地域社会と歴史文化(平川 南)★『地域歴史文化継承ガイドブック』全文公開
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地域社会と歴史文化
文●平川 南
1.地域住民と自治体史
阪神淡路大震災・東日本大震災など、列島各地で頻発する災害の被災地復興に自治体史、地域の歴史文化研究がどれほどの意義を有するか、改めて問わなければならない。
自治体史は、言うまでもなく地域社会の歴史文化を明らかにして、それぞれの地域の活動の基盤と、未来を切り拓くために活用することを目的とするものと理解している。
1)神戸大学大学院人文学研究科地域連携センター
本センターは、兵庫県や県内各自治体と連携して、地域の歴史文化を活用したまちづくり・地域づくりの試みや、地域歴史遺産を次世代に継承していこうとする取り組みの支援を実践している。その一環として出版された『地域歴史遺産保全活用ハンドブック─兵庫県版─』より、その一例を紹介しておきたい。
地域史料を整理して保全する─兵庫県丹波市棚原地区─
古文書を読んでみたいという人は多いが、古文書を整理したいという人は珍しい。丹波市の棚原地区では、住民でつくる棚原自治会パワーアップ事業推進委員会が中心となって、地元の庚申堂という古いお堂に保管されていた地域の古文書を整理している。きちんと整理し、目録を作成しておくことで、次の世代へ引き継いでいきたいという思いから、同委員会の上田脩氏が、神戸大学大学院人文学研究科地域連携センターに協力を求めたのが始まりである。専門家から、整理の方法や目録の作成、撮影の仕方などを教えてもらい、住民自身の手で整理を進めている。もちろん整理するだけではなく、内容も読んで、活用を図っている。古文書を読む会を開催し、その成果をもとに2011年には、『古文書から分かった江戸時代の村のすがた』(棚原自治会パワーアップ事業推進委員会編刊)という本を発行した。
2)町民による民具調査保存活用─福島県南会津郡只見町─
福島県南会津郡只見町は日本有数の豪雪地帯である。「会津只見の生産用具と仕事着コレクション」は、雪と山と川からの恵みによって授けられた、奥会津只見の民俗文化の宝とされている。
只見町で民具の整理が始まったのは、1990年(平成2)、きっかけは只見町史編さん事業であった。民俗調査を進めるなかで、20年以上にもわたって集められた民具は、町民によって計測、カード記録、撮影が行われ、1年後には4,417点の民具が整理・分類された。その成果は1992年(平成4)に『図説会津只見の民具』只見町史資料集第一集として刊行された。
1998年(平成10)度からは、文化庁の補助を得て、新たな民具整理事業が始まり、町民による「只見町民具と語る会」が発足、町も只見町民具活用委員会を設置した。その理念は、自分たちの使った民具は、自ら記録して、子孫に残すというものであった。さらに、1998年から3年間は、武蔵野美術大学生の応援を得て、民具や作業図が作成された。
2003年(平成15)には、只見町の民具のうち2,333点が、「会津只見の生産用具と仕事着コレクション」として国の重要有形民俗文化財に指定された。
また、小学校や中学校において、総合的な学習の時間に民俗資料の見学と体験がさかんに行われている。そこでは、整理に携わった町民が、名前や使用方法などを子どもたちに直接教えている。この運動は、子どもからお年寄りまであらゆる町民が民俗資料に目を向け、自分たちの民俗文化財を大切にする心を育む試みとして注目されている。
3)大字誌
