第四回 計算を"する"から、電子計算機を"使う"へ●【連載】計算の歴史学とジェンダー―誰が計算をしていたのか?(前山和喜)

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第四回 計算を"する"から、電子計算機を"使う"へ

前山和喜

▶日本における計算労働の略史

日本史上で計算を専門とする人の存在が明確にわかるのは8世紀である。養老令によると数学的知識[*1]を持った官人を養成するため、大学寮に算道[*2]と呼ばれるコースが設置されていた。江戸時代になると多くの市民が寺子屋でそろばんを学ぶため、計算を専門とする人でなくても生活に必要な計算は自分で行うことができるようになる。明治維新を迎えると、殖産興業政策による産業の発展や、保険会社や銀行の設立によって、より大規模な計算の需要が高まっていく。19世紀も終わりに近づくと、計算をするための種々の高度な機械装置が開発されるようにもなる[*3]。このような計算需要とその労働の史的展開は日本に限った話ではないが、教育や経済など社会的な側面の影響を強く受けつつ発展していく。

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図1.珠算,暗算,加法計算器の能率比較(米沢恒雄『珠算諳算独習座右』経峯社、1926年、p.279、https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/914006/140


算盤を独学で勉強するために使われていたと思われる1926年の出版物(図1)を見ると、計算器[*4]で計算した場合よりも、諳算(暗算のこと)や算盤を使った読上珠算・見取珠算の方が効率的に計算を行うことが出来ている。しかしここで、計算器の場合は特殊技能をほとんど必要としないが、暗算や算盤を使う場合は掛け算九九(人によっては割り算九九まで)を暗記している必要があることに注意しなければならない。言い換えれば、一口に計算労働といってもその内実には多様な行為が発生しており、単純な速度比較はできない。計算労働のうちのどの部分を機械化しているのかは、計算の歴史学において重要な視点になる。加えて、日本における計算労働は、リテラシー教育の恵沢のもとに発展してきた点にも留意が必要である。

▶計算行為の機械化:計算行為≠計算

さて、上記の暗算と計算機器との差には、もう1つ重要な「計算行為≠計算」という論点がある。計算行為には、いわゆる四則演算的な「計算」だけでなく、「数字を読み取る(聞き取る)」、「数字を入力する」、「答えを記す」といった付随する作業も必要であるという点だ。人間の計算が速くとも、単純な書き間違えや疲れによる速度の低下があれば、計算行為の精度は上がらない。計算行為が機械化する背景には、このような入出力のミスを減らしたいという事情も大きかったのである[*5]。言ってしまえば、膨大な計算量は人海戦術によってなんとか処理できたとしても、計算におけるヒューマンエラーを減らすためにはどうしても機械化が必要だったということであろう。

このように膨大な計算をこなすだけでなく、それをミスなくこなすために、計算現場にコンピューターが導入されたが、それらの機械は、計算行為にさらなる分業化ももたらした。一人の力では扱えない膨大な計算需要を「組織(システム)」の力で立ち向かう際、数字の読み取りやデータの生成などは人間が、計算結果の書き出しや単純な演算の繰り返しなどは機械が担い、その効率を上げるために計算労働の細分化を行なったのである。その一翼を担っていたのが第二回でも取り上げたキーパンチャーである。

このように語ると、キーパンチャーは、四則演算的な「計算」ではなく、機械が計算するために付随する周縁的な業務を担っていたため、計算労働から切り離され、むしろタイピスト寄りの打鍵作業を行う職業と言えるのではないか?という指摘を受ける。確かに、行為としての打鍵(キーパンチ)だけで言えば間違っていない。しかし、キーパンチャーが生みだす実りは、社会の情報が機械によって計算可能なデータに変換されるところにある。生成されたデジタル(数値)データは計算機器によって処理されることで、客観的な計算結果として社会に還元されていくのであり[*6]、むしろ当時の計算機利用には欠かせない労働と言える。もちろんこれは、センサー技術の発展やオートメーション化によって、計算労働の中心からは追いやられていくため、"今ではその実りが見えづらくなってしまっている"だけではないだろうか。

▶日本女子経済短期大学と電子計算機

では、機械の導入による計算労働の分業化を、その人材養成を担う教育の現場はどのように受け止めたのであろうか。今回は戦前から算盤教育も行っていた日本女子経済短期大学(現:嘉悦大学)のシラバスの比較を通じて考察してみたい。

上記の計算労働の略史のなかで、大規模な計算の需要が高まったことを述べたが、それをこなしていたのは主に女性である。逓信省貯金局についての1930年の職業案内には、「ここの仕事は細い計算、記帳であるために、婦人に適してゐることが認められ」ており、本局では1142人の婦人が働いていたと書かれている(図2)。

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図2.逓信省貯金局における婦人事務員についての記述(『現代女子職業読本』經濟知識社、1930年)


働く場が用意された女性の社会進出に伴って、1900年代になると私立の女子教育機関が次々と設立された。これ以前から官立の女子高等師範学校などはあったものの、その卒業生は教員になることが義務付けられていた。私立の学校は官立のような設立目的とは異なる教育を行っていたという点で違いがあり、主に裁縫などの家政(家庭科)を教授する学校が多かった。

