第3部 料紙から古文書を読む 1 松尾大社所蔵史料を読む★『古文書の科学』全文公開

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松尾大社所蔵史料を読む

野村朋弘

1.はじめに
松尾大社所蔵史料を読むにあたり、まずは松尾大社という古社の説明からはじめたい。松尾大社とは京都市の桂川西岸にある。京都の四条通の西端に位置する。最寄り駅の阪急線などでも「まつおたいしゃ」といわれているが、「まつのおたいしゃ」が正式な名称である。「洛西の総氏神」とも称され西京区から下京区にかけて広範囲の氏子圏を持つ。渡来系の氏神である秦氏に信仰され、平安京遷都より以前の大宝元年(701)に現在の地に社が建てられたとされる。賀茂神社と松尾社は京都のなかでも最も古い神社として「賀茂の厳神、松尾の猛神」と並び称されている。古代・中世期に成立した二十二社体制のなかでも伊勢神宮・石清水八幡宮、賀茂神社に続く格式のある神社である。

神社祭祀は古代から続く日本の基層的な信仰の一つであり、延喜式の神名帳に記される神社をはじめとして多くの神社が日本国内には存在している。では、これらの神社史の研究はどうかといえば、特定の神社に関する調査・研究は進んでいるものの、全体的には停滞していると言わざるを得ない。遠因には明治維新期における上知令や世襲禁止がある。前近代において神社の祭祀を掌る祠官の多くは一族の世襲によって維持・継承されていたが、明治期にそれら祠官の家は神社から離れていった。

神社祭祀とそれを支える所領経営は、祠官によって運営されている。そのため神社本体が持つ史料の他祠官の家が持つ史料もあり、祠官が神社を離れると同時に史料もまた散佚する危機が生じた。また上知令によって祭祀を支える所領の多くは召し上げられる。さらには明治期の神社統合もあり、神社が管理していた道祖社などの祠は姿を消していく。また国家神道化が進められていくなかで、伊勢神宮を頂点とした祭祀が構築され、それぞれの神社で継承されてきた特殊神事はすべてを維持することが困難となった。

戦前の国家神道が進められていた時期、それぞれの神社は社史編纂を進めていたが、公開せずに終えた事例も多々あり、さらには戦後になってから神社史そのものの研究が少なくなってしまう。しかし史料の散佚を免れた、ないしは収集に努める神社も多く存在する。その一つが松尾大社が所蔵している史料群である。ここではこの松尾大社の史料から見えてくるものをわずかばかりだが紹介したい。なお、松尾大社は昭和25年(1950)に松尾神社から社名を変更しているが、便宜上、本文では「松尾大社」で統一する。

2.松尾大社所蔵の史料群について
古くは嘉応3年(1171)の「池田荘立券文案」をはじめ、平安・鎌倉・室町・戦国・江戸時代そして近代と豊富な史料を松尾大社は有している。

松尾大社は祠官を秦氏が勤めていた。中世に至り東家・南家などに分かれるものの、神社運営を担う神主・禰宜・祝などをこれらの一族が担い続ける。神社祭祀つまりは神事や、それを支える所領経営などを行っていた。

神事に関わるものでは年中行事や祈祷命令や祝詞など、所領に関わるものでは歴代幕府からの安堵や東寺をはじめとするほかの権門寺院との相論文書、叙任に関わるものでは東家を中心とした叙任に関わる口宣案や伯家御教書など多彩である。

松尾大社所蔵史料の現在の全体像の把握は、昭和になってから行われた。まず昭和9年(1934)に京都帝国大学の中村直勝に宮司の鳥羽重節から依頼があり、2年後に『松尾神社社蔵文書目録』が編まれた。弁言に「十幾年の昔、長屋基彦翁が当社の宮司を奉仕して居られたとき、縁ありて当社に参詣し、当社ならびに当社家東氏尚蔵の数百通の古文書を披見して以来、絶えず私の脳裏に去来する念願は、其等数千通の古文書を出版したいといふ事であった」とあり、大正年間において松尾大社では社蔵の史料のほか、社家であった東家の史料が分けられており、何らかの機会に東家所蔵の史料も閲覧できたのであろう。この中村直勝が編んだ目録の総数は1246点であり、目録末尾の跋において松尾大社社蔵の史料がこの1246点である旨、宮司の鳥羽重節が示している。中村直勝が閲覧した東家尚蔵の文書とは、東家の分家である唯一が所蔵していたものであろう。昭和34年(1959)に当時の宮司である手塚道男の勧奨によって552点の史料が松尾大社に寄進された。これは唯一の弟、晋が年代順に配列した上で、松尾大社へ送られたという。このほか、新たに神社で発見されたものもあり、現在では1859点までが整理されている。

