東アジア文化講座1・染谷智幸「序 はじめに交流ありき 東アジアの文学と異文化交流」公開

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東アジア文化講座の第1巻・染谷智幸編『はじめに交流ありき 東アジアの文学と異文化交流』より、序文を公開いたします。
なお本講座の特設サイトはこちらです。あわせてご覧下さい。

本書の詳細●第1巻
文学通信
染谷智幸編『はじめに交流ありき 東アジアの文学と異文化交流』東アジア文化講座1(文学通信)
ISBN978-4-909658-44-9 C0320
A5判・並製・カバー装・448頁
定価:本体2,800円(税別)

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はじめに交流ありき
東アジアの文学と異文化交流


染谷智幸


1 はじめに
 「はじめに言葉ありき」とは、すべては神の言葉から始まったというキリスト教の聖句である(新訳聖書ヨハネによる福音書)。解釈に諸説があるが、事物に付随する形で「ことば」が生まれたのでなく、「ことば」が逆に事物を存在させたという摂理の意で使われることも多い(鈴木孝夫『ことばと文化』岩波書店、一九七三年など)。このひそみにならえば、いま東アジアの文化・文学を考える際、最も重要な視点の一つとは「はじめに交流ありき」ではないだろうか。

2 激動の七世紀と日本
 たとえば、すでに人口に膾炙した話だが、日本という国号や、その国号制定の折に生まれた制度(律令制)の背景を探る時、この「はじめに交流ありき」という摂理がまさに縦横無尽に力を奮っていたことに気付く。

 日本が「日本」という国号を使う前に「倭」と呼ばれたことはよく知られている。その倭が日本になったのはいつなのか。これも諸説があるが、七世紀後半から八世紀初頭であることには学者の意見がほぼ一致している。すなわち、隣国の朝鮮半島が大いに乱れ、高句麗・百済・新羅の三国体制が動揺し、最終的に、唐と新羅の連合軍が高句麗・百済を滅ぼした時である。日本は百済との同盟的関係から朝鮮半島に出兵したものの、唐と新羅の連合軍に破れた。これが白村江の戦い(六六三年)である。
 この後、倭(日本)は、新羅と唐との連合軍(とくに新羅)との戦いに備えて、防衛線策定による土塁の建設など準備しながら、国内の豪族連合的体制を中央集権的、とくに中国で行われていた先進的な政治体制、すなわち律令制を整えることで新しい事態に対峙しようとした。結局、唐と新羅が対立したことで、日本の備えは杞憂に終わり、北東アジア情勢はさらに複雑化するのだが、そうした中で日本という国号が登場してくるのである。つまり、日本という国号を旗印にし、天皇を中心にした中央集権的な政治体制を作りだした日本は、激動の東アジアとの交流によって開眼した世界観と、唐と新羅に対する緊張感・恐怖感の中から立ち上がってきたということになる。

 このことは、東アジア、とくに日本の文化・文学を考える上で決定的に大事である。なぜならば、日本という国は東アジアの激動の交流という坩堝から立ち上がってきたからである。日本は「はじめに交流ありき」の国だったと言っても良い。むろん、中国や朝鮮もそれは同じなのだが、日本はとくにその傾向が色濃かったのである。

 ところが、日本は島国だという地理的条件が曲解されて、古代から独自の文化を育んだかのような幻想が横溢してしまった。それは無理ないことでもある。先の中国・新羅に対抗しようとした日本という図式は、いかに相手側からさまざまな影響を受けようとも、さもそれらは自らが作り出したかのように振る舞うことを要求したからである。いささか古めかしい言葉を使えば、ルサンチマン(怨恨)ということになるが、そうした心性からは相手からの影響を認めるような資料は残りにくかったであろうし、また事実あまり残っていないのである。しかし、先の七世紀の日本の状況を考えれば、東アジアの日本への影響が計り知れなかったことは言うまでもない。要は、影響には表面化するものとしないものがあり、実は表面化しないものの方がより深刻な影響の授受があることになる。

