アルバイト日誌「卒業を迎えて」(2022.3.31、れい)

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 こんにちは、れいです。先日無事に大学卒業を迎え、この4月からは大学院に進学します。稚拙な言葉ですが、高校生の時に進学先と学部、学科を決めて、そして入学してからの4、5年間は本当にあっという間でした。文学部という場所で学べたこと、そして今後も興味や関心のあることに対して問いを立て、考えていけることは幸せなことです。

 この4年間、初めて会う方に「日本文学科です」とお話しすると、「本が好きなんだね」「古典を読んでどうするの?暗記するの?」と返されることが度々ありました。実際私は本が好きですし、また古典を読んで明日世界が変わるといったことはおそらくありません。ただ、私が思っている以上に、文学研究の意味やその内容が多くの方々にとって共有されていないのだなと感じました。確かに研究の入り口には、読んで味わった時の感動がある場合も多いのですが、いわゆる趣味の読書と研究は異なります。そして「暗記」というワードが出てくるのは、学校で「古典を暗記した」という記憶が重く横たわっているからなのでしょう。『源氏物語』が繰り返し写されてどのように読まれてきたのか、なぜ古典の言葉が活字として今読めるのか、全く知らないのだなとショックを受けました。

 私は、日本文学科での学びを通して、本文を読み取る力、そして受け取った言葉をどのように整理して他者に伝えるかというアウトプットする力が鍛えられたと思っていますし、言葉の変化と各作品の受容の様相から、「言葉」がいかに人々の生活において根源的かつ流動的なものであるかを知りました。「言葉」に対する感度が高くなったことは大きな財産であり、また生きるための力に直結しているのだと、今すでに実感しています。文学部は、本をただ読んでいる学部ではないことを、声を大にして伝えたいです。

 先日、オンラインで行われたコテキリの研究集会に参加した際、古典籍を教材としてどのように活用するか、様々な実践例が提示され大変勉強になりました。また、その古典籍には日本の文学のみならず、理学書など他分野の本も含まれており、和本の範囲の広さに改めて驚かされました。そして「古典」=「暗記」というイメージを脱却するためにも、教科書に載っている活字だけではなく、くずし字に触れる、古典籍に親しむことが大切だと考えさせられました。

 私が大学院に進学する理由は様々あるのですが、卒業時に高校の担任の先生が「れいさんは研究に向いていると思うよ」とおっしゃっていたことが一つのきっかけとなっています。私が日本文学科を選んだのも、高校の国語の授業で出会った作品によるものであり、教育の力の大きさを私自身が実感しており、また一つ一つの授業が将来の「文学に対する姿勢」を作っているのだとも感じます。院進後は、卒論の研究をより深めていくとともに、教育の視点も強く持っていたいと考えています。