古代文学会四月例会(第733回)(2021年4月3日(土)午後2時〜5時、Zoom)※要申し込み

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研究会情報です。

●公式サイトはこちら
http://kodaibungakukai.sakura.ne.jp/wp/kenkyuuhappyoukai/reikai
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※申し込みは上記サイトをご確認ください。


日 時:2021年4月3日(土)午後2時〜5時
場 所:Zoom(登録後、参加用URLを含むメールがZoomより送信されます)

発表者:大胡 太郎 氏
題 目:ミソジニーの琉球文学と王権と男性-目取真俊『眼の奥の森』論を出発点にして-

要 旨:
 昨年末、学生との卒論ゼミで、ひとつ重大な指摘に衝撃を受けた。沖縄近代文学研究、特に目取真俊『眼の奥の森』研究史が抱え込むミソジニーである。沖縄を論じることと男を論じることの混同と分離分断によって、沖縄を、特に沖縄の〈傷〉を論じつつ、そこに女性を置き、そこに怒り、憤る男たちを立てながら、その姿を「沖縄」として浮かび上がらせるとき、男たちは「沖縄の〈傷〉」を抱えつつ、「無傷」に「男」のままなのだ。
 思えば、琉歌研究に今なお参照される(しかない)『琉歌全集』の「歌物語」はミソジニーに満ちているが、これはひとりその注釈者・島袋盛敏らに抱えられたものではなかった。組踊『執心鐘入』の「心」を始め、沖縄の文学作品と研究史に、不可避的に孕まれているミソジニーによって、「男」たり得、また「男」たり得ない、情況と自己(たち)を浮かび上がらせる「問い」と、これはなり得るのではないか。そこに浮かび上がるのは、「男であって男ではない」という不-可能性に満ちた領域ではないのだろうか。
 それゆえ、ならば、王権とジェンダーを問うた義江明子『古代王権論』(岩波書店)、特に第三章が論じる琉球の王権権力とジェンダーの問題を批判的に検討しつつ、系譜的に、かつ作品によって論が生まれるのではなく、論によって作品が励起的に読みとして構築されていく様相から、ミソジニーによって守られている「男」の姿において問い得てきた領域と、いまだ問われることのなかった領域にアプローチしていきたい。

司 会 :山本 大介 氏

※なお、発表資料及び要旨の著作権は発表者に帰属します。