アルバイト日誌「自分を知るためには」(2021.08.16、れい)

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前回のアルバイト日誌とあわせて読んでいただけると嬉しいです。

 コロナ禍になってから「正常性バイアス」という言葉を初めて知りました。「正常性バイアス」とは、緊急の事態が発生しても、今は正常であると思い込んで平穏を保とうとする心の働きのことらしいです。それを初めて知った時、人の認知がどれだけ危ういものかはっとさせられました。当然、災害や事故が発生した時に正常性バイアスが働いてしまうと逃げ遅れる危険があるので、きちんと現実を直視する必要があります。また、人命が脅かされる時だけでなく、日常生活の小さなことにおいても自分を守るためにこの働きは機能しているのかなと思う時があります。私は心理学には詳しくないので、それを正常性バイアスというのかは不明ですが「見なかったことにしよう」「まさか自分に限って」と思う瞬間は誰にでもあり、自分が過度に傷つかないようになっているのだと思います。その思い込みに対し、徐々に認知が補正されていけば良いのですが、残念ながら「正常」というバイアスが強くなり事実や本心を隠してしまうことがあるのも事実です。実際、私も先日気づかされたことがあります。アドバイスをいただいた時にとても納得がいったのと同時に、自分から自然と湧き上がってきた本音に対して、私自身が咀嚼しきれていないことに気が付きました。物事を、自分の気持ちを正しく認知し続けるのは難しいと知りました。

 世阿弥も「離見の見」と言っていますが、自分を客観的に観察することは簡単なことではありません。自分を見ようとして自分について考えるほど、その存在がどのようなものか分からなくなってきます。その時に助けになるのは、周囲の人からの言葉であり、また文学ではないかと思うのです。もっと端的に言えば、自分を知るためには他者の存在が必要不可欠である、ということです。ありきたりな言葉になってしまいますが、周りの方に意見を聞くこと、そして、読書をすれば色々な人の考えや人生を知ります。その中で共感や理解をしたり、疑問に思う経験を通して、私たちは自分が形作られていく、そのように考えています。

 前回から引き続いて「認知」の話に偏っていますが、古典をはじめ、言葉を知り自分のものにしていく面白さや魅力であったり、文学に触れることが自分自身を知ることに繋がることを伝えていくためには、やはり工夫が必要なのだと感じます。同じ作品でもそこに色々な方向からのアプローチがあれば、それだけ「楽しい!」「好き!」と感じる人も増えると思いますし、これからもその「伝え方」を学んでいきたいと考えています。