俳文学会東京研究例会:第478回(2025年5月24日(土)午後2時30分~午後5時、江東区芭蕉記念館会議室)

研究会情報です。
--------------------
俳文学会東京研究例会:第478回
日時:5月24日(土)午後2時30分~午後5時
場所:江東区芭蕉記念館会議室
【研究発表】
○浅井美峰氏「興津宛『宗長連歌自注』に見る連歌学習と享受」
興津宛『宗長連歌自注』は、宗長が自身の句に注を付して興津正信に与えた句集である。これまで興津宛『宗長連歌自注』については、宗長の句集『壁草』・壬生宛・近衛宛『宗長連歌自注』との関係や、成立年次についての考察が行われてきた。小山順子氏による詳細な解題「興津宛『宗長連歌自注』の成立と諸本」(『京都大学蔵貴重連歌資料集』3、2004年、臨川書店)が備わる。しかし、個々の句・注の内容についてはほとんど検討されてこなかった。本発表では、本書の句注が、どのような連歌の理解・学習の補助となり得たか、どのように人々に享受されたかを、注釈内容や奥書から明らかにする。
○樗木宏成氏「美濃派の道統継承問題--二派分裂と再和派のその後--」
本研究は、美濃派分裂の実態をふまえて、架蔵に帰した美濃派の俳論「道のつゞき」の資料的位置付けを行うものである。美濃派は「道統」を組織の長とし、各地の指導者を地方宗匠に据えることで、全国の同門を束ねる俳壇経営を行なった。ゆえに、四世道統・五竹坊以降の美濃派が「以哉派」と「再和派」に分裂した背景には、門下の勢力争いが絡んでいることを、すでに鈴木勝忠氏や堀切実氏が指摘している。
今回取り上げる資料「道のつゞき」は、美濃国大垣で地方宗匠を務めた軽花坊(一七五一~一八一四)が執筆した俳論の写しとなる。軽花坊は、本資料で「正風俳諧の真理を伝える者がいない」と、やや過激な主張を展開する。この背景には、五竹坊以降の美濃派分裂が大きく関係しているものと考えられる。
そこで発表者は、分裂が生じた安永末期頃の美濃派内部の実態を調査したところ、大きく二つのことが確認できた。一つ目は、美濃派の俳人(後藤一青)が書き残した郷土資料「安永日記」にも、先行研究が指摘する「門弟同士の勢力争い」の有様が赤裸々に記録されていることである。二つ目が、再和派の六世道統を継承した佐々木森々庵が『俳諧今者昔(いまはむかし)』を通して、同時期の門弟の俳諧が質的低下を引き起こしていたことを言及する点である。すなわち、人間関係と文芸的な課題を複数抱えた結果が、美濃派の分裂であったものと考えられる。また、軽花坊が所属したと見られる再和派では、五竹坊の孫にあたる子琴への道統継承が早期に実現せず、六世道統が長らく決議されない状況を経験している。ここから、道統継承は分裂後も組織の存続に関わる大きな課題であったことがうかがえる。
以上をふまえたとき、軽花坊にとって友人にあたる左柳(多賀雨岡庵)の七世道統就任を期に、彼が「道のつゞき」を執筆したのは、「正風俳諧の真理」を復興し、五竹坊の孫である子琴へ継承するための下準備であることを考察する。