さらに、兵庫県姫路市香寺町の大字ごとの字誌作成に始まり、福島県浪江町・双葉町地区の住民らは、東日本大震災の地震と津波、さらに原子力発電所の爆発事故による放射線汚染という複合災害から大字誌編さんの気運が高まり、西村慎太郎氏(国文学研究資料館)らの研究者と住民らによる『大字誌 ふるさと請戸』(発行者・大字請戸区長 鈴木市夫、2018年)、『大字誌 両竹1』(2019年)が相次いで刊行され、新しい自治体史編さんとして今後の各地への展開が期待される。
各地域に所在する歴史・考古・民俗などの幅広い資料とその地域の歴史文化を育んできた自然環境こそが、豊かな地域社会、そして日本の歴史文化を生き生きと語るための重要な素材となろう。気候変動や植生の遷移などの長期的な環境の変化のみならず、地震、洪水、火山爆発など人の制御できない環境の短期的激変に人がどのように対応してきたのか、また、日常的に人が自然とどのように関わってきたのかを明らかにすることこそ、歴史の真実の姿に迫る新しい視点となり、これまでと異なる各地域の歴史文化の全体像を描くことができるはずである。さらに、地域の固有の歴史文化像を描くうえでは、景観描写も含め、文学作品もきわめて重要であり、文学編そして自然編の充実が今後の自治体史に強く求められる。
2.新たな視点からの地域社会像構築の実践例
─埋もれた系図の発見から列島内地域間交流を解く〈古代の紀伊・甲斐・陸奥国そして北方世界との交流〉─
地域から従来の日本の歴史文化像を見直す
私自身、地域の歴史文化を掘り起こすことの大切さを強く認識したのは、2011年(平成23)東日本大震災後の被災地の人びととの交流からである。震災の前年、2010年11月に私が講演で訪れ、眺めた岩手県陸前高田市の風景は、跡形もなく失われてしまった[❶]。しかし、沿岸に暮らす人びとは、過酷な状況にありながらも、果敢に復興へ向かった。そのエネルギーは、これまでこの地で育まれてきた、豊かな歴史文化への強い思いから生まれていることを知った。
大震災前の高田城から見た陸前高田市街地
被災後の市街地
❶東日本大震災前の高田城から見た陸前高田市街地と被災後の市街地
2021年(令和3)現在、コロナ禍によって、社会のさまざまなひずみが顕在化してきている。近年、地域社会の画一化が著しく進行していただけに、これまでになく、それぞれの地域社会の固有のあり方が、いま問われている。
そこで、地域社会における歴史文化の何を継承し、地域固有の自然環境と歴史文化資料からいかに新たな地域社会を形成できるか、ということではないだろうか。
日本列島における各地域から従来の日本の歴史文化像を見直し、新しい歴史文化像を構築できないか、との試みである[❷]。
❷古代の国名と七道
歴史文化資料を特定の地域の視点から分析するならば、地域社会の根幹に関わる特質と課題がすでに古代に存在あるいは萌芽を確認することも可能であり、また国家を介しない国内外の地域間交流の実態も解明できるであろう。
その具体的な一例を近年、新たに発見された古代の有力氏族・大伴氏の系図を取り上げてみたい。
甲斐国の有力氏族・大伴氏の交流の実態
1979年(昭和54)、新たな大伴氏の系図が、山梨県東八代郡(現笛吹市)一宮町の浅間神社の宮司家・古屋氏に所蔵されていることがはじめて世に公開された。この系譜は「古屋家家譜」と呼ばれている。甲斐国における大伴氏の活躍の姿は『日本書紀』などの史料に次のように描かれている。
