アルバイト日誌「認知する世界―時間の経過が見せるもの―」(2021.07.26、れい)

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 自分の考えていること、思っていることを上手く言葉にできず、アルバイト日誌を1回お休みしていました。そして、今回何を書こうと考えている中で、思い出したことがあります。昨年度受講した授業で先生がお話しされていた言葉です。

 「モノ(資料)の価値は本来的に不変(普遍)であり、人の評価は不安定なものである」

 聞いた時は深く考えることはなかったのですが、今になって強く納得がいきます。人の認知というものはいかに危うく、流動的であるか。時勢や流行、個人の経験によって、人の思考や判断というものは、時に歪みが生じるのです。同じ歌を歌っても人それぞれ違うように、私たちが見て、聞いて、認知している世界は、人によって色も形も違っていて、その姿や形を確実に捉えることは難しいのだと思います。

 最近、中学生、高校生の時の私を思い出すことが度々あります。毎日通学に使っていた電車からの風景、読んだ本や聞いた曲。そのものは変わっていないはずなのに、そこにいる「私」を重ね合わせてみると、確かに違います。そして、過去の自分を今の自分が俯瞰していて、戻ることのできない過去に対して、これまでの経験によって、今の私が補っている感覚に襲われます。そしてまた、多くの喜びや悲しみの積み重ねで今の私がいることも実感します。過去と今、それぞれは相互補完しているのです。認知は常に変化する、そして記憶は重層し、今の私の認知を形作る、そう思っています。

 中学生、高校生の時、国語の授業で読んだ『伊勢物語』『枕草子』や『銀河鉄道の夜』『智恵子抄』、『こゝろ』や『風立ちぬ』。その時にも、私の日常が、特別な「何か」へと変わる感動を覚え、時には私一人では消化することのできなかった悲しみと共鳴しました。今になって、それらの作品があるから、読んだから、私は強く生きられるという確信に変わりました。感動というものは、その時だけにあるのではなく、その時々の経験とともに深くなっていくものです。

 私たちの認知は、常に危うく、その物事を全て捉えられない時がある、と冒頭で書きました。物事というものは、経験が浅いからこそ、理解できないこともあり、経験が深まるからこそ、自分に引き寄せすぎて考えてしまうことがあるのではないかと思います。人の認識が変化していくことは、良いことばかりではないかもしれません。けれども時間の経過は、常に私たちに多面的でより奥深い世界を見せてくれます。目の前のことだけにとらわれてしまい、不安を感じ気を揉んでしまう時、その実感を強く握りしめていたいと思っています。