「はじめに」を公開『なぜ少年は聖剣を手にし、死神は歌い踊るのか ポップカルチャーと神話を読み解く17の方法』

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神戸神話・神話学研究会、植朗子、清川祥恵、南郷晃子編『なぜ少年は聖剣を手にし、死神は歌い踊るのか ポップカルチャーと神話を読み解く17の方法』より「はじめに」を公開します。ぜひご一読ください。

本書の詳細は以下より。
文学通信
神戸神話・神話学研究会、植朗子、清川祥恵、南郷晃子編
『なぜ少年は聖剣を手にし、死神は歌い踊るのか
 ポップカルチャーと神話を読み解く17の方法』(文学通信)
ISBN978-4-86766-066-9 C0070
A5判・並製・288頁
定価:本体1,900円(税別)
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はじめに

 漫画やゲーム、アニメや映画は好きですか? 生活の一部という人も少なくないでしょう。電車の中で、帰宅後一息ついたとき、眠りにつく前、ありとあらゆる場面で私たちは漫画を読み、ゲームをし、アニメや映画を鑑賞しています。この本は、それらを「学問」としてより深く知りたい、考えたいとあなたが思ったときに――ポップカルチャーと神話をめぐる学びの旅に出たいとあなたが思ったそのときに――携えるアイテム、手に取る一冊として作りました。ポップカルチャーや神話について関心がある人はもちろん、レポートや卒論のような少し「真面目」な目的でポップカルチャーや神話、あるいはその両方の関係を考えたいという人に読んでほしいと思っています。

 一冊の本ですが、入り口は一つではありません。十二の章と五つのコラムから成ります。どこから読んでもらってもかまいません。各章には、扱う作品の名前とキーワードを掲げています。各章の冒頭には「アプローチ方法」として、どのような学問的な立場から、あるいはどのような分析視点から、論者が作品にアプローチするのかということを示しています。また扱う作品の概要もまとめています。これらを手がかりに、好きな作品についての章から読んでもよいし、目次を見て気になったキーワードから開くページを決めてもよいでしょう。

 この本が取り上げる作品が多岐にわたることからもわかるように、私たちが日々楽しむ漫画やアニメには「神話」がいろいろな形で取り込まれています。神々の名前が使われていることもあれば、キャラクターとして登場すること、あるいは物語の枠組みに影響を与えていることもあります。けれどもこの本は、その引用元について種明かしをし、正しい神話をレクチャーするものではありません。そもそもポップカルチャーは「正しい」(あるいは「本物の」)神話なるものを「利用」しているのでしょうか。本書においてはこのような「正しい神話」があるという前提に立ちません。ここで重きを置くのは、神話がある地域、ある時代の理想が委ねられる、そのようなものとして存在するということです。時代により社会により異なる形をとる、それもまた、いえ、それこそが神話なのだと考えてみたいのです。

 「正しい」神話があるのではなく、理想としての神話がある、ということがわかりづらいでしょうか? たとえば、太陽神と月の「女神」について考えてみましょう。大地を照らす太陽の力づよさは男性性で、闇夜に浮かぶ月の静謐な光は女性性――いまでもそのような神のイメージを借りた表現を見聞きすることがあります。しかしこのような考え方の根拠としてしばしば用いられる神話の形象は、普遍の「真理」ではありません。ギリシア・ローマ神話におけるアポローンが男神である一方、日本では「元始、女性は実に太陽であった」という言葉が知られています。これは女神であり太陽神とされる天照大神を見据えての言葉で、日本における女性解放運動の象徴的宣言となりました。歴史が示しているように、太陽や月の擬人化においてどのような性が選ばれるのかということは、「本質」ではなく、地域や時代によって異なるのです。神話はそれを語る者や語り継ぐ者によって、つくられ、ときに変えられてきたものです。

 かつて物語を書く・描くことが、特権的な行為として占有されていた時代がありました。聖なる物語は権力――しばしばそれは王や宗教組織でした――の手の内にあり、「正しい」物語とそうでない物語の区別と序列化がなされました。けれども今日、神話はそうした権力の一方的な物語にとどまらず、ポピュラーカルチャー(すなわち、民衆の文化)と切り離せないものになりました。ポピュラーカルチャーにおいて語られる「神話」は、国境さえも飛び越え、軽やかに世界を翔けめぐります。アーサー王の剣や須佐之男命の天叢雲剣のような、選ばれし者の証明としての「聖剣」は、もはやその地域・国の権力の象徴ではなく、たとえば、『スター・ウォーズ』のライトセーバーや『ゼルダの伝説』のマスターソードのように、人格の陶冶という鍛錬の成果として描かれ、あるいは勇者自身の内面性を強調するために剣自身がコミュニケーションをおこなう存在として物語の鍵となることもあります。

 あるいは死神はどうでしょうか。「命の刈り手」として大鎌を振るうかわりに、ポテトチップスを食べているふりをしながら命をうばう命令をくだしてみたり(『DEATH NOTE』。「死神」の名で呼ばれるキャラクターだけでなく、少年もまたその役割を分担しているのがこの物語の新しさでしょう)、カッコいい呪文を唱えて必殺技をきめることもあれば(『BLEACH』)、歌い踊ることもあります(米津玄師『死神』)。