 よって、東アジアの異文化交流とは、そうした表面化しないものにも十分注意を払って見ていく必要があるのである。

3 交流からみる東アジアの文化と十六世紀
 この交流の視点の重要さを鑑みるに、従来の日本文化・文学研究が、あまりにそうした視点を等閑にしてきたことに驚かざるを得ない。自省の意味も込めて言えば、その象徴が、従来の日本古典文学研究であろう。たとえば、日本の古典文学研究における、東アジアへの視点は、中国(古典)との比較、つまり中国から日本への線条的、かつ一方通行的影響の検証に終始してきた。むろん、これとて一国中心主義よりはましなのだが、こうした視点からは、朝鮮やベトナムを始めとする他の東アジア周辺国家・民族の文化活動や、そことの日本の交流が抜け落ちてしまうだけでなく、周辺国家や民族同士に広がろうとする交流や葛藤も抜け落ちてしまう結果になった。

 もちろん、これは先に述べた表面的な交流ということになるから、ここからさらに一段、表面化しない、見えない文化交流の影響を捉える必要があるのだが、そこへ行く前に、やはり表面的な、目に見える文化交流の歴史を押さえておく必要がある。

 とはいえ、この限られた紙幅で交流史全般に眼を向けることは無理であろう。そこでここでは、東アジア史を見渡して、最も重要だと思われる文化交流の歴史に絞って叙述を試みたい。その最重要の交流史とは、時期は十六世紀、エリアは東アジアの周辺域である。

 東アジアの周辺は、古くから活発な交流・交易が行われていた。代表的なのは、三世紀に始まる中国の入竺僧によるインドとの交流、日本がまだ倭であった時代(四世紀末)の朝鮮(三国時代)半島との交流(好太王碑文に載る倭の半島進出や侵攻)や、その後の百済滅亡と倭への文化人や文化の渡日、また中国南部の東南アジアとの南海交易などがあった。しかしこれらは東アジアとその周辺という域内を出るものではなかった。

 また、東アジアとグローバルな世界との交流と言えば、古くはシルクロードを通しての地中海世界との交流があり、元のヨーロッパ侵攻(十三世紀)、南海交易を通してのムスリムとの交易(十三世紀)、明の中東・アフリカへの大遠征(鄭和、十五世紀)などがあった。しかし、これらも限定的なもので、本格的なグローバルな世界との接触・交流は、世界史を画すことになった十五・十六世紀の大航海時代に至って起こったのである。

 この時代における東アジアのヨーロッパ世界との接触・交流は、中国海岸部、日本、琉球、台湾、ベトナム、マニラといった東アジアの周辺国家・民族・都市を中心に、国家や民族の枠を越えた海商・海賊などの勢力が積極的にヨーロッパ勢力と交流を繰り広げたものだった。

 この大航海時代のグローバルな東西交流を第一波とすれば、第二波は近代の産業革命によって強国となった西欧諸国の世界システム化(イマニュエル・ウォーラスティン『近代世界システム』)の中に東アジア諸国が組み込まれた十九世紀のことである。そして、この第二波の中からいち早く近代的な発展を成し遂げていったのも、同じく日本を始めとした東アジア島嶼部、中国海岸部といった東アジアの周辺領域の国家や都市だった。

4 中心・周辺・亜周辺
 先に、日本の古典文学研究が、アジアや東アジアに目を配る時、中国から日本への線条的、かつ一方通行的影響の検証に終始してきたと述べ、その弊害として朝鮮やベトナムなどの他の周辺文化の見落としがあると述べた。たが、その周辺でも、朝鮮と日本を比較すればすぐ分かるように、中心との位置の取り方、周辺同士との関係の作り方など大きな違いがある。そこで、こうした東アジアの周辺域そのものへの見直しから、中国の周辺国家・民族を「周辺」(=朝鮮・ベトナム)と亜周辺(=日本・島嶼部)に分ける視点が提出され、注目されている(湯浅赳夫『「東洋的先制主義」論の今日性』、柄谷行人『帝国の構造─中心・周辺・亜周辺』)。東アジアを中心と周辺という単純な構造ではなく、周辺をさらに区分け・階層化することによって、周辺領域自体の複雑な動向や関係に目を向けようとする視点である。

