黒澤 勉・小松靖彦編『未墾地に入植した満蒙開拓団長の記録 堀忠雄『五福堂開拓団十年記』を読む』より「はしがき─満蒙開拓団の悲劇の中の人間の「可能性」」を公開
Tweet黒澤 勉・小松靖彦編『未墾地に入植した満蒙開拓団長の記録 堀忠雄『五福堂開拓団十年記』を読む』より「はしがき─満蒙開拓団の悲劇の中の人間の「可能性」」を公開いたします。ぜひご一読ください。
黒澤 勉・小松靖彦編
『未墾地に入植した満蒙開拓団長の記録
堀忠雄『五福堂開拓団十年記』を読む』
ISBN978-4-909658-71-5 C0036
四六判・並製・252頁
定価:本体2,400円(税別)
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はしがき
─満蒙開拓団の悲劇の中の人間の「可能性」
小松靖彦
「国策」だった満蒙開拓団
二〇世紀前半、多くの日本人が農業移民として中国東北部に渡った。その数は約二七万人と言われる。今日、その移民団は、「満蒙開拓団」と呼び習わされている。
満蒙開拓団の派遣は、大日本帝国政府による「国策」であった。当時、中国東北部に駐屯した日本陸軍の「関東軍」も、派遣を積極的に推進した。満蒙開拓団の派遣先は、中国東北部に日本が建てた傀儡国家「満洲国」である。「満洲国」政府をはじめ、日本が設立した国策会社・南満洲鉄道株式会社(満鉄)、日本と「満洲国」合弁の国策会社・満洲拓植公社(満拓)などの企業が、満蒙開拓団に深く関わった。
当初「移民団」と称された満洲農業移民は、一九三六年(昭和一一)に、政府によって「二十ヵ年百万戸送出計画」が決定された後、「開拓団」と呼ばれるようになる。しかし、ほとんどの場合、真の意味での「開拓」からは遠いものであった。実際には、「満洲国」政府が選択し、満拓が買収した現地住民の既墾地に入植したのである。
一九四五年、「満洲国」の崩壊によって、満蒙開拓団は過酷な運命に見舞われることになった。関東軍に置き去りにされた人々は、南下してきたソビエト連邦軍の攻撃と、かつて土地を奪われた現地住民からの激しい襲撃を受けたのである。それらから逃れるために集団自決を選んだ開拓団もあった。一方、生き延びるために南をめざした開拓団でも、逃避行の中で多数の人々が病や飢餓に斃れた。
異彩を放つ移民団、五福堂開拓団と堀忠雄
このような満蒙開拓団の悲惨な歴史の中にあって、異彩を放っている移民団がある。それは、堀忠雄(一九一〇〈明治四三〉~二〇〇三〈平成一五〉)を団長とする新潟県派遣五福堂開拓団である。五福堂開拓団は、ほとんどが未墾の土地に入植した。一部の既墾地については、現地住民がそのまま耕作を続けることを認め、現地住民たちとの間に良好な関係を築いた。
日本の敗戦が伝わると、五福堂開拓団は直ちに「満洲国軍」に降伏し武装解除した。その後到来したソ連軍に対して、耕作を続け越冬することを訴え、これを認めさせた。中国共産党支配下に入ってからも耕作を続け、五福堂開拓団が解散となって帰国の途に就いたのは、一九四六年九月三日のことであった。敗戦から一年余り、五福堂開拓団は身を守りきったのである。中国共産党によって残留を命じられ、専門的技術を必要とする仕事に従事させられた人々(これを「留用」と言う)や、炭鉱労働者とされた人々などもあったが、多くの団員が帰国を果たすことができた。
こうした五福堂開拓団のあり方をリードしたのが若き団長・堀忠雄である。二七歳の誕生日の目前に団長に着任(一九三七年七月)し、開拓団解散時には三六歳であった。堀は、開拓団経営の方針を、地主制度とその因襲から解放された農村造りに置いた。敗戦直後には、団員全員が生き抜くことを指針とした。満蒙開拓団長としての堀の行動は、常に理性的であった。