甲斐国の"連歌発祥の地"として知られる酒折の地(現甲府市)は東海道と東山道が結節する軍事的な要衝であり、ヤマトタケルノミコトは東国「征討」の際、酒折の地で「靫部」を、同行した副将軍格の大伴武日に賜った。このことは、古く甲斐国に靫負(矢を入れる靫〈ゆき〉を負う兵士)が設置され、大伴氏の管掌下にあったことを反映している[❸]。
❸東海道・東山道を結ぶ「交い」と酒折宮─「交ひ」→甲斐の国名へ─
「古屋家家譜」の古代部分の全面的検討を加えた歴史学者溝口睦子氏は、私なりに要約すれば、次のように史料的意義を述べている〔溝口1987〕。
「古屋家家譜」は、いくつかの新史料を含む優れた古系譜である[❹]。しかし、その内容はすこぶる複雑な系譜でもある。そこで、この系譜を「A」「B」二つの部分に分けた。大伴氏は甲斐国における大伴部の首長であって、古くから甲斐国の土着豪族であり、中央の大伴氏の本系同族とはいえず、そこで8世紀代にさかのぼる大伴氏の本系図「A」を入手したと考えられる。すなわちこの「古屋家家譜」は、甲斐国の9世紀以降の系譜である「B」に、それ以前の大伴系の本系図「A」をもってきてのせた系図である。
❹甲斐国の大伴氏が手に入れた「大伴氏の本系図」部分(「古屋家家譜」より)
このことは「古屋家家譜」を通して、大伴氏の貴重な本系図を手に入れることができたことを示している。
本系図の筆頭の高皇産霊尊は、天孫降臨の司令神となり「皇祖」と称されている。
タカミムスヒ以下の神統譜(神の系統図)部分は、陸奥国北部(陸奥国小田郡島田邑など)および紀伊国(現和歌山県)名草郡との関わりの記載部分に重要な意義がある。
大伴氏と陸奥国・紀伊国との関わり
この大伴氏の本系図に記載されている陸奥国北部と紀伊国名草郡との関わりは、古代の歴史書『続日本紀』に基づく記述であろう。
『続日本紀』神護景雲3年(769)11月25日条では、陸奥国牡鹿郡(宮城県石巻市)の俘囚(国家に服属した蝦夷)大伴部押人の申し出によれば、押人らは、もと紀伊国名草郡(現和歌山市)片岡里の人であり、その祖大伴部直(直は古代の姓〈かばね〉)は、ヤマト政権に反対する東北地方の勢力(蝦夷)を制圧する「征夷」事業に赴き、小田郡(現宮城県涌谷町)島田村に住まいしていたが、そののち子孫は俘囚の身分となってしまった。そこで、俘囚の名を解いて、一般の農民として認めてほしいと申請し、許されている[❺]。
ここで注目すべきは、大伴部直が紀伊国名草郡人であること、さらに名草郡は5世紀後半から6世紀後半にかけて、朝鮮半島で最も活躍した紀伊水軍の本拠地であったということである。「紀の水門」は、紀ノ川河口のデルタ(三角州)地帯にあり、多数の船が停泊できる水軍の本拠地としては最適の条件をそなえた水郷であった[❻]。このデルタ地帯を包括する紀伊国名草郡は現在の和歌山市の大部分に相当する地域であるが、水陸の要衝を占める政治・経済上の中心地であるとともに、肥沃な農耕地帯であった。この農業地区を背景にして、「紀の水門」を掌握することにより、名草郡一帯に巨大な勢力をふるったのが、紀国造(地方官)の紀直とその一族であった。
❺古代の城柵と北上川流域
❻古代の紀ノ川・紀の水門と名草郡
神護景雲3年条の記事を大きな視点からみると、紀伊水軍は朝鮮半島で活動するのみでなく、ヤマト王権の「征夷」事業のため、「紀の水門」から船を列ねて北上し、東北地方最大の大河・北上川の河口・牡鹿の地に来着したという重要な事実も読みとることができる[❼]。古代の牡鹿の地は現在の宮城県石巻市であり、2011年の大震災の時、大津波は市街地に壊滅的被害を与え、さらに北上川を50キロも遡上し、大きな被害をもたらした。大伴連は靫負を中央で管掌し、古代の水軍には鉄砲などがなかったので、弓に長けた射手は欠かせない存在であった[❽]。遣唐使船も船が襲われた場合の備えとして射手を配備していたことが知られている。
