯一無二の大規模史料群と言えよう。本章では陽明文庫所蔵史料の概要と特徴について、料紙に注目しつつまとめてみたい。

2.陽明文庫所蔵史料の概要
現在、陽明文庫所蔵史料は大別して以下のような複数の目録に著録された史料群から構成されている。

①近衞家記録十五函目録
いわゆる「十五函文書」と称される史料群で、平安中期から江戸前期までの古記録を中心とする最重要史料群(623点)である。近衞家第22代家久(1687~1737)の手になるものまで含まれており、江戸時代中期には現状のような構成の史料群が形成されていたと考えられる。

第一函から第八函までには摂関家の祖、藤原師輔(908~60)の『九暦』以下、近衞家第19代尚嗣(1622~53)の『妙有真空院記』まで、歴代当主たちの日記原本・古写本が年代順に配列されている。なかでも、藤原道長(966~1027)の『御堂関白記』はまとまって現存する最古の日記原本であり、ユネスコ「世界の記憶」として著名である。

続く第九函から第十三函までは摂関家に仕えていた貴族たちのまとまった日記で、第九函・第十函には藤原宗忠(1062~1141)の『中右記』(「中御門右大臣」という宗忠の呼称にちなむ名称)古写本、第十一函・第十二函には平信範(1112~87)の『兵範記』(兵部卿であったことによる名称で、諱の一部による「人車記」という別称もある)原本、第十三函には信範の先祖に当たる平親信らの日記『平記』古写本と、『勘例』(南北朝期成立)などの平安・鎌倉時代の朝儀の先例集、さらには近衞家領であった丹波国宮田荘の関係文書が、それぞれ収められている。

最後の第十四函・第十五函には平安~江戸前期成立の雑多な古記録・古文書が収められており、これまでの函に漏れた当主日記の断簡のほか、当主自らが作成した朝儀の記録類、他家の日記などが中心となっている。

日記では、藤原実房(1147~1225)・吉田経俊(1214~76)・三条公忠(1324~83)・三条西実隆(1455~1537)・鷲尾隆康(1485~1533)らの廷臣、入道尊鎮親王(1504~50)・後陽成天皇(1571~1617)らの皇族のものの原本が含まれている。

朝儀の記録は摂関家当主に関係するものがほとんどで、特に近衞家第3代家実(1179~1242)が承久3年(1221)に摂政を辞す上表を行った際に提出した文書の控えや勅答、関係文書の原本がそのまま残されているなど、極めて貴重である。

以上のほか、十五函相当として近衞家初代基実の祖父藤原忠実(1078~1162)の日記『殿暦』古写本がある。十五函文書全体の詳細については尾上陽介「翻刻『近衛家記録十五函目録』(昭和十五年四月)」(田島公編『禁裏・公家文庫研究』第4輯所収、思文閣出版、2012年)を参照されたい。

②一般文書目録
先の①が中世以前の古記録を中心とするのに対し、古代から近代に至るまでの古文書・古記録全般にわたる史料群で、多くは戦国時代以降、近世・近代のものである。

関東大震災の後、近衞文麿から京都帝国大学図書館に寄託された98,000点余りの史料群で、同館の山鹿誠之助司書官、井川定慶・藤直幹嘱託らの尽力により昭和6年までに一応の整理が行われた(京都大学附属図書館編・刊『京都大学附属図書館六十年史』197頁「近衞文庫」項、1961年)。昭和15年の陽明文庫第二書庫建立後には寄託解除となり、近衞家に返還されてそこに収蔵されている。

各史料には1から98618までの史料番号を記したラベルが断簡零墨に至るまで貼付されており、京都帝国大学による整理は大変な作業量であったと想像される。その一方、膨大な史料群の全体をまず内容や形態で揃えてから目録作成に着手することは現実的ではなく、寄託を受け入れ次第、端から機械的に番号を振っていったものと想像される。

その結果、たとえば同一人物の書状が桁違いの番号となっていたり、巻子の次に小紙片があったりする。そのため単に番号順ではなく、「第一門 家門 付諸家」「第二門 皇室」「第三門 書状」「第四門 公事、儀式」「第五門 日記、記録、古文書写」「第六門 神祇」「第七門 仏教」「第八門 歴史」「第九門 教育、学校」「第十門 地理、交通、産業」「第十一門 外交、外国」「第十二門 文学」「第十三門 有職故実」「第十四門 書画」「第十五門 歳時、度量衡、銭貨」「第十六門 芸能」「第十七門 医薬、鍼灸、医師、温泉」「第十八門 目録」「第十九門 漢文、儒学、漢籍、道教」「第二十門 戦乱、災厄、吉凶」「第二十一門 器物」「第二十二門 上包、反故」「番外(細目「品物、新聞、雑誌」)」の23部門の内容別に分類して運用されている。これら各部門の細目については、名和修「陽明文庫の沿革」(田島公編『近衞家名宝からたどる宮廷文化史』笠間書院、2016年)を参照されたい。