 この亜周辺が重要なのは、周辺が中心文明・文化の影響力下あって、そこからなかなか自由になれなかった(と同時に中心よりも中心足らんとすることもあった)のに対して、亜周辺は比較的に自由であったことに加えて、他の中心文明・文化の亜周辺と対等で自由な交流が可能だった点である。

 地理的観点から言えば、海岸部や島の位置であり、宗教的観点から言えば、なんでもありの多神教であり、言語的にはハイブリッドな多様性を保持し、人間として見れば、あぶれ者・はみだし者ということになる。しかし、この亜周辺は、中心や周辺に比べて、交通と交易が発展しやすかった。とくに商業や資本制は、この亜周辺で著しく発展したと言ってよい。そして、この商業や資本制、とくに資本制が現代文明の礎の一つになっているとすれば、亜周辺の生成と展開の歴史を探査してみることは、現代を読み解くことはもちろん、未来を考えてみる上で魅力的な視点を我々に提供してくれるはずである。

 たとえば、かつて大林太良は「海と山に生きる人々」(『山民と海人』日本民俗文化体系・第五巻)という文章の中で、この亜周辺のシステムとしてきわめて魅力的な視点を指摘していた。それは、西日本と朝鮮・中国東海岸の港湾における人的・文化的交流の様相を明らかにした上で、そうした遠方域の港湾同士では、酷似した文化現象が現れるのに、港湾のすぐ近くの後背地とは、その文化に著しい違いを見せていたという指摘である。

 すなわち、この亜周辺に展開する文明・文化とは、たとえ遠方であっても、無主の海、そこでの海運を介して直接につながり、同じ文明・文化を育むことができたということである。いわば、トポス(場所)を越える文明・文化の存在が、この亜周辺には可視化されていたのである。

 とすれば、東アジアの亜周辺・島嶼部の港湾を中心にした都市において、他の地域・海域・亜周辺域とどうつながっていたのかはきわめて重要な問題である。たとえば、十六・十七世紀にアジア全域に広がった日本人町の多くは、アユタヤ(現タイ)やホイアン(現ベトナム)が良い例のように、その周囲に当地の町のみならず、フランス・オランダ・中国といった主要国家の人間達が居住する地域に隣接していた。ここでさまざまな交流があったはずだし、また、近代以降もそうした港湾都市で世界の国家・民族が交流を深めたことは言うまでもない。

 なお、この場所の制約を逃れて自由につながることができるという原理は、現代のS‌N‌S(ソーシャルネットワークサービス)にも通じることである。デジタル回線でつながるS‌N‌Sやインターネットと同じ原理が、過去にも無主の海という回線を通じて存在していたとすれば、それはたとえ原初的なものにとどまっていたにしても、現代の問題を考える上でさまざまな知見をもたらすことになるだろう。

5 表面化しない交流
 こうした中心・周辺・亜周辺、あるいは周辺の複雑な構造・階層を理解する上で重要なのは文化・文学、とくに文学の視点である。

 言うまでもなく、文学研究とは、森羅万象を、事実の指摘やその考察のみならず、人間の想像力を基にした詩歌・物語などから心意伝承に至るまでを扱い、多面的で豊かな視点から、人間やその社会を探索することにある。

 本巻のテーマである「交流」には、古くからこうした心意伝承が神怪譚や奇瑞譚として深く関与していた。本巻に、東アジアの交流を跡付ける「東アジアの往還」、東アジアの周辺文化を解き明かす「島嶼の文化」に加えて、「海域と伝承」「東アジア聖地」を盛り込んだ意図はそこにある。また、現在では資本制(資本主義)という洋装をまとっている交易の世界でも、近代以前は様々な心意伝承や信仰と結び付いていた(「交易と文化」)。これらは言わば表面化しない交流である。