❼旧北上川の河口と宮城県石巻市内(「石巻の歴史」第1巻 通史編〈上〉石巻市史編さん委員会、1996年)
❽
・朝日新聞 2015年(平成27年)8月21日(金)・朝日新聞社 ©いしいひさいち
・弓を射る兵士(靫負=矢を入れる靫を負う兵士)(復元模型、福島県文化財センター 白河館まほろん提供)
紀伊国名草郡出身の大伴部押人が大伴氏の本系図(現時点では未確認)に手を加えた系図を、甲斐国の大伴(伴)氏が入手したものが、「古屋家家譜」の大伴氏本系図部分であろう。
北方世界へのあこがれと交易
この「靫大伴連」など古代の武人があこがれたのが、北方世界に生息するオオワシの羽であった[❾]。オオワシの羽は矢羽根としては最高級であり、北方交易によってのみ入手できる貴重なものであった。江戸時代に松前藩(現在の北海道松前郡)から仙台藩伊達家に贈られたオオワシの矢羽根は現在も伊達家に遺されている。気仙地方は、時代は下るが、鎌倉中期の『源平盛衰記』に産金の地として描かれており、奥州藤原氏の黄金文化を支えたのも気仙地方の金とされ、金・鉄・漆などと、北方のアザラシなどの海獣皮・オオワシの羽などと交換して入手し、中央に献上していた。
❾オオワシ、矢羽根(仙台市博物館蔵)
気仙地方が北方交易拠点であったことを物語る出来事は、次の記事である。『日本後紀』弘仁元年(810)10月27日に渡嶋の狄二百余人が気仙郡に来着したという。「渡嶋の狄」とは津軽半島沿岸部から道南地域の蝦夷を中華思想に基づき、北の蛮民「狄」と呼称し、気仙郡が長年にわたり、渡嶋の地との北方交易拠点であったことから沿岸近くを船を連ねて、おそらく移住しようとしてきたのではないか。翌年の春、帰還させられたのだが。
2011年3月11日の大震災の前年、2010年11月に陸前高田市で開催された「気仙登場1200年記念講演会 再発見!古代の気仙」はまさにこの弘仁元年(810)10月の「気仙郡」の初見から1200年記念であった。私は講演で、古代の気仙地方が三陸沿岸の中核として、都へのアザラシなどの海獣皮や昆布などの進上と、北方世界との交易拠点であったことを述べた。陸前高田の市民の方々は、これからの地域固有の豊かな歴史文化を掘り起こし新たな街づくりの第一歩をスタートさせようとした、まさに矢先の3月11日の大震災であった。
「靫大伴連」に代表される大伴氏がその金やオオワシの羽などを求めて、気仙地方の中核・広田湾の港に入り活動したことから、その地に大伴武日長者伝承を生み出したのではないだろうか。
大伴武日長者伝承
陸前高田市の人びとに親しまれている「武日長者」伝承は、『陸前高田市史 第六巻 民俗編(下)』により要約すると次の通りである[❿]。
❿岩手県陸前高田市内の金山分布と大伴武日長者伝承地
高田町の鳴石に「武日長者」の邸があったと伝えられている。古老たちの話によると、その昔、日本武尊東征のおり、副将であった「大伴武日」が、蝦夷平定後ここにとどまり、近辺一体を開拓して、奥州でも有名な大長者となったという。この武日長者には2人の娘がおり、姉を朝日姫、妹を夕日姫といった。
用明天皇のころ、朝廷では諸国から采女(女官)を募り、奥州では朝日姫が選ばれた。ところが都へのぼる旅の疲れから重い病にかかり、今の宮城県の北部、栗原郡梨崎村の姉歯の里で亡くなった。そこで妹の夕日姫が、姉のかわりとして都に召し出されることとなり、途中、姉の亡くなった姉歯の里に立ち寄り、その霊を弔うために、供養の寺を建て、「墓じるし」として、松の木を植えた。