なお、中世以前の古文書・古記録、古写経断簡、古今伝授切紙や、歴代天皇の宸翰、中和門院近衞前子(近衞家第16代前久女、後陽成天皇女御、1575~1630)・伊達政宗(1567~1636)・沢庵宗彭(1573~1645)・一糸文守(1608~46)・新井白石(1657~1725)ら近衞家と関係の深い重要人物の書状など約1,700点については、陽明文庫において特に貴重なものとして第一書庫に別置されている。

③陽明文庫典籍目録甲号
昭和15年に京都帝国大学が作成した目録に著録された近衞家寄託図書・附属文書の史料群2,833点で、「近衞家関係」「儀式典礼」「日記」「禁秘抄、年中行事、服飾」「皇年代略記、系図」「家伝類」「法政」「国史」「幕末」「武芸、諸芸道」「和歌、連歌」「物語」「和文集」「漢詩集」「国語学、音韻」「往来」「漢籍」「神仏典」「社寺縁起」「地誌、地図」「博物、科学」「目録」「武芸、一覧」「文書」「其他」の25部門に分けて整理されている。

大部分は近世・近代の新写本や刊本で、点数は少ないが中世の古写本も含まれている。近衞家に伝来した典籍のうち、近衞篤麿(1863~1904)が院長であった学習院大学に寄託されていた史料群が、後に京都帝国大学に改めて寄託されていたものと思われ、②の一般文書目録と同じく近衞家に返還されて第二書庫に収蔵された。

また、甲号補遺として109点の歌書を整理した目録が公開されている(陽明叢書国書篇第六輯『中世和歌集』附録『陽明叢書国書篇月報』13、思文閣出版、1978年)。

④陽明文庫典籍目録乙号
明治33年・大正5年の二度(前掲『京都大学附属図書館六十年史』)にわたり京都帝国大学図書館に寄託された史料群が中心となっていると思われるもの約2,000点で、近世の刊本が多く、③と比べると漢籍が目立つ。書名のアイウエオ順に整理されている。

②・③と同じく寄託が解除された際、漢籍を中心に211点が京都帝国大学に寄贈され、現在も「近衞文庫」として公開されている。

⑤その他
以上の主要目録のほか、「続歴代日記目録」「十五函相当記録文書目録」「佳品目録」といった目録に著録された史料群が存在する。

「続歴代日記目録」は十五函文書に続く歴代当主や家司の日記456点からなり、近衞家第20代基凞(1648~1722)の『応円満院記(基凞公記とも)』以降、明治期の篤麿までの原本が含まれている。

「十五函相当記録文書目録」は文字通り①に相当する貴重な史料とされたもので、「歴代日記佚出」「朝儀次第」「古日記」「雑記」「写経」「短冊」「懐紙」「書蹟」「雑(写真、反古等)」「官位次第」に分けて著録されている。近世の歴代当主とその夫人の手になる原本や、近衞家に仕える家司の日記が中心の史料群472点である。

「佳品目録」は特に貴重な宝物451点をまとめて著録したもので、「詩歌」「消息」「書蹟」「典籍」「絵画」「什宝」に分けて、軸装された天皇・歴代当主らの貴重懐紙・書状・書蹟、貴重典籍・絵画、手鑑、錦織・工芸・刀剣・カルタなどからなり、指定文化財を多く含んでいる。

このほか、どの目録にも記載されていない無番号のものが存在しており、約500点に及ぶ孝明天皇宸翰や、基凞夫人常子内親王の日記『无上法院殿御日記』原本、江戸時代を通して近衞家家司が書き続けた多様な業務日記類など、史料的価値の高いものが無番号のまま存在している。

3.料紙研究の可能性
前節で見たように近衞家伝来の陽明文庫所蔵史料は古代から近代の長期間に及び、特に古記録・古文書の史料群では同じ性質のものであっても実に多様な料紙が用いられていることがうかがえる。

