【パネリスト 一柳廣孝氏(横浜国立大学)によるコメント「「早稲田派」という呪縛」を公開しました】『職業作家の生活と出版環境』シンポジウム(2022年10月29日実施)

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「早稲田派」という呪縛

報告者:一柳廣孝(横浜国立大学)

 直木賞作家、榛葉英治(1912~1999)の日記を研究対象としながら、タイトルのみならずサブタイトルにも作家の固有名詞を反映させない『職業作家の生活と出版環境 ― 日記資料から研究方法を拓く』の意図について、和田敦彦は「はじめに」で次のように述べている。「本書は、小説から受けた感動や情動を言葉にすることを、あるいはまた既存の解釈に対して別の新しい「解釈」を示すことを目的とした研究ではない。ここでは文学研究をこうした読み、書く行為の動態に歴史的にアプローチしていくことだと考えている。知や表象が広がり、継承される過程と、そこにかかわる人々、それを取り巻き作用する環境をとらえていきたい。そしてまた、その中でフィクションの言語やジャンルが果たす役割を見定めていきたい」。

 さらに和田は、榛葉を取り上げた理由として、彼の作家性ではなく、半世紀にわたって彼が書き残した詳細な日記の存在を強調する。そこには「文学研究という領域のみならず、言語・表現の役割やその歴史に関わる多様な分野の研究素材となる可能性」が潜んでいる。従来の文学研究が、ややもすれば「作家」「作品」「テクスト」に集約される傾向を内包していたのに対し、複数の領域やジャンルに連なる横断性や混交性を持った「不純文学」へと、読者の関心を導く。

 したがって、ここでの日記とは、いわゆる「作家」「作品」研究における、作家の伝記的な事実確認のための資料ではない。本書が試みているのは、榛葉日記に記された「生活者としての作家の情報をもとに、出版・読書環境を浮き彫りにする、あるいはその変化をとらえること」「戦後の長い時間的なスパンの中で職業として読み、書く行為をとらえることを通して、それをとりまくメディア環境との関係を描き出していくこと」なのである。

 各論考、コラム、資料編を通読して興味深かったのは、純文学作家を目指しながら直木賞作家として立つこととなった榛葉が、自己の作家としての矜持をいかに保つのか、晩年に至るまで悪戦苦闘するその姿だった。このとき、彼が自己規定するにあたって規範としたのは「早稲田派」である。

 ただし、榛葉の言う早稲田派とは、白樺派や新感覚派のような、文学の志向性を同じくする集団という訳ではなさそうだ。その実体は、早稲田出身の作家や作家希望者が集った、丹羽文雄を核とする十五日会、および十五日会で榛葉と年の近いメンバーが集まった十日会である。その関係は長期にわたり、少なくとも榛葉は一九九二年まで十日会に参加していた。

 榛葉が初めて十五日会に参加したのは、一九四九年二月十六日。丹羽文雄に声を掛けられたのがきっかけだった。このとき彼は、同世代のメンバーには親近感を抱きながらも、会の空気が気に入らなかったようだ。日記には「F・N氏の最近の小説は尊敬しているが、子分になるつもりはない。一人で、自分の道を進んでゆきたい」とある。前年に「渦」(1948・12、「文藝」)で文壇デビューを果たし、芥川賞候補作となる「蔵王」(1949・3、「文藝」)が公となる頃である。

 このように、丹羽との距離を意識し、後には十五日会に集う同世代の作家たちに対する劣等感に苦しみ、彼らから向けられる露骨な競争心に不快感を抱きながらも、榛葉はこの「早稲田派」の共同体から離れられない。

 本書の須山論によれば、「蔵王」によって田村泰次郎とは異なるタイプの新たな肉体派作家として注目を集めながら、榛葉はカストリ雑誌に執筆することで作家イメージの形成に失敗した。しかし、経済的な理由から中間小説誌への執筆を重ねざるを得なかった。そんななかで、尾崎一雄や丹羽、石川達三、火野葦平といった早稲田派の先輩作家の活躍が、または同世代の八木義徳の存在が、彼にとって進むべき方向の道標になったことは想像に難くない。

 一九五四年二月十日の日記には、石川達三を囲む会に出席し「この人の後継者たらんとする夢を見る」とある。その四か月後、六月十六日の日記には、竹内良夫から「文壇の垢に塗れよ。高いところに立って、見おろしているようなのはいけない」と忠告され「これからは「文壇の垢」に塗れようと思った」とある。その後、十五日会と十日会への出席頻度は上がったようだ。翌年六月三日の日記では、それまでの早稲田派会合での自らの態度を振り返り、次のような自省を書き付けている。「自分の今までの誤りは、気が弱く、太々しくなくて、十五日会や十日会で、すっかり友人などに吞まれてしまったこと。自分の不気味さ、自分の持ってるものを出さずに人に食われてしまったことだ。自分の作品に向きあっているのが、いちばん強いのに、それを知らなかった」。