この松を「姉歯の松」と呼んだ。平安時代の歌物語『伊勢物語』に、「栗原やあねはの松の人ならば 都のつとにいざといはましを」という歌があるように、姉歯は、みちのくの歌枕として古来有名だ。現在も武日長者伝承地から都(西)へ向かう陸前高田市の気仙川に「姉歯橋」がある。
大伴氏の首長・万葉歌人の大伴家持(718~785年)は、782年(延暦元)には陸奥按察使鎮守将軍に、翌年には持節征東将軍に任命され、東北・多賀城の地で延暦4年に死去している。地域に埋もれていた一つの系図の発見が、大伴氏が東北地方・紀伊国・甲斐国などに残した軍事氏族としての足跡を明らかにした。
三陸沿岸の地に居を構え、豊かな資源に恵まれ、時には大きな災害に襲われても、この地に生活を営みつづける人びととの交流を通じて、私自身は改めて地域の歴史文化がその地域社会の基盤となっていることを強く感ずる。
山梨県の「酒折宮の謎」を解き明かす折に、大伴武日の存在に着目し、陸前高田市復興支援活動で地元の方から「武日長者伝説」のことを教えていただき、私なりの解釈を得ることができた。なお、私はこうした研究成果を2回にわたり、[付記]の陸前高田市および気仙沼市において市民向け報告会で発表した。
付記
「躍動する古代の気仙地域」、文部科学省科学研究費助成事業・基盤研究(B)「気仙地域の歴史・考古・民俗学的総合研究」(研究代表・石川日出志〈明治大学・考古学〉)による市民向け報告会「歴史・考古・民俗学から気仙地域の魅力を語る」(2015年2月15日、陸前高田市立横田基幹集落センター)
「大伴氏と気仙地方 黄金と矢羽根を求めて─甲斐国一宮浅間神社蔵「古屋家家譜」から─」、文部科学省科学研究費助成事業・基盤研究(B)「東北太平洋沿岸地域の歴史学・考古学的総合研究」(研究代表・七海雅人〈東北学院大学・中世史〉)による市民向け報告会「歴史・考古学から本吉・気仙地域の魅力を語る」(2019年2月24日、気仙沼中央公民館)
3."災害の記録と記憶"─石の鳥居に「貞観六年」と記す─
山梨県北杜市明野町上手(旧北巨摩郡明野村)宇波戸神社に石造鳥居が現存している[⓫]。鳥居は旧北巨摩郡地域に集中する石造鳥居のうちでも、かなり早い時期のもので、14世紀ごろの建立とされ、県指定文化財である。この鳥居の柱に「貞觀六年」の四文字が丁寧に刻まれている。この「貞觀(観)六年」(864年)という年紀は後世の追刻ではあるが、神社の参道に立てて神域を示す鳥居の柱に追刻するには一定の意義・祈願などが込められているとみるべきであろう。甲斐国において「貞観六年」といえば、まず、富士山の貞観大噴火を想起するであろう。
⓫
追刻「貞観六年」の拓本
神社側から見た石造鳥居に追刻「貞観六年」の場所を示した合成写真
宇波刀神社がある山梨県北杜市明野町から望んだ富士山
富士山の噴火は過去2000年に43回起こっており、歴史書などに記録されているものは、延暦噴火(800~802年)、貞観噴火(864~866年)、宝永噴火(1707年)である[⓬]。山頂からの火山灰と溶岩の総量は、延暦噴火が約8,000万立方メートル、貞観噴火が14億立方メートル、宝永噴火が7億立方メートルとされ、貞観噴火は桁はずれに大規模であったことがわかる。
⓬(荒牧重雄・太田美代著『日本一の火山 富士山』山梨県環境科学研究所発行、2008年より)