①の古記録原本の料紙では、近衞家第9代道嗣(1332~87)の『後深心院関白記』までは具注暦が中心であり、特に鎌倉前期の暦は間空き(記事を書き込むためのスペース)が5行もある贅沢なもので、私が知る限り最高級の打紙に鮮やかな墨色で暦注が記されている。それが南北朝期になると間空きが2行に減り、紙質も薄くなっている。

摂関家当主の日記原本が代々にわたって現存するとともに、他家の人物の日記原本も併存しているので、時代による、あるいは家による原本料紙の違いを比較検討することが可能である。

先述の通り②には断簡零墨が数多く残されており、そのなかに治安元年(1021)9月30日から10月13日までの具注暦断簡がある(図1※書籍版のみ掲載ですご了承ください)。現在伝わっている道長の日記の最後の部分はこの年の9月5日条で、残念ながら古写本で伝わっている部分であるが、前年の寛仁4年に道長は同様の間空きのある具注暦に記事を書いていることから、この断簡が『御堂関白記』原本の一部であった可能性が考えられる。今後さらに紙質の分析が進めば、新たな知見を得ることが期待できよう。

たとえば、近衞家第17代信尹(1565~1614)は文禄3年(1594)勅勘により薩摩に流されるが、その前後の時期の日記の料紙には塵など不純物が多い非常に薄手の粗末な楮紙が使用されている(図2[※書籍版のみ掲載ですご了承ください]、近衞通隆・名和修・橋本政宣校訂『史料纂集 三藐院記』解題3参照〈名和修文庫長執筆、続群書類従完成会、1975年〉)。在国中、信尹は日記以外にも同じ紙を使用しており、この粗末な紙は都から携帯したものと思われる。摂関家の当主が使用する紙としては異例のもので、当時の彼をとりまく状況を考えるとまことに興味深い。

一方、古文書は②の「第三門 書状」の部分だけでも中世から近代まで10,500点余り存在し、古記録と同様、いろいろな角度から料紙の比較検討が可能である。近衞家関係者が書状をやりとりした相手は家族をはじめ、天皇・皇族や廷臣、将軍や戦国大名など全国の武士、僧侶や歌人・連歌師など幅広く、時期も平安中期から近代にまで至っている。手紙のなかには染色や文様のある料紙など意匠をこらしたものもあれば、文字の書き方、料紙の折り方や封式が独特のものも目に付く。なお、「第三門 書状」のうち明治期以前を中心とする史料画像については陽明文庫HPの「陽明文庫デジタルアーカイブ」から公開を進めているので、参照されたい(付記参照)。

また、天皇の命令を伝える詔書や宣旨などの公式様文書の現物が多く残されている点も貴重である。先述の通り①には鎌倉前期の当主家実に関する文書がまとまって含まれており、②には慶安4年(1651)12月8日に近衞尚嗣を関白に任命した際の後光明天皇の詔書原本(図3※書籍版のみ掲載ですご了承ください)など、近世歴代当主の文書が存在している。

4.おわりに
陽明文庫には千年以上に及ぶ期間で、使用された時代や地域、目的や用途、使用した人びとの階級や属性が異なる多様な紙が残されており、原本調査にもとづく紙質データの採取や料紙分析による研究成果が生み出されつつある(参考文献参照)。今後、さらに研究が進むことにより、貴族社会における用途に応じた料紙のあり方を古代から近世に至る極めて長い期間のなかで位置づけることが可能となろう。

付記
 図1・図2は2012~16年度科学研究費補助金(基盤研究(S))「日本目録学の基盤確立と古典学研究支援ツールの拡充―天皇家・公家文庫を中心に―」(研究代表者田島公)の成果による。
 「陽明文庫デジタルアーカイブ」のURLはhttp://ymbk.sakura.ne.jp/ymbkda/index.htm。上記及び2017~21年度科学研究費補助金(基盤研究(A))「摂関家伝来史料群の研究資源化と伝統的公家文化の総合的研究」(研究代表者尾上陽介)の成果による。

参考文献

高島晶彦・名和知彦「室町時代の引合紙について―陽明文庫所蔵『後法興院関白記』『雑事要録』の紙背文書を事例に―」『古文書研究』88、2019
渋谷綾子・高島晶彦・天野真志・野村朋弘・山田太造・畑山周平・小瀬玄士・尾上陽介「古文書料紙の科学研究―陽明文庫所蔵史料および都城島津家伝来史料を例として―」『東京大学史料編纂所研究紀要』32、2022