 さらに人間の想像力や心意伝承に注目することは、人間の共同体や国家・民族がそうした想像力や心意伝承抜きに成り立ち得ないことを見出すことになる。先にも述べたように、豪族の連合国家に過ぎなかった倭が、律令国家として脱皮して日本となったのは、白村江の敗戦以後の、唐・新羅中心の新しい東北アジア体制への緊張から来る、恐怖幻想抜きには考えられない。また新しくは、ヨーロッパや明治以降の日本を始めとする近代国家が、国家・国民・国語という共同幻想を持つことで初めて成り立ち、またその共同幻想がドミノ倒しのようにさまざまな国家・民族の近代国家化を誘発していったことが示すように(ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体─ナショナリズムの起源と流行』)、交流に即して喚起される人間の想像力やそれに伴って生まれる心意伝承こそが、共同体間、国家、民族間の対応を左右することになる。

 むろん、想像力や心意伝承は人々の緊張感・恐怖心を呼び起こすものだけでなく、時に人々の心を深くつなぎとめることもある。そうした例を交流の歴史の中から一つ挙げておこう。それは、江戸時代に唯一対等に国書を交わした隣国朝鮮との間で行われた朝鮮通信使行である。

 江戸時代には十二回ほど朝鮮通信使の来日があった。その第十一回目の宝暦十四年(明和元/一七六四年)の使行(いわゆる*宝暦使行)は、朝鮮通信使行中、とりわけ重要な問題を日朝内外に提起した。一般的に使行における日朝文士の交流は、筆談や手紙における詩文の交換に依ったが、この十一回目の宝暦使行では江戸からの帰途大坂において、使行員(都訓導)の崔天宗が対馬の伝語官・鈴木伝蔵に殺害されるという一大事件が勃発したため、日朝文士の間で詩以外にもさまざまな文章が筆談・手紙などによって交わされる結果となった。またこの事件処理のために朝鮮使節は一ケ月もの間、大坂に滞留を余儀なくされ、結果的により多くの日朝文士の詩文・記録等が遺されもした。

 それらの交換された詩文を見ると、驚くことに、崔天宗殺害という外交上の大事件が勃発したにも関わらず、文士同士の相互信頼に裏打ちされた交流が終始行われていた。この背景には日朝文士間の詩文の才能への信頼があったと考えられる。中国を中心にした漢文文化圏(金文京『漢文と東アジア─訓読の文化圏』)の知識人の一員として、相互の才能を認め合う文学上の交流回路が開かれていたからである。

 翻って、現代の政治家による国益を振りかざしての国家間の衝突を見る時に、もはやこうした文学的・文化的交流の回路が失われてしまったことに気付く。今の政治家に文学・文化的交流を求めるのは無理だとしても、そうした回路を担保しておく必要があることを、この朝鮮通信使行は我々に教えてくれている。と同時に、表面化しない交流の多寡こそが、交流の強度に深く関わることも、である(なお、この朝鮮通信使行については、本巻第一部「東アジアの往還」における高橋博巳の論文、鄭敬珍のコラムを参照されたい)。
*この十一回目の使行についてはさまざまな呼称が行われているが、一七六四年は六月に宝暦より明和に改元されている。六月は朝鮮通信使が帰国した後であり、その帰国を待って改元されたと考えられることから、宝暦使行と呼んでおく。

6 本巻の各テーマについて(一)
 こうした表面化しないものまでを含めた、東アジアの交流の実態を浮かび上がらせるために、本東アジア文化講座の第一巻では、「東アジアの文学と異文化交流」というテーマを設定し、さらに内容を「東アジアの往還」「海域と伝承」「島嶼の文化」「交易と文化」「東アジアの聖地」の五つに分けた。