そして昭和46年(1971)に河田晴男宮司より神道史の梅田義彦に依頼がなされ、昭和51年(1976)以降、『松尾大社史料集』として文書篇7巻、典籍篇3巻、記録編4巻が吉川弘文館から刊行されている。史料集の凡例に「収載文書は、原本成巻(整理番号附)の順に従って収録したもので、時代的序列は甚だ前後してゐる」とある。中村直勝の目録においてもどのような方針で整理がなされたものかは示されていない。

1247号からの旧東家文書は前述の通り松尾大社へ寄進される際に「年代順に配列」されたとある。なお、旧東家文書については裏打ちの連券とされているのみであり、おそらくは松尾大社に寄進がなされた後、裏打ちのみの成巻がなされたようだ。

松尾大社の所蔵史料については①本社にあったもの、②東家の分家から寄進されたもの、③新出史料・購入史料があるものの、詳しい伝来・収集過程は明らかにされていない。たとえば大正12年(1923)頃から編纂が始まったといわれている「松尾神社誌稿」をみると第14章に「本誌編纂の資料」とあり「松尾神社史料」も列挙されているが、その順は現在の整理番号でいうと1・2・3・4・5・9・10・6・7・8・11などといささか異なる。もちろん、編纂のための史料ということで社誌編纂における提示順の可能性も拭えないが、編年でもなく、また冒頭からの史料の掲示順とも異なる。

大正12年といえば中村直勝の目録編纂の直前であり、中村直勝の文書目録の編纂によって、ある程度の史料順の移動などがあった可能性も否めない。

このほか、注目すべきは社家の分家にともない権利を示す文書が「写」され所有されていたようで、1859点のなかにも多くの写がある。社家の東家嫡流や複数ある分家が有していた史料がどのように伝来してきたのか、その詳細は不明である。また、松尾大社に関していえば、関連史料として現在は京都大学が所蔵している月読社の社家である松室家の史料や、一部は松尾大社が所蔵しているものの散佚してしまった西七条の御旅所が所蔵していた史料、また神人の山田家の所蔵文書などもある。

文字情報を正確に読み解くことは文献史学の鉄則だが、「一点の史料」、ひいては「史料群」からどれだけ情報を引き出すかを考えると、成巻のあり方や料紙の分析も欠かせない。

3.松尾大社所蔵の史料から見えてくるもの
目録順に史料をみていくと、気になる点がいくつか見えてくる。
前述の通り整理番号は時代的序列とは大きく異なっている。
そこで成巻がどれだけの通数でなされるか、100号までを目処にみてみよう。

1号・2~11号・12~20号・21~30号・31~40号・41~51号・52~61号・62~72号・73~82号・83~87号・88号・89~97号・98~103号。

1号の「池田荘立券文案」は19枚にも及ぶ紙継を行っており、一巻で成巻させるのは当然だが、2号からはおおよそ10点を目安に成巻されている(図1)。

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図1 1号から51号までの巻子

1号から51号までの巻子
1号 外題なし
2~11号・12~20号・21~30号 外題なし。表装は同一
31~40号 外題なし
41~51号 外題なし
52~61号 外題なし
62~72号 外題なし
73~82号 外題なし

たとえば3号の「源頼朝書状」は二紙にわたって記されている史料で、三河国設楽荘、越中国松永荘、甲斐国志摩荘に関するもので松尾大社からの解状に対する返信だが、二紙目は不自然に裁断されいる。
また20号の「足利尊氏御教書」は全体に墨色が着いている。東京大学史料編纂所修補室の高島晶彦の指摘によれば近世に古色を付けて軸装され、それを仕立て直したものではないかという(図2)。

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図2 20号「足利尊氏御教書」

いま現在、松尾大社所蔵史料については、89~97号、2~11号、1号と順に史料編纂所にて調査・修復が実施されているので、詳しくはまた調査された後の分析となるとなるが、少なくとも2~11号や12~20号といった若い整理番号の史料は、近現代になってから、それも大正から昭和初期か、昭和30年代になってから仕立て直されたものではないだろうか。

次に文字情報で確認すると、6号の「六波羅施行状」は丹波国桑田荘の下司職について、社家の進止である旨が関東御教書が発給され、それにもとづいて施行状が出されたものだ。6号に記されている「関東御教書」について、実は年次と内容に沿う文書が92号として収められている。鎌倉幕府の命令については関東御教書が発給され、西国を管轄する六波羅探題が施行状を発給する。

