俳文学会第453回東京研究例会 第32回テーマ研究「俳文について考える」(2019年12月21日(土)、聖心女子大学)

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研究会情報です。

●公式サイトはこちら
http://haibuntokyo.cside.com/prg/inf7.cgi

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第32回テーマ研究  「俳文について考える」  
                                

●講演  狂文の骨法―俳文への意識と差異化      法政大学教授 小林 ふみ子 氏   
                  
【要旨】
 江戸狂歌における狂文の流れを作った大田南畝が俳文を強く意識していたことは、たびたび論じられてきた。若き日に『鶉衣』の文章に感銘を受けてその出版を手がけたことに始まり、歴代の俳文集同様に漢文の文体の規範に則して種々の文章を書いたことは、南畝の狂文集『四方のあか』(天明8年頃刊)所収の諸作にみてとれる。さらに同集に収められる「月見のことば」「おなじく俳諧文 風俗文選の体にならふ」があることを捉えて、両者の質の相違を論じることが、濱田義一郎・堀切実両氏によってなされてきた。
 本発表では、この狂文集編纂に用いられた稿本『かたつぶり』に注目し、その差異を形成する重要な要素として和歌的な修辞法があることを論じたい。同稿では2つの文章のうち前者の題の下に「和文」と注記されるが、これはその文章中でも狂歌を和歌の派生系と位置づける一方で、俳諧とは別の系統と捉えていることと軌を一にしている。それに照らすと、南畝が和歌に由来する修辞法ないしそれを遊戯化したこと、技巧を多用して戯れていることが注目される。『かたつぶり』にみられる他の文章の推敲過程でも修辞を重点的に直していることから、南畝が狂歌狂文を和歌の延長上において、それに由来する技巧で戯れることに狂文の特質をみいだしていたであろうという説を提示したい。
 さらに南畝のそうした修辞重視の姿勢は石川雅望らによって継承された一方で、俳文同様に漢文の文体規範に則るという意識は、他の狂歌師の間では広がりをみせなかったことも併せて示す。


●講演  『宝蔵』覚書 ―俳文史への視座―      九州大学准教授 川平 敏文 氏

【要旨】
 山岡元隣著『宝蔵』(寛文十一年刊)は、机・筆・墨・紙といった文房具から、鋤・機・砧・鍋といった日用の道具類まで七二品、それぞれについて、その徳を讃えた五百字程度の文章に、発句・狂詩を一句(首)ずつ添えたもの。これまで特にその文章部分が、後に芭蕉などによって確立される俳文の先駆けであるとして注目されてきた。
 近年、長坂成行氏の『篠屋宗礀とその周縁』(平成二十九年)によって、元隣は臨済宗妙心寺派の龍安寺霊光院に住した、偏易居士に学んだことが明らかになった。この事実に導かれれば、日常の器物への讃歌という『宝蔵』の趣向を考えるにあたっては、やはり禅の思想、および偈頌からの影響を重視する必要があると思われる。また本作を俳文史へどのように位置づけるかについては、徒然草の文体の影響、長嘯子の和文や蕉門の俳文との接続如何といった問題が考えられよう。これらについて私見を述べてみたい。