畑中千晶「あとがき―若衆、それは寿命を延ばす薬」を期間限定全文公開○染谷智幸・畑中千晶編『全訳 男色大鑑〈歌舞伎若衆編〉』(文学通信)

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間もなく刊行の、染谷智幸・畑中千晶編『全訳 男色大鑑〈歌舞伎若衆編〉』(文学通信)から、原稿を一部紹介していきます。

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本書の詳細はこちらから●2019.10月刊行 予約受け付け中!
文学通信
染谷智幸・畑中千晶編『全訳 男色大鑑〈歌舞伎若衆編〉』(文学通信)
ISBN978-4-909658-04-3 C0095
四六判・並製・242頁(8頁カラー口絵+232頁)
定価:本体1,800円(税別)

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あとがき―若衆、それは寿命を延ばす薬
畑中千晶


 「役者遊びに使う金銀は......寿命を延ばすための薬代」。これは、最終話(巻八の五)に出てくる言葉である。結局のところ、西鶴が本作で最も強調したかったことは、これに尽きるのではないか。現代を生きる我々の中にも、心吸い寄せられた何か─例えば、自分の好きなアーティストやその作品─に時間と金を惜しみなく注ぎ込んでいる者は多い。そうした行為は、ファンでない人には、単なる時間のムダ、あるいは散財にしか見えないだろう。だが、当人にとっては、何ものにも代えがたい至福を手に入れる瞬間であり、身震いするほどの感動が押し寄せて、傷を負った心は慰撫され、全身の細胞が蘇り、時には本当に寿命だって延びるだろう。
 この『男色大鑑〈歌舞伎若衆編〉』で西鶴が捉えようとしているのは、まさにその感覚である。歌舞伎役者にのめりこみ、ほとんど魂を吸い取られた状態。そして、好みを共有する者らとともに過ごす時間の楽しさ。酒を酌み交わし、時には小旅行にまで出かけてしまう。その楽しさを、この書を手にしたあなたとも分かち合いたい......そんな空気が伝わってくる。

役者ファンブックの自主制作
 しかし、ファン心理とは、なかなかに複雑なものである。「公式」(=好きなアーティスト本人)から遠く離れたところに身を置き、「公式」に認識されることなく(もしくは黙認という形でひっそりと存在し)、創作の中だけで熱烈な思いを目一杯表現したい。そんなファン心理も存在する。「公式」が介入してくることを煙たがる心境である。なんと西鶴は、こうした複雑なファン心理についても、作品のなかで採り上げているのだ(巻五の三)。気ままな野宿生活をしつつ、好きな役者のファンブック(しかも全四巻の大作、この歌舞伎若衆編に匹敵する分量)を自主製作していた男と、その役者本人との、ある種の「対決」が描かれていく。「公式」が「突撃」していった先に、どのような結末が待っているのか。それはぜひこの話を読んで確かめていただきたい。

敏腕プロデューサー
 では、そうしたファン心理を煽り、商業的な成功を仕掛けていく興行主とは、どのような人なのだろうか。最終話(巻八の五)に登場する大和屋甚兵衛がまさにその代表格である。彼自身、看板役者であり、一座を切り盛りし、西鶴の俳諧の弟子として連句も巻くマルチタレントである。また、女性に非常にモテたことで有名である。この甚兵衛は、次代を担う歌舞伎若衆の育成に尽力していたが、人材発掘は容易ではなかったようだ。少年の外見は、磨き立てればそれなりに美しくなる。しかし、芸と心を磨くのは並大抵のことではない。しかも、せっかく良い若衆を見つけたと思っていても、思いのほか早死にして使いものにならない、などということがある。ちなみに、巻七の三に登場する戸川早之丞(借金苦から自害)は、この大和屋甚兵衛が抱えていた役者である。実に見事な潔い死に様を見せたことで、末永く記憶に刻まれる若衆になったと作中では称賛されているが、甚兵衛の視点で考えるなら、まさに「早死にして使いものにならない」若衆にほかならない。喩えるなら、甚兵衛は、何百人もの美少年アイドルを育成する敏腕プロデューサーといったところか。

役者遊びの世界
 この、欲望渦巻く役者遊びの世界は、実に多くの人々に支えられている。若衆を揚げての宴席に欠かせないのが太鼓持ちだ。座が白けぬよう、次々と笑いの種を提供する。笑いは残酷さと紙一重、時にプライドもズタズタになる。そうした太鼓持ちの悲哀がありありと描かれていく(巻七の一)。また、酔いつぶれても客商売は忘れない茶屋の亭主も印象的だ(巻八の三)。若衆自身もまた、悲哀や苦労をさまざま味わっている。思いやりのない無粋な男に自由にされる悲哀(巻七の一)、年齢を偽って若作りする苦労など(巻七の四)、まさに「歌舞伎若衆あるある」といったところだ。
 では、茶屋に若衆を揚げて遊ぶ大尽客(豪遊する客)は、心の底から満足を得ているのだろうか。実は湯水のごとく金をばらまいても、仮初めの恋の儚さから逃れることはできない。噓の中から真を見極めようと焦るあまり、結局は若衆の手管に踊らされることになる。要するにいずれの立場にいる者も、悲哀や不安、焦りなどに苛まれつつ、それでも見かけだけは派手に、一夜の夢を盛り上げていくというのが、若衆遊びの世界なのである。
 さらに、そうした派手な遊びに一生縁がなく、茶屋の外から若衆に恋焦がれたまま、思いを遂げずに落命する哀れな法師も登場する(巻七の一)。この法師には、死後、魂となって若衆と睦み合うという結末が用意されていて、その切なさが胸を打つ。

熱狂する心と、取り巻く人々
 実は、本作を彩るのは、そうしたファン、役者、プロデューサーだけではない。歌舞伎若衆に魂を吸い取られて、絶命寸前となった我が子や夫に心痛め、その最期の願いをなんとか叶えてやろうと奮闘する家族の姿も、印象深く描き留められている。役者に惚れて衰弱した娘に引き合わせるため、一世一代の大噓をつく、ケチの権化のような無風流な老人(巻五の二)。夫が役者に熱狂するあまり命を落としそうだと茶屋の人々に打ち明け、役者の衣装を譲り受けて、死の床にある夫の手に触れさせる妻の健気さ(巻六の一)。もはや、女である我が身も、妻の座も顧みることなく、若衆に寄せる夫の恋心だけを叶えようとするその姿は、男と男の恋の行方を、固唾を呑んで見守る現代の腐女子に、どこか重なるように見えるというのは、いささか深読みに過ぎるだろうか。
 「推し」という言葉が生まれるよりはるか昔の時代にも、熱狂する心と、それを取り巻く人々の姿は存在した。そこに共感しながらこの歌舞伎若衆編を繙くとき、新たな発見がもたらされるに違いない。

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 『男色大鑑』は、全八巻四十話(武士編四巻二十話、歌舞伎若衆編四巻二十話)で構成されています。武家若衆の話と歌舞伎若衆の話がほぼ同等の分量であること自体に、実は西鶴からの重要なメッセージが隠されていると考えることもできます(これについてはすでに、KADOKAWAの『男色大鑑』解説に記しました)。
 この現代語訳は、『武士編』と『歌舞伎若衆編』で完結です。しかし、まだまだ解き明かしきれずに残った問題点が多いことも確かです。今後、全注釈などに取り組むなかで、それらの問題と向き合っていきたいと考えています。