この流れを考えると、本来、重要視(若い整理番号を付す)すべきは6号ではなく92号になる。しかしながら現状ではそうはなっていない。

次に83~87号以降の巻子をみてみよう(図3)。

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図3 89~169号までの巻子

それまでは巻子の題簽に表題などは記されていないが、224号までの分については、それぞれ表題が示されている。

83~87号 題簽「五十四号・五十六号・五十七号・五十八号・六十号」
88号 題簽「六十六号 □禄年中〈前田安芸守・小出淡路守〉
 □尾御神領御改状」
89~97号 題簽「天正寛喜貞和年間古文 第壹号」
98~103号 題簽「先祖代々譲状七通 <自証阿至相胤> 第弐号」
104~117号 題簽「御教書□□御奉書 第参号」
118~122号 題簽「公方管領御奉書 第四号」
123~128号 題簽「公方家管領御奉書 第五号」
148~155号 題簽「大永至天文之頃書記類折紙等 東家蔵書 第拾号」
156~158号 題簽「天文天正年中社中連判状 東家 第拾壱号」
184~188号 題簽「氏神之神事正頭  第拾四号」
189~201号 題簽「元和年中書記継合 東家 第拾五号」
202~214号 題簽「古折紙類 元和之頃 数通 東家 第拾六号」
215~224号 題簽「寛永慶安年中本願 東家 第拾七号」

これらには昭和34年に寄進された史料ではなく、社家の嫡流が所持していた文書であり、近世に成巻されたものと考えられる。

2021年の松尾大社での史料調査の際、史料が保管されている蔵にも入ることを許され、整理されている史料群以外のものも閲覧する機会を得た。

そのなかで発見したのが官幣大社松尾神社の罫紙に記された「松尾神社文書目録案」である。この内容の配列は中村直勝の文書目録と同一であり、おそらく中村氏本人か当時の祠官の方が記したものと考えられる(図4)。

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図4 「松尾神社文書目録案」

そこで注目したいのが、1~39・40~59・55~72までは、それぞれ「長持古文書」とされており、史料整理の段階での文書の保管場所が記されている。

また89号からの箇所では「松尾神社旧東家所蔵」が消され、「成巻文書」と記されていた。この目録をまとめていくなかで、現在の整理番号が付されたことがわかった。

また料紙の調査・修理で明らかになったことも確認しよう。

89~97号について文書名は次の通りである。
89号 豊臣秀吉朱印状
90号 織田信長朱印状
91号 織田信孝御教書
92号 関東御教書
93号 足利直義御教書
94号 足利尊氏寄進状
95号 秦相言譲状
96号 秦相廣譲状
97号 秦相光・相房譲状

最後の97号の「秦相光・相房譲状」は天正3年(1575)のものである。相光は天文11年(1542)の遷宮を取り仕切った神主であり近世になると相房は東家を名乗る。譲状の宛先の「蔵人」とは秦相頼で、子孫は南家を称する。秦相光は江戸時代の東家と南家の祖ともなるべき人物である。

高島晶彦の調査・修理の結果、95~97号は連券として成巻されていたが、後に89~94号が加えられたのではないかという。祠官の秦氏の一族内相論を考える上で重要な情報といえよう。

4.おわりに
以上、雑駁ながら松尾大社所蔵史料の料紙研究によって見えてきた点をわずかではあるが提示した。
冒頭でも示した通り、明治期を迎え神社は社家の世襲禁止によって、祭祀や所領経営、叙任・補任といったさまざまな史料が散佚する危機を迎えた。幸いにして松尾大社は史料の収集に努めていたものの、近代の整理によって伝来が不明確になった点もある。

これらの伝来経路を明らかにすることは、松尾大社史はもとより関連する白川伯家や幕府との関係性、さらには東寺などとの相論も明らかになる点が多々あるだろう。

こうした伝来経路は、文字情報だけではなく料紙の調査・分析をしなければ明らかにできない。松尾大社ひいては神社史における史料群の調査・分析を今後も引き続き実施していきたい。

謝辞
本稿は東京大学史料編纂所一般共同研究(2019~2020年度「松尾大社所蔵史料の調査・研究」、2021~2022年度「松尾大社所蔵史料の研究資源化」)の成果であり、使用している図版は共同研究で撮影したものである。ここに謝して記し置く。

参考文献
岡田莊司『日本神道史』吉川弘文館、2010
東昌夫『秦氏族の研究』、2018