貞観6年(864)5月、富士山の大噴火によって、膨大な量の溶岩が森林地帯を焼き払い、本栖湖などに流れ込んだ。貞観大噴火から1000年を経て再生した大森林こそが"青木ヶ原樹海"である〔荻原2014〕。この大噴火の5年後、貞観11年(869)にマグニチュード8.3以上の貞観大地震が起こったことは、2011年3月の東日本大震災が約1100年前の貞観大震災と類似していると報道されたことにより広く知られるようになった。この噴火は古代の正史『日本三代実録』に詳細に記録されている。「貞観六年」は歴史書の記録と古代の人びとの記憶によって後世にまで伝えられていったのであろう。
宇波刀神社の建つ北杜市明野の地は、真正面に富士山を仰ぎ見る絶好の地である。この宇波刀神社は富士山逢拝所(はるか遠くから拝む場所)として建てられたのではないか。そのことを傍証するのが、境内に立つ1878年(明治11)の宇波刀神社の由緒を記した石碑である。石碑には、「明治十一年夏、浅間神社宮司兼大講義源朝臣八代駒雄謹誌」と記されている。石碑の作者が浅間神社の宮司であることに驚いた。富士山信仰の拠点である浅間神社と宇波刀神社との深い関係を明確に読みとることができる。各地の火山噴火による災害のたびに神社の破損や祭礼行事をおろそかにしたことの責任がしばしば問われている。
宇波刀神社は、古代における甲斐国巨麻郡内の格式ある式内社〔〈延喜式神名帳(927)〉に記載された神社〕であり、石造鳥居は14世紀ごろの建立とされることから近世の宝永大噴火(1707年)前後か、それ以降か、おそらく富士山に対する畏敬の念を込めて、宇波刀神社の石造鳥居に、「貞観六年」という文字を、富士山の史上最大の大噴火の記録・伝承に基づいて安穏を願って刻んだのではないだろうか。
災害の記録と記憶の貴重な歴史資料として、地域歴史文化継承の典型例として特記しておきたい。
参考文献
『地域歴史遺産保全活用ハンドブック─兵庫県版─』神戸大学大学院人文学研究科地域連携センター編刊、2013年
荻原直樹「駿河湾を豊かにする富士山の湧水」『BIO STORY』22、2014年
溝口睦子『古代氏族の系譜』吉川弘文館、1987年
☞ さらに深く知りたいときは
①平川南『全集 日本の歴史 第2巻 日本の原像』小学館、2008年
哲学者 廣松渉氏(1933~1994年)が呼びかけた座談会(1993年7月)の趣旨「現代の日本が抱えている様々な社会的・精神的な問題を根本的に考え直すためには日本の歴史を遡って考える必要がある。特に出発点にあたる古代の歴史を現代的な視点に立って再検討することが重要ではないか」、この趣旨に応える形で、古代人は自然とどのように向き合っていたか、米作国家・民俗信仰・東アジア文化交流などの原像を明らかにすることを試みた。
②平川南『東北「海道」の古代史』岩波書店、2012年
古代における東日本太平洋沿岸地域の歴史像を行政や軍事、交易を通して描き出し、人と自然の関わりから東日本大震災の被災地となった東北地方沿岸の古代史を解明する。大震災直後に執筆。
③平川南『出土文字に新しい古代史を求めて』同成社、2014年
遺跡から出土した土器や瓦、木簡、漆紙文書、あるいは石碑などに記された文字資料を丹念に解読し、これまで文献史料を中心に解釈し、描かれてきた古代史像を新たな視点から見つめ直す。
④平川南『新しい古代史へ1 地域に生きる人びと 甲斐国と古代国家』2019年
同『新しい古代史へ2 文字文化の広がり 東国・甲斐からよむ』2019年
同『新しい古代史へ3 交通・情報となりわい 甲斐がつないだ道と馬』2020年(すべて吉川弘文館)
新しい地域史の叙述の試みを甲斐国で実践してみた。これをケーススタディ(事例研究)として、各地域の研究者に、それぞれの地域から新しい歴史・文化像の構築を託したい。なお本章内で出典の断りのない図版はすべて上記より転載した。