 まず「東アジアの往還」。東アジアには中国が冊封体制(中国の皇帝と周辺諸国の支配者の間に君臣関係を結ぶ国際秩序)があったために、中国と周辺諸国にはさまざまな「往還」があった。しかし実際には、中国以外の支配者同士、またその支配者の周辺との「往還」がさまざまにあり、それが多様な文化の駘蕩を生んでいた。よく知るところでは、朝鮮と日本との間の朝鮮通信使であり、日本と琉球の慶賀使・謝恩使であった。こうした言わばヨコやヨコに近い関係は、中国との冊封というタテ関係とは質の違った文化交流を生みだしていた。また、そうした正式な交流とは別に「渡海」や「漂流」といった私的な交流も盛んに行われた。とくに表向きには「漂流」と称する密貿易があったように(江戸時代中期の唐船によるものが有名)、支配層以外の「往還」も東アジアではきわめて盛んであった。また、この亜周辺の「往還」は当然、東アジア以外との「往還」につながり、大航海時代におけるヨーロッパ諸国との交易、キリスト教とのつながりは、その象徴的事象であった。

 次の「海域と伝承」であるが、これも周辺や亜周辺、そして海域を考える際にきわめて重要な視点である。十九世紀の近代に至るまで、東アジアの海域は人知の及ばぬ場所であった。それゆえに神怪の領域であり伝承の宝庫であった。この海域は亜周辺であるために、他の亜周辺の海域と深く結び付くこともあった。たとえば、中国で生まれた航海神媽祖への信仰が、南はベトナムから北は日本の東北地方まで、国家・民族を越えてつながっていたことは良く知られているが、媽祖を観音信仰の一体だと考えれば、それはベトナムを越えてインドシナ、さらにはインドの世界につながってゆく。観音はきわめて広範囲にわたる航海神であると同時に、東アジアと南アジアをつなぐ世界神(世界宗教)でもあったことになる。亜周辺と他の亜周辺がどうつながっていたのかを考える時に、この観音を代表とする海域の伝承はきわめて重要な視点となる。

 次の「島嶼の文化」であるが、海域を第一に象徴するのは半島と島である。とくに島は半島や陸とは全く違った文化の発展や交流の現象が見られる。よく知られたことだが、九州の南、大隅諸島から奄美、沖縄、そして八重山諸島までの群島で、隣接する島々でも文化・風俗が大きく違うことが指摘されている。こうした群島の交流は、それぞれに独特なものがあり一様ではない。また、琉球と朝鮮の済州島に活発な交流のあったことが昨今指摘され始めており、遠方との類似、隣接との相違・隔絶と、島嶼の文化交流の多様性は、実に興味深いのである。これを一つ一つ明らかにしてゆくことが、亜周辺の文化の特色を解明する上できわめて重要である。

7 本巻の各テーマについて(二)
 次の「交易と文化」は海域や亜周辺の文化を考える上で、最もアップツーデイトな問題であろう。なぜならば、交易は最も古くて最も新しい問題であるからだ。この海域や亜周辺が古くから交流・交易の盛んな世界であったことは前にも述べた通りだが、東アジアで大航海時代にいち早く結びついたのも、この海域・亜周辺であった。文献などには残っていないが、恐らくこの海域・亜周辺は、古くから世界の海域・亜周辺と結び付いていたと考えて間違いない。一方、現代においても、この問題は重要な意味を持ち続けている。その第一は、私も拙論「経済小説の胎動と東アジアの交易」の最後で少し触れたように、東アジアの資本制(資本主義)が日本とその周辺の海域、すなわち東アジアの海域・亜周辺から立ち上がり、欧米諸国の資本制に対峙していった点である。

