epilogue 人文学の将来(下田正弘)を全文公開★下田正弘・永﨑研宣編『デジタル学術空間の作り方 仏教学から提起する次世代人文学のモデル』(文学通信)
Tweet間もなく刊行する、下田正弘・永﨑研宣編『デジタル学術空間の作り方 仏教学から提起する次世代人文学のモデル』(文学通信)より、epilogue 人文学の将来(下田正弘)を全文公開いたします。ぜひお読み頂ければと思います。
なお最後に書いてあるように、本書は、文学通信webサイトにて、全編PDF公開いたします(12/18予定(18日以降に公開します)→ https://bungaku-report.com/sat.html)。お楽しみに!
また、以下の詳細ページの立ち読みでは、prologue 情報通信革命と人文学の課題(下田正弘)も全部読めます!
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●2019.12月刊行
下田正弘・永崎研宣編『デジタル学術空間の作り方 仏教学から提起する次世代人文学のモデル』(文学通信)
ISBN978-4-909658-19-7 C0004
A5判・並製・360頁
定価:本体2,800円(税別)
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epilogue
人文学の将来
下田正弘
1.ある仏教思想研究者の批判から
今から7年前(2012年)、日本印度学仏教学会の学術大会において、「仏教学はなにをめざすのか」というテーマのパネルディスカッションが催されたことがあった。パネリストのひとりとして参加した筆者は、SAT大蔵経テキストデータベースの現状と意義について発表をした。それに対して、仏教思想研究者を自負する70歳代半ば(当時)のひとりのパネリストが、「膨大なテキストデータベースをつくって安易にことばを検索できるような事業に精力をかけるなどもってのほか。皮相的な思想ばかりがはびこってしまう。私たちはただ一つのテキストに向きあい、ただ一本のペンによって思想を書きあげてゆくべきだ」と、強い口調で批判された。「いや、ただ一つのテキストの解釈に携わり、ただ一本のペンによっても、皮相的な思想はこれまでいくらも書かれてきました。研究が皮相的になるとすれば、それはデータベースの問題ではなく、個人の姿勢や資質の問題です」と、即座に反論をしたくなったものの、ことばを呑みこんだ。というのも、この批判は、あらたな媒体に対する無理解、むしろ拒否感から生まれていて、その意識の起源を明らかにしなければ意味がない。それには、持ち時間がとても足りなかったからである。
表現と認識とを成立させるあらたな媒体空間が現れるとき、新旧二つの空間の理解をめぐって、人類はこれまで立ち往生してきた。もっとも顕著な例は、声の空間oralityに密接に関係をしながら、しかしそこから独立して文字の空間literacyが出現したできごとである。声が文字に先んずるという、現象の素朴なレベルの観察にもとづく強いおもいなしが、プラトン以降、西洋形而上学の閉域を構成し、意識に現前する真なる実在という哲学の中心理念を支えてきた。これに対する反省的批判が、19世紀後半、ポストモダニズムの流れにおいてなされるまでに、膨大な時間がかかっている。この事態を踏まえるなら、紙をはじめとするモノのもつ物理的制約を超え、文字や画像が自由に遊動するデジタル空間について、人類がその性状を十分に分析して理解し、自家薬籠中のものとするまでには、かなりの時間が必要になるだろう。
文字の空間は声の空間を締め出したわけではない。両者は独立した表現と認識の媒体空間として、現に共存している。同様に、デジタル媒体への研究基盤の移行は、紙やモノという媒体において進められてきた人文学との決別を意味するのではない。二つの異なる媒体空間に出現する知がたがいに照合されることによって、媒体の相違を超えて実現される人文学の知の、より深い次元におけるはたらきが見えてくる。グラマトロジーが声の媒体空間に潜む問題を顕在化させると同時にその意義をも鮮明にしたように、デジタルの学知は紙やモノの媒体に潜む問題を明らかにするとともに、その固有の意義を明確にする。それを通し、これら二つの空間は、より明瞭な関係のもとに置かれ、共存し始めるにちがいない。
2.人文学の使命
デジタル学術空間の形成は、日本の人文学の一部の領域において、ようやく始まったばかりである。この現状にあって、人文学の多くの研究者は、いまなにが起こっているのかよくわからないというのが正直なところだろう。むしろ上に述べた「仏教思想研究者」の例のように、デジタル化への動きが人文学ほんらいの意義を損なうものであるかのような想念に囚われている場合も少なくないように見える。けれども、あらたな媒体空間の出現は、人間の認識の歴史的深化の結果として起きており、それ自身が、認識行為の一環であり、プロセスでもある。つまり、あらたに出現しつつあるデジタル媒体空間を否定することは、人間の知の、歴史における運動を否定するにひとしい。
