【パネリスト 宋恵媛氏(大阪公立大学)によるコメント「在日朝鮮人作家・尹紫遠(ユン・ジャウォン)と併読する」を公開しました】『職業作家の生活と出版環境』シンポジウム(2022年10月29日実施)

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在日朝鮮人作家・尹紫遠ユンジャウォンと併読する

報告者:宋恵媛(大阪公立大学)

はじめに

 宋恵媛(ソン・へウォン)と申します。榛葉英治と尹紫遠(ユン・ジャウォン)という二人の戦後作家を比較しながら、本書についてのコメントをします。

 今年12月に京都の琥珀書房から、尹紫遠の日記の翻刻、作品集等(『越境の在日朝鮮人作家 尹紫遠の日記が伝えること----国籍なき日々の記録から難民の時代の生をたどって----』、『尹紫遠未刊行作品選集』、『月陰山』、『尹紫遠全集(電子版)』)が出版予定です。在日一世の日記の公刊は初めてになります。

 榛葉英治と尹紫遠はほぼ同い年で、戦後日本での生活が1946年に始まっている点も共通しています。二人ともマイナー作家である、と一応は言えるかもしれません。ただ、榛葉英治が直木賞作家で、職業作家として人生を全うし、単行本を数多く出したのに対し、小学校卒の朝鮮人である尹紫遠は、文学賞どころか商業文芸誌には一編も作品も掲載できず、単行本も1冊を出したきりだったので、対照的な存在ともいえます。

 私はこれまで、見過ごされ忘れられてきた在日朝鮮人たちの作品を探し出す作業をしてきました。朝鮮語で書かれたものも多くあります。今回の尹紫遠日記の翻刻や作品集刊行も、その延長線上にあります。在日朝鮮人文学史の空白はなぜ、どのように生じたのかという問いに向き合ってきたわけですが、『職業作家の生活と出版環境』(以下、本書)はこの問題を考える上でたいへん示唆に富むものものでした。

1. 日本近現代文学における「権威」を問い直す

 本書は、日本近現代文学研究における作家、作品、そして研究の場そのものの「権威」を問い直すものだと考えます。実体を掴むのが難しい、文学にまつわる「権威」を作り出し、維持しているのは、「文壇」を頂点とする作品の生産・流通システムであり、そこには人脈や学閥などのコネクション、文学賞、大衆の人気つまり商業的成功といった要素が絡んでいます。これら全ての要素が、戦後日本で職業作家として生き残るための必須条件だったことは、おそらく誰もが知っていたことだと思います。本書は、それをはっきりと可視化して、読者の前に突きつけるものとなっています。

 私は尹紫遠日記翻刻本の解説で、この日記が「在日朝鮮人が書き、読まれることの不可能性を物語っている」と書きました。在日朝鮮人作家が権威的な「文壇」からいかに遠く隔たっており、それがゆえに活字化され残されることすら困難だったか、ということを含意しています。しかし、実際にそれを証明するのは容易ではありません。

 これに関して、田中祐介「戦後の文芸メディア変動の力学」では、純文学志向だった榛葉英治が、1954年に文壇での生存戦略を模索していた様子が描写されています。石原慎太郎が芥川賞を受賞した年です。一方、同じ年の尹紫遠はといえば、臨時雇いの洗濯屋での労働と妻の洋裁で糊口をしのぎながら、一流文芸誌に原稿を売り込み作家として一本立ちしようと勝負をかけていました。尹紫遠は人脈、学歴、人気のどれもなく、日本人の嗜好に合う小説も書けず、その意思もありませんでした。尹紫遠はひたすら朝鮮人のことを書きたかったのです。そんな作家が、1950年代当時の日本の文壇で成功するなどどだい無理だった、田中論文はこのように引導を渡すものになっています。尹紫遠日記には、純文学、中間小説、大衆小説といった語は一度も登場しません。本書を読んで、初めてそのことに気づきました。

2. 榛葉英治と尹紫遠の比較

 榛葉英治は1912年に静岡で生まれています。早稲田大学文学部英文科卒業後、1939年から「満州国」外務部に勤務。1945年2月に召集されます。敗戦を旧「満州」で迎え、ソ連軍の捕虜となるも逃げ出し、1946年に日本に引揚げます。1948年12月には「渦」が『文芸』に掲載され、早くも高い評価を得ます。1958年には直木賞を受賞し、1999年に86歳で死去するまで約50冊もの単行本を刊行しました。

 一方、尹紫遠は1911年に朝鮮の蔚山で生まれました。学歴は蔚山の普通学校(小学校)卒です。朝鮮総督府による土地調査事業で一家は土地を奪われ、1924年にわずか13歳で単身横浜に渡ります。その後、東京で長く暮らしますが、1944年に徴用令状が舞い込むや、北朝鮮の兼二浦(現在の朝鮮民主主義人民共和国、黄海道松林市)へと逃げます。そこで敗戦/解放を迎え、その数か月後に、米ソの占領分割線となった38度線を妻と南下して故郷近くに行きます。しかし、生活基盤のない「故郷」では暮らしていけず、1946年6月下旬に蔚山から山口へ「密航」しました。1950年11月に『38度線』を刊行しますが、作家として生計を立てることはできないまま、1964年に53歳で死去しました。

