【パネリスト 高橋啓太氏(花園大学)によるコメント「「研究リソース」としての五味川純平」を公開しました】『職業作家の生活と出版環境』シンポジウム(2022年10月29日実施)

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「研究リソース」としての五味川純平
――『職業作家の生活と出版環境』との接点

報告者:高橋 啓太(花園大学)

 発表者は3年ほど前から、五味川純平(1916~1995)の研究に着手している。研究の蓄積はほとんどないが、やや大げさに言うと、五味川の存在自体が、日本の満洲支配・引揚げ・戦後の文芸ジャーナリズムなど複数の問題系と関わる「研究リソース」(『職業作家の生活と出版環境』文学通信、2022、16頁)ではないかと考えている。本報告では、現在進めている五味川への二つの視座からのアプローチについて紹介するとともに、『職業作家の生活と出版環境』で展開されている榛葉英治へのアプローチ方法の中で、発表者の研究と近接する部分にも言及したい。

1.五味川純平について

 五味川純平は大連生まれで、東京外国語学校(現東京外国語大学)卒業後、鞍山の昭和製鋼所に就職する。同地で応召し、1945年8月、ソ連軍との戦闘で所属部隊がほぼ全滅する。捕虜となるが、収容所を脱走し鞍山に帰還する。その後大連に移り、1947年に引揚げる。1958年、自身の戦争体験を基にした長編小説『人間の條件』(全六部、三一書房、1956~1958)がベストセラーとなるが、文壇とは無縁な作家であった。

 五味川に関する研究は全くないわけではない。『人間の條件』の同時代評は多く、近年では川村湊・成田龍一・五十嵐惠邦らによる『人間の條件』再評価の兆しもある。しかし、それ以外の作品に関する研究はほぼ皆無である。また、『五味川純平著作集』全20巻(三一書房、1983~1985)には主要作品は収録されているが、それ以外の小説やエッセイ・コラム・インタビュー記事などは未収録である(著作目録もない)。発表者は五味川研究の土台作りとして、『著作集』未収録テクストの調査・収集に相当の時間を費やした。

 五味川の略歴と研究動向から、榛葉英治との間に共通点が見出せる。第一に、満洲からの引揚げ者であるという点である。しかも、二人ともソ連軍の捕虜収容所から脱走している。第二に、文壇との距離である。二人の置かれていた状況は異なるが、1950年代の文壇を取り巻くメディア状況の変化は、それぞれの作家活動を考えるうえで考慮するべき問題である。以下、この二つの共通点に関して考察していきたい。
 
2.五味川純平の引揚げ体験

 ソ連軍の捕虜収容所を脱走して鞍山に帰還した五味川は、中共系の市政府と連携する民主化運動のグループで活動した。その後、中国国民党軍が接近したために大連に移動する。大連では、東北民主連軍(のち人民解放軍に編入)の中にある朝鮮人部隊独立第四師に入り、朝鮮人と日本人の組織との間で経済工作に従事していた。この経済工作の一環で本土に密航しようとしたものの、五島列島近くで船が故障し捕まったことで、結果的に引揚げとなった。五味川はその後東京に移るが、占領軍からの監視や呼び出しがしばらく続いたという(「燃えていた日々―亡き妻への鎮魂歌―」『オール読物』1983.1)。密航という形での引揚げや占領軍の対応に関しては、これから調査を進めていきたい。

 『人間の條件』の後に刊行された『自由との契約』(全6部、三一書房、1958~1960)では大連での経済工作活動と密航による引揚げが描かれ、『歴史の実験』(『中央公論』1959.1~4)では、鞍山における民主化運動が描かれている。『歴史の実験』では鞍山をモデルとした都市を舞台として、日本人居留民の民主化運動に携わる田波の苦悩が描かれている。田波は「どんな思想を持っていると云ったところで、終戦まで、植民地で、中国人の上前をはねて生活していた」のであり、「中共系の政権ができているところへ帰って来たから、尻尾を振っているだけではないか」という後ろめたさを覚えずにはいられない。また、市政府からは民主化運動の不徹底さを批判され、日本人居留民からは生活困窮への不満が挙がるという板挟みの状態が描かれている。

 『職業作家の生活と出版環境』第5章(和田敦彦氏)によれば、榛葉英治にとって「引揚げの記憶を描くことは、外国の軍隊に占領された町でおびえる体験を言語化すること」であり、そこには、『城壁』(河出書房新社、1964)に結実した「南京事件を描くという構想との連続性」があるという。この指摘を参照し、五味川が『歴史の実験』『自由との契約』以降の作品の中で、満洲時代と戦後引揚げるまでの体験がどのように踏まえられているのかも今後考えてみたいと思った。