対象についてのいかなる認識も、認識と対象とを同時に成立させる媒体において形成されている。現実においてこの媒体は、身体を代替する技術を通して現れてくる。デジタル学術空間において、この技術は、情報工学の影響下にある言語によって構成されているため、これまでの人文学にはなじみがない。けれども、その技術に習熟することは、声の文化に育ったものが文字に習熟することと質的になんら違いはなく、究極的には「慣れ」の問題として解決されるべきものである。いま人類は、3、4歳から文字を習得する。第二の文字となるだろう情報技術の習得も、同様に低年齢化するだろう。その勢いと速度とは、予想を超えているかもしれない。
とはいえ、生きてゆくためにことばを使えるようにすることは、社会における教育一般のもつ役割であって、人文学に求められる固有の役割ではない。人文学の使命は、無意識にことばが使われることによって無反省に世界が構成されてゆく、その過程を反省的に照らし出し、そこに潜む問題を明らかにするところにある。同様に、デジタル媒体空間における次世代の人文学は、デジタル技術を使い、あらたな世界を生きる力をつけさせることに終始するのではない。やがて無意識化するだろう、その活動を外から反省的に分析し、問い返すところにまで進まなければならない。
ことばが構成する概念や事態を分析する力を発揮し世界を解明してきた人文学には、今後、情報通信技術が構成する概念や事態を分析する学問へと、あらたに成長を遂げることが期待されている。言語活動を批判するためには言語が習得されなければならないように、技術を批判するためには、技術を習得する段階を経なければならない。しかるに、声から文字へ、文字からデジタルへ、という歴史における展開は、言語が自身のより遠くの外へと向かい、そこから自身へと還帰する運動である。それは、振幅に相違があるものの、人文学が長い歴史のなかで寄り添ってきた運動にほかならない。
本書は、科研費基盤研究(S)「仏教学新知識基盤の構築─次世代人文学の先進的モデルの提示(研究代表者:下田正弘 課題番号:15H05725)」(2015―2018年)の成果報告として企図されたものである。
本書を生み出す母胎となったSAT-DBは、SAT研究会のメンバーと300人近い協力者のほかに、じつに多くのひとびとの献身的な力によって、研究、財政、制度、さまざまな側面から支えられてきた。ご支援をいただいた組織として、一般財団法人仏教学術振興会とその内部組織である大蔵経データベース化支援募金会、一般財団法人人文情報学研究所、公益財団法人全日本仏教会、公益財団法人仏教伝道協会、大蔵経研究推進会議とそのメンバーである日本印度学仏教学会および日本仏教学会、さらに文部科学省、日本学術振興会がある。これに加え、SAT-DBが大正新脩大蔵経や嘉興蔵をはじめとする多くの貴重な資料を活用しえているのは、株式会社大蔵出版、東京大学附属図書館、京都大学附属図書館等、文化保存に関わる企業や大学によるご理解のゆえである。
こうした組織を通して現れてきた力は、その組織を導き支える、ひとり一人の力の賜物である。その数はあまりに多く、ここに個人名を尽くすることはとうていできない*1。 ただ、そのなかで、三人のお名前のみは、ここに特に記しておきたい。それは、SAT研究会の設立者であり初代代表であった江島恵教先生(東大名誉教授)、一般財団法人仏教学術振興会の理事長を務められた高崎直道先生(東大名誉教授)、そして大蔵経データベース化支援募金会事務局長を務められた奈良康明先生(駒澤大学名誉教授)である。いずれもすでに鬼籍に入られた三人の先生のお力がなければ、SAT-DBはいまのかたちで存在していなかったか、そもそもその存在そのものがなかっただろう。
最後に、本書は、文学通信の社長岡田圭介氏の深いご理解によって、デジタル学術空間の形成にとってきわめて重要な要件となる、オープンアクセスのPDFとしても配布されることになった。出版社にこのあたらしい理解が生まれることは、次世代の人文学の発展にとって欠かせない力である。同出版社編集部の西内友美氏には、出版間際まで手の加わるゲラにていねいに対応いただいた。SAT-DBの活動を、日本における初めの著書として出版しえたのは、お二人の力によるところが大きい。ここに記して謝意を表したい。
注
1 SAT-DB作成の協力者のお名前は、SAT大蔵経テキストデータベースのウェブサイト(http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/members.html)に、SATへの寄付者のお名前は、大蔵経データベース化支援募金会のウェブサイト(http://butsugakushin.org/sat-shienbokin_2/meibo.html)に、それぞれ一覧として掲載している。