 ポップカルチャーとともに神話を論じるということは、特権性から解放された、もしくは一見解放されたように装っている、今を生きる私たちの理想を託された物語について論じることです。ではこのような現代の「神話」を得た私たちは、より自由に遊ぶことができるのでしょうか。

 物語は読まれると同時に私たちの見る世界を形作るものです。息づきはじめたイメージは、あらたな枠組みを作らずにはいられません。現代の神話も、また人々の欲望を取り込みながら新たな固定観念を生み出していくのです。私たちはこれまでの「神話」から自らの世界を解放するだけでなく、それを語り直し、また新たなイメージを組み立てながら、世界の変化とともに生きているということになるでしょう。

 すべての「現在」は語られた瞬間にはもう「過去」になっています。この「はじめに」がまさに書かれている「いま」と、あなたがこの本を読んでいる「いま」は異なりますが、「神話」を読むことで、それぞれにとっての「いま」という瞬間を再び体験することができます。いろいろな「いま」の神話を具体的に見ていくことで、読者のあなたが生きている「いま」との違い、あるいは共通点を是非見つけてみてください。

 以下に本書を構成する論文とコラムについて、簡単な説明を加えておきます。初めに述べたように各章の冒頭には、「アプローチ方法」と「作品概要」を記しているため、ここでは各章がどのような形でポップカルチャー作品と神話というテーマに取り組んでいるのか、ということに焦点を当てていきます。

【米津玄師「死神」×死神】
 本書は米津玄師の音楽とともにはじまります。米津玄師の歌う「死神」がもとにする落語「死神」は、そもそも日本においては物語体系を持った「神話」ではありません。南郷晃子「米津玄師「死神」考」は異なる地域の物語の切片が日本に届き、ポップカルチャーの中で花開く様を示します。現代における神話は、ポップカルチャーとともに飛び立ち、様々な場所で新たな物語として生まれ直すのです。

【BLEACH×言葉】
 「死神」のイマジネーションの一部は一世を風靡した漫画『BLEACH』のうちにもみられます。川村悠人「死神たちは言葉を振るう――『BLEACH』と古代インドにおける言葉と詠唱」は『BLEACH』とインド神話の共通項を「言葉」に見いだします。「言葉」が武器として戦う力を持つということに焦点をあて、二つの作品を照らし合わせるとき『BLEACH』の読みが深まるだけではなく、インド神話をどのように読み解くのか、その可能性も広がります。ポップカルチャーと神話を相互に照らし合わせることが、双方の理解を深めるのです。

【東方Project×幻想】
 渡勇輝「トポスとしての別世界――「東方Project」の世界観と想像力」は、「東方Project」を題材に本論では唯一ゲームについて扱っています。ただし「ゲームについて」という表現は厳密には正確ではありません。東方Projectは二次創作を通じて広がり続けるプロジェクトで、ポップカルチャーの特性をまさに体現しています。渡はこの広大な幻想世界と平田篤胤を切り結びながら、それが「本来的な神道」を希求する側面があることを鋭く見抜きます。

 【コラム】木下資一「『サマータイムレンダ』の蛭子神――漂着した異形神」は漫画原作をアニメ化した同作品において「蛭子神」が果たす役割を説話研究者らしく丹念に読み解くものです。「異形」のものは、日本文化における神話や伝承を語る上では欠かせない存在であり、それが今日の物語世界を魅力的に彩ります。【コラム】斎藤英喜「魔術師として生きること」は二〇二四年六月現在連載の続く『呪術廻戦』を扱います。谷崎潤一郎、江戸川乱歩、そして『孔雀王』『カルラ、舞う』『陰陽師』と連綿と続く「魔術師」の系譜の先に『呪術廻戦』を置き、この作品における「術」を見通します。そして『呪術廻戦』の「魔術」観は「いざなぎ流」と通うとするのです。

【鬼滅の刃×聖剣】
 植朗子「『鬼滅の刃』炭治郎に継承される「聖剣」――日輪刀と刀鍛冶の物語」は本書のうちで、徹底的に作品を読み解くことに拘った章であるといえます。伝承文学研究において使われてきた「モティーフ」という概念を援用し、各地の神話伝承と引き比べながら『鬼滅の刃』の剣について考察をすすめます。漫画表象の中に現れるものが、神話モティーフとしての一面を持つことはしばしばあります。それを捉え、神話モティーフの意味を考えることが、ストーリーそのものを深く、広く理解することにつながっていきます。

【怪奇漫画×終末】
 横道誠「神話の原初的断片としての怪奇漫画――ジャンル論的考察」は怪奇漫画に分類される作品に神話性を読み取ることを試みます。丹念に整えられる前の「原初的な」神話の断片であると横道が指摘するそれは、通常「神話」として認識される物語世界とは異なるかもしれません。しかし「神話」なるものを捉え直すことで、これまで把握しきれなかったある物語群をひとつのジャンルとして浮かび上がらせる、野心的な試みを行います。

【美少女戦士セーラームーン×ブリコラージュ】
 神話学者としての眼差しとともに、「ブリコラージュ」という概念によって作品理解をすすめるのが、木村武史「美少女