 『職業作家の生活と出版環境』のコラム「引揚げ作家の満洲経験を紐とく」(大岡響子氏)では、榛葉が戦中に大連で憲兵の通訳をしていたことで、「戦後日本社会に復帰するにあたって、「加害者」と見做されはしないかという恐れ」を抱いていたと指摘されている。作家として干されているのは「加害者」であるためではないかと考えるほどであったようだが、ここには中国人に対する「加害者」意識が見えない。再び第5章を参照すると、ソ連軍の捕虜収容所から脱走した経験を持つ榛葉は、後年「仮装抑留者としての被害者意識」を強め、「戦争の加害者、占領者としての側の意識」を後景化させていった。こうした変化と、「「加害者」と見做されはしないかという恐れ」はどこかでつながっているのではないか。

3.『人間の條件』のベストセラー化と文芸ジャーナリズム

 五味川が『人間の條件』第一部を刊行したのは1956年だが、ベストセラーとなったのは、完結編である第六部刊行直後の『週刊朝日』(1958.2.16)に組まれた巻頭特集「かくれたベスト・セラー」で『人間の條件』が紹介されてからである。この特集の中で、臼井吉見は『人間の條件』を画期的な戦争小説として評価しているが(「ついに出た戦争文学――「人間の条件」を読んで」)、その後、文芸評論家たちからは批判が相次いだ。その一方、『人間の條件』は一般読者の間で、モラルに訴える作品として受け入れられた。

 『人間の條件』は「中間小説」として取り上げられたこともあったが(「中間小説評」(『読売新聞』1958.3.11夕刊)、『職業作家の生活と出版環境』第三章(田中祐介氏)でも触れられているように、中間小説は純文学でも大衆文学でもない第三項として、戦後新しく創刊された文芸誌を中心に拡大していったジャンルであった。引揚げ後、カストリ雑誌から作家活動を開始した榛葉英治は純文学を志向していたが(『職業作家の生活と出版環境』第1章(須山智裕氏))、中間小説の存在感が増す中で生存戦略に苦慮することになる。それでも、榛葉は文芸ジャーナリズムの内側にいる作家であったといえる。

 五味川はそうではなかった。『人間の條件』は三一書房から書下ろし長編として刊行されている。川村湊は、「文芸分野の主要なメディアである文芸雑誌は、ほぼ完全にこの作家を排除した」と述べ、その理由を「書き下ろし専門の長篇小説作家としてスタートし」、「文壇内の普通の小説家のやり方を踏襲しなかったため」であると考察している(『満洲崩壊―「大東亜文学」と作家たち』、文藝春秋、1997)。五味川は、原田康子(釧路在住の新聞記者。1957年に『挽歌』がベストセラーとなる)とともに「素人作家」と括られることになる。1950年代の文壇を取り巻くメディア状況の変容は多く論じられてきたが、文壇の外部における書下ろしという刊行形態と「素人作家」の存在も検証されるべきであろう。

 五味川や原田は別にして、1950年代中盤は石原慎太郎に代表されるように、若い新人作家が文壇に颯爽と登場した時期でもあった。『職業作家の生活と出版環境』第四章(中野綾子氏)では、中村光夫の文章(「現代文学の可能性 最近の新人の進出ぶりについて」(『読売新聞』1958.9.1夕刊)が引用され、石原慎太郎の芥川賞受賞により、中年に達した「文学修行者たち」の当惑する様子が紹介されている。中野氏は「芥川賞を目標にしてきた中年作家」として榛葉にも言及しているが、中村の文章の冒頭には「ゆく先々の地方都市で、新聞記者や同人雑誌の人たちから、判でおしたように、同じ質問を浴せられて驚いた」とある。平田次三郎「同人雑誌の問題点」(『群像』1957.6)などでも指摘されているように、石原の芥川賞受賞が象徴していたのは、〈同人雑誌などでの文学修行→文壇〉という職業作家になるためのコースの瓦解であったと考えられる。

 この時期の榛葉が作家としての生存戦略に苦慮していたことは確かであろうが、「同人雑誌作家」などの「文学志望者」とは立場が異なる。中間小説の隆盛という文脈と、文学修行を経ない新人作家の出現という問題がそれぞれ、榛葉の純文学志向にどのように関わっているのかを改めて整理する必要があるのではないだろうか。

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