そのような中、女子の経済的自立と教育の必要性を実感していた嘉悦孝(かえつ・たか)は、経済観念を養うことを重視し、1903年「私立女子商業学校」を設立した。同校では、「ミシン使用練習」や「小児洋服裁縫方」などの家政に加えて、「タイプライター器機使用法」や「(英語)速記術」、「商業学・簿記学」など、商工業への就職に向けた実践的な教育を行っていた。『嘉悦学園のあゆみ 九十周年を迎えて』[*7]には「夏季珠算講習会修了式」や校内の「珠算競技会」と題した写真が掲載されており、算盤を用いた計算スキルを高めていたことがわかる。戦時中は、航空機部品の製造工場への動員や、校内で内閣統計局職員監督のもとに人口調査集計事務も行っていたようである[*8]。

戦後、短期大学設置基準が定められると、「日本女子経済短期大学」として認可を受けた(現在は嘉悦大学)。日本女子経済短期大学は、いち早く電子計算機を導入し、1970年に「経営情報コース」を設置した。1970年度のシラバス(図3)を見ると、「電子計算機実習(一,二)」、「電子計算機応用」などコンピューターそのものに関する講義から、より基礎的な原理としての「エレクトロニクス」、より実社会的な「経営情報特論(一,二)」まで、多層的な授業が展開されていることを確認できる[*9]。

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図3.経営情報コースのシラバス(1970年)(日本女子経済短期大学 昭和45年の学生便覧より)


一方で従来から続いている「商コース」と「経営コース」で必修になっている「珠算」という授業の概要には

日本の永い歴史と伝統をもつ珠算は,経済界は勿論,一般社会竝に家庭に於ても,各種計算機と共存して尚,高い必要性を有するものであるから,計算の技術に習熟し,計算事務を能率的に処理する能力と,高度の計数観念の養成を期するものである。

と書かれている。このころから事務労働における計算行為のための計算リテラシーは、計算ができることよりも、計算機利用や「計数観念(これはその後「情報リテラシー」のような言葉で語られるデータを利活用する能力)」と結びついていくようになる。

1950年代半ばに先進的な現場で始まっていた計算労働の機械化は、1970年ごろになるとそれが一般的になる[*10]。計算労働の中心はそれを支えるために、計算を"する"から電子計算機を"使う"へと変容しており、ここに新しいコンピューター時代の専門性が見出されていくのである。以下の画像は、『学習コンピュータ』の創刊号に掲載されていた日本女子経済短期大学の宣伝広告であり、ここには「Specialist の貴女を作ります」と書かれている(図4)。このSpecialistは、従来的な女性事務員ではなくコンピューター時代の担い手のことであるといえよう。

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図4.日本女子経済短期大学の広告「Specialistの貴女をつくります」(『学習コンピュータ』第1巻 6月、学習研究社、1970年)

【注】
*1:算盤ではなく算木を用いた計算であったが、教科書として用いられていた中国から伝わった算術書『孫子算経』には、今では「中国式剰余定理」として知られる解法が載っており、四則演算を超えた内容も扱っていた。
*2:算道で学んだ人(算師)については、
・亀田隆之「奈良時代の算師」『日本古代制度史論』吉川弘文館、1980
・請田正幸「平安初期の算道出身官人」『古代国家の支配と構造』田名網宏編、東京堂出版、1986
・大隅亜希子「算師と八世紀の官人社会」『日本古代の王権と社会』栄原永遠男編、塙書房、2010
などに詳しいが、わかっていないことも多い。
*3:例えば、IBMの前身であるCRT社の基になった企業が創業されたのもこの時期である。
*4:ここでいう加法計算器とは、レジスターのような計算機器のことであると考えられる。朝ドラの「エール」にも出てきていたが、大正期には一部でレジスターは使われていた。一応、筆者が所有しているもっとも古い手回し計算器で計算を試してみたが、ここに記載されている秒数ではとても終わらないため、手回し計算器でないと考える。
*5:チャールズ・バベッジが作ろうとした「階差機関」も、単に自動的に計算をするだけではなく、印字までが組み込まれていたところに重要な意義がある。計算まで正しい数値が出せたとしても、印刷工が活字を間違えてしまうことによる計算間違えも多かったようである。
*6:数値データが社会にどのように受容されてきたか、されてゆくかについては、議論の余地は多分にある.欧米圏の事例を比較した先行研究として、セオドア・M・ポーター著、藤垣裕子訳『数値と客観性 ―科学と社会における信頼の獲得』みすず書房、2013がある(なお2020年にはこの原著の新版が刊行されている。https://press.princeton.edu/books/paperback/9780691208411/trust-in-numbers)。
*7:嘉悦学園90年史編纂委員会『嘉悦学園のあゆみ 九十周年を迎えて』1993
*8:前掲書、p.99
*9:嘉悦大学に残されている「昭和45年度 講義概要」によって講義の内容も確認することができる。
*10:1950年代の取り組みの一例。トヨタ自動車「電子計算機の導入」『75年史 文章で読む75年の歩み』第1部、第2章、第7節、第7項
https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/taking_on_the_automotive_business/chapter2/section7/item7.html

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