 これは従来ともすると、日本が海域・亜周辺の雄であったと夜郎自大的に言挙げされることがあるが、そうした方向のみに海域・亜周辺発展の原因を帰一させてはならない。その日本も含んだ海域、ベトナム・中国海岸部・朝鮮半島南部・島嶼部など、すなわち媽祖の信仰域において重商主義が培われたことが何よりも重要だからである。そして、それは日本の江戸期の解禁・鎖国という言わば熟成期間を経由することで、明治期以降の近代に花開いたと考えるべきだからである。

 最後の「東アジアの聖地」は、聖地とのみ言うより、聖地巡礼と言った方が良いかも知れない。聖地とは万人にとっての聖なる地ではない。イスラム教のメッカしかり、キリスト教その他のエルサレムしかり、信奉する者たちにとってのみの聖なる地である(日本の秋葉原がオタク[特定の趣味を持った人及びその集団]の聖地と言われるのも同じ原理である)。重要なのは、その聖地もさることながら、その聖地への巡礼によって、さまざまな人やモノの移動と相互交流が起きるからである。

 たとえば、十七世紀前半の寛永九年(一六三二)に、現カンボジアのアンコール・ワットを日本の熊本藩の武士、森本右近太夫が参拝している。森本がこんな遠くまで行ったのは、父母の作善(仏縁を結ぶための善行)のためであったが、そのことが分かるのは、森本がアンコール・ワットの十字回廊(第一回廊と第二回廊の間)の柱に、その旨の落書き(墨書)を残しているからである。ところが、アンコール・ワットは言うまでもなくヒンズー教の寺院である。ではなぜ森本がそこで仏縁を結ぼうとしたのか。それは森本がこのアンコール・ワットを仏教の祇園精舎と間違えて認識していたからである。実は、日本にこの森本が作ったとおぼしき祇園精舎の図が伝わっていて、その伽藍配置が完全にアンコール・ワットと重なるのである。そしてさらに、このアンコール・ワットの遺跡には日本人の落書きが十数例も発見されている。つまり、アンコール・ワットは江戸時代の日本人にとって祇園精舎であり、聖地であったのだ。現地に多くの日本人が行っていながら、なぜその齟齬に気付かなかったのか不思議だが、この聖地への旅の途次、ベトナム中部にホイアンなる港町があり、そこには日本人町があった。このホイアンを始めとする日本人町は、そうした日本人たちの巡礼や交易の中継地として栄えた。

 こうした日本人町は十七世紀の初頭、朱印船の交易・交流によって東アジアの海域全般に広がっていたことがすでに指摘されて久しい。しかし、その実態がどのようなものであったのかはまだ不分明である。その一端を解明するものとして、この森本右近太夫のアンコール・ワット巡礼は重要な視点を提供してくれる。
 いずれにしても、こうした聖地とその聖地への巡礼が、さまざまな交流や交易を生んだことは間違いなく、またその過程は交流史・交易史として実に興味深いのである。

8 おわりに
 「はじめに交流ありき」で述べたことと重なるが、人は「文化」と「交流」を考える時に、どうしても最初に「文化」を設定し、その後に「交流」を考えてしまう。すなわち、個々に確固とした「文化」があり、それが後に「交流」を重ねることによって、「文化」が発展あるいは衰退してゆくという発想である。しかし、「はじめに交流ありき」はその逆で、まず「交流」「関係」を設定する。その「交流」「関係」という中から多くのものが生みだされてゆくという発想である。むろん「文化」の固有性を認めないわけではないが、「文化」を先にする発想からは、国家・民族の独我論に陥ってしまう危険性があることに加えて、本巻で主に取り扱った海域や亜周辺への理解は乏しいものにならざるを得ない。

 今、個別の地域を越えた「世界史」への理解が求められている。経済や政治を中心にグローバル化した社会が、そのグローバル化そのものも含めて、さまざまな問題を生むようになったからである。その「世界史」を考える上で、本巻で取り上げた海域や亜周辺はきわめて重要な歴史である。こうした海域・亜周辺を中心に据えた世界史、世界の文化史を再構築することが、今何よりも求められているのである。