 一九五八年、こうした複雑な葛藤を抱えつつ、榛葉は直木賞を受賞した(彼の直木賞への関心については、本書の田中論参照)。榛葉日記の記述からは、当時の文学場における力学の問題、そのなかで機能した「文壇」「派閥」という想像の共同体の存在が想起される。また、様々な力が働く場の中で、芥川賞、直木賞が果たした役割の問題も浮上する。具体的には、芥川賞、直木賞を受賞したことを契機に、いかにして文壇におけるステイタスの上昇を図るか、という戦略の問題である。

 榛葉とともに第39回(1958上)直木賞を受賞したのは、山崎豊子。その後、第40回(1958下)は城山三郎と多岐川恭。第41回(1959上)が渡辺喜恵子と平岩弓枝。第42回(1959下)が司馬遼太郎と戸板康二。第43回(1960上)が池波正太郎。第44回(1961下)が寺内大吉と黒岩重吾。重量級の作家が次々に受賞している。彼らの存在を榛葉が意識しなかったはずはない。なお、同時期の芥川賞受賞者には開高健(1957下)、大江健三郎(1958上)、北杜夫(1960上)、三浦哲郎(1960下)がいる。

 和田が「あとがき」で「例えば歴史小説や経済小説も本来なら扱いたいところだった」と述べているとおり、榛葉に前後する直木賞作家たちは、歴史小説や経済小説という新たなジャンルを立ち上げ、長きにわたって活躍した。榛葉もまた、これらのジャンルに属する小説を執筆している。しかし日記を読む限り、彼の作家としての自己評価は「早稲田派」内部の規範に準じているように見える。

 直木賞受賞後の一九五九年三月十七日の日記には「早文会。丹羽、石川[達三]、火野三氏出席。自分も酒などで、体をこわさず」「この人たちの後を継ぎたいものだと考えた」とある。ちなみに石川は第1回の芥川賞受賞者であり、火野は第6回の受賞者である。さらに早稲田派の長老格にあたる尾崎一雄が第5回の受賞者、そして八木は第19回の受賞者だった。芥川賞と直木賞の壁はあるものの、榛葉はこの流れのなかに入る資格を得たことになる。

 それから四半世紀後。一九八四年十一月二三日の日記には、次の記述がある。「二〇日に丹羽文雄氏の八〇の賀の会に出た。一族総出の祝いで、なぜこの自分が出たのか、いくらか疑問に思った。功成り名遂げたこの人と自分とは無関係であるからだ。毎年の誕生日を祝う「竜の会」には来年からは出ないことにした」。

 しかしこの直後には、次の記述がある。「出席者で自分の知る活躍中の作家は、浜野、(八木は欠席)、吉村昭、河野多恵子、富島[健夫]ぐらいで、他は忘れられた人たち。富島はエロ小説から這い上がれないだろう。ましてや新潮社から声のかかるはずがない。以前にこの自分のことをバカ呼ばわりしたこの男に復讐の快味を味わった」「来年は八木、沢野と自分との早稲田派の三人勝負だ。野坂[昭如]、五木[寛之]ら丹羽と無縁の作家たちを除いて、丹羽のあとをつぐ早稲田派がこの三人であることを会の出席者から感じた。あとのワセダ派は有象無象の集まりだ」。

 また、翌年八五年四月十四日の日記には、石川利光と中村八朗は「丹羽の茶坊主として完全に骨を抜かれてしまった」が、八木義徳だけは「十日会で自分と対立するただ一人の作家だ。ライバルと言える。七〇歳代の早稲田派作家として自分と彼だけが認められている」「いま、自分が味わっているのは些かでも勝利者の感情である。何十年来鬱屈した彼らにたいする気持をやっと晴らすことができた。要は丹羽の取巻き連のなかで自分だけがそうでなかったということだ」とある。

 富島への批判には、カストリ雑誌に執筆したことで発表媒体に苦しんだかつての自分の姿を重ねていたはずだ。また、早稲田派内での地位の確立を誇る彼の記述からは、若き日に味わった劣等感から解放された喜びが赤裸々に伝わってくる。いかに彼が早稲田派の呪縛に苦しんできたか。しかしその一方、早稲田派があってこそ、彼の矜持は保たれたとも言える。

 作家としての自らの場所をどこに見いだすのか。榛葉日記には、その苦難の道程が生々しく刻み込まれている。しかしそれは同時に、彼が自らを評価するために必要だった、特定のフレームの存在を際立たせてもいるのである。

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