 本書からは、榛葉英治には早稲田派など様々な作家の人脈があったのに加え、編集者たちとも直接やり取り可能な関係だったことが分かります。一方、尹紫遠は編集者たちとの対等な関係は築けず、いわゆる「進歩的」日本人作家や、例外的な朝鮮人の成功者である金素雲や金達寿に毎回、原稿の仲介を頼むしかありませんでした。しかも、1950年代当時の「進歩的」作家たちは、抵抗者としての朝鮮人民衆像を描くことを在日作家に期待しており、尹紫遠はその意味でも不利でした。尹紫遠は、歴史に翻弄されて移動していく惨めな朝鮮人たちを書いていたからです。

 榛葉英治と尹紫遠が戦後日本の社会でそれぞれ持った条件は、根源的に異なっていました。それを象徴するのがそれぞれのGHQとの関わりです。榛葉英治は1946年10月には仙台苦竹の進駐軍の通訳となり、給料をもらっています。同じ頃、尹紫遠は朝鮮人の経営する東京の朝鮮国際タイムス社に勤務していました。仕事内容は、横浜の検閲局に日参し、検閲を受けた記事を印刷所に入れる前に修正することでした。その傍ら、詩や随筆を同紙に寄稿しました。しかし冷戦対立が深まった1948年、在日朝鮮人を共産主義者とみなし警戒したGHQと日本政府からの弾圧により同社の経営は傾き、尹紫遠は失業します。その後は、肉体労働以外の仕事に就くことはありませんでした。作品発表の場のなさにも悩まされ続けました。

3. 日記研究の可能性

 本書の「はじめに」では、榛葉日記を「戦後の長い時間的なスパンの中で職業として読み、書く行為をとらえることを通して、それをとりまくメディア環境との関係を描き出していく」(13頁)ために使うと明言しています。尹紫遠日記からも、作品を取り巻く外的要因----人脈がない限りアクセス不可能な文壇システム、日本の旧プロレタリア作家たちの戦後のふるまい、在日朝鮮人作家たちの覇権争いなど----が、断片的ではあれうかがい知れました。こういった作家たちの日記を並べ読みすることで、戦後のメディア環境がさらに解明されていくでしょうし、思いもよらなかったようなトピックも浮上することでしょう。

 また、本書に収められた榛葉英治に関する日記データは、尹紫遠日記の相対化にひじょうに有益でした。たとえば、「作家の経済活動」、「文壇グループの動態」、「雑誌メディアへの言及の変遷」は、尹紫遠による職業作家としての人生計画が無謀だったことを証明するものになっています。「作家の日常に見えた戦後史の風景」からは、同じ時空間を生きていても榛葉と尹紫遠、ひいては日本人と朝鮮人が見る世界がいかに異なっていたかが浮き彫りになりましたし、「癌という病」からは、病の捉え方、対処法、福祉制度を利用できる人とそうでない人との違いなどが浮かび上がりました。

 マイナー中のマイナー作家である尹紫遠の場合、その日記は、消えてしまった作品を探す大きな手がかりにもなりました。日本のマイナーな同人誌や新聞への掲載作品、在日朝鮮人発行媒体への掲載作品、活字化に至らなかった作品、さらには未完や構想だけで終わった作品などです。

 今回、尹紫遠日記の翻刻のほかに、作品選集、朝鮮人初とうたわれた1942年刊の短歌集の復刻版、さらには全集(電子版)も刊行されます。超無名作家の全集刊行というのは琥珀書房の山本捷馬さんの発案ですが、これはかなり異例のことだと思います。その発端が日記の発見だったということは、さまざまな権威に支えられてきた従来の文学、および文学研究を変えうる可能性を日記が秘めていることをよく物語るものではないでしょうか。

4. 執筆者たちへの質問

 本書は、各執筆者たちがそれぞれの個性や専門を活かしつつ、全員が日記を用いて一人の作家とその時代を語っていることから、広がりを持ちつつも全体の統一性があり読み応えのあるものでした。

 第一章の須山論文は、文壇の「権威」の正体に迫るような内容ですし、第二章の加藤論文は、モデル小説の内情を具体的に解明した点で画期的だと思います。第三章の田中論文は、1950年代の文芸メディアの変化が説得力をもって解明されています。第四章の中野論文は、戦後映画史研究にも新しい光を当てるものでしょうし、第五章の和田論文では、他の多くの論点とともに、ある作品や主題が日本社会の中で忘却されていく過程や要因の解明が行われています。第六章の釣りを扱った河内論文は、高度経済成長期論ともなっています。

 このように、本書の面白さの一つは、日記から論点が多方向に広がり、隣接する学問分野を刺激していく過程が示されている点だと考えます。日記という雑多な情報を扱うこの研究は、研究者が情報を特権的に占有していた時代から、膨大な情報を広く共有する方向へとシフトしていく潮流の中にあるものだと思います。今後の研究者の役割とは何だろうかということも、改めて考えさせられました。

 最後に、執筆者のみなさんへの質問です。1.日記を使った今回の研究が各自のそれまでのご研究にどのような影響を与えたか、あるいは今後与えうると考えるか。2.日記は文学研究と歴史研究をつなぐもの、あるいはその境界を曖昧にするものと考えるが、それについての見解。3.榛葉は占領下日本への引揚げに際し、それまで書いていた日記を廃棄させられた経験を持っている。榛葉英治日記からは、GHQ検閲期が彼の創作活動に及ぼした影響というのは読み取れるのか。

ありがとうございました。

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