堀忠雄の新たな資料
本書は、堀の生涯を紹介し、新たな資料として、堀の手書き本『拓務省第六次 五福堂開拓団十年記(巻一)』(以下、『五福堂開拓団十年記』)を活字に起こし、注と解説を加えたものである。堀は生前、五福堂開拓団に関する文章を数多く発表しているが、『五福堂開拓団十年記』には、それらの文章には書き尽くされていない、団長としての理想や逡巡・後悔、関東軍や満拓などとの厳しいやりとりが鮮明に記されている。堀は自身の夢を、
唄う村民にしよう。歌う村を創ろう。踊る拓士と共に人生の歓喜を配ち合う。その中から新しい歴史を軌き続けてゆきたい。(本書四七頁)
と記している。先遣隊の入植から太平洋戦争初期までの時期の出来事を記す『五福堂開拓団十年記』には、開拓の喜びを民謡で表現する村民たちの姿が生き生きと描かれている。その一方で、水田耕作の失敗や団員間の軋轢、不慮の事故で亡くなった団員と開拓団を去って行った女性たちの姿も描き込まれている。『五福堂開拓団十年記』は、常に理性的行動をとった堀の内側にあった感情のゆらぎの記録として、また、敗戦以前の五福堂開拓団の暮らしの記録として極めて貴重である。
『五福堂開拓団十年記』は、一九六九年頃に執筆された。堀はその三年後の一九七二年、岩手県におけるすべての公務を辞し(堀は敗戦後岩手県で開拓の指導に当たった)、かつての団員の訪問を開始している。『五福堂開拓団十年記』は、満蒙開拓団の歴史の真実を明らかにするための旅を始めるに先立ち、堀自身の心の整理を試みたものであったと思われる。
表紙には妻の着物
手書き本である『五福堂開拓団十年記』はあくまでも堀とその妻・史子(表紙に史子の着物の裂を使用〈第二部扉写真参照〉)のための記録であったと見られる。しかし、端正なペン書きで清書され、きちんと製本された『五福堂開拓団十年記』の書物としての姿には、真実を記録し後世に伝えたいという強い思いが滲んでいる。
本書の構成
新資料である『五福堂開拓団十年記』の理解を深めるために、本書では次のような三部構成をとった。
第一部において、堀忠雄の生涯を解説した。特に五福堂開拓団長就任に至るまでと、敗戦後の活動について詳しく記した。第二部として、『五福堂開拓団十年記』の翻刻を注とともに収録した。『五福堂開拓団十年記』は、一九三七年六月から一九四二年一〇月までの五年間の五福堂開拓団の出来事を記録する。第三部に、敗戦後の五福堂開拓団の歴史を補うものとして「私は終戦にこう対処した」、また、満蒙開拓団についての堀の考えをより明確にするために「満洲開拓団受難を考える」、「開拓忌三十三年」という三編の堀の文章を収録した。
満蒙開拓団の引き揚げが始まった一九四六年から七五年を超えた今、開拓団を直接知る人々も少なくなり、満蒙開拓団は遠い記憶となりつつある。しかし、満蒙開拓団の派遣は、近代日本の決して忘れてはならない歴史的出来事である。『五福堂開拓団十年記』は、満蒙開拓団とは何であったかを知るための新たな材料を提供するものである。そして、悲劇的な満蒙開拓団の歴史の中になおも存在していた人間の「可能性」を伝えてくれるものである。この『五福堂開拓団十年記』によって、満蒙開拓団の歴史が改めて思い起こされることを願ってやまない。
*なお、編者は「満洲国」建国を肯定するものではない。「満洲国」などの用語は、歴史を伝えるものとして使用した。また、堀忠雄の文章には、「満洲国」について肯定的な発言も見られるが、歴史の一つの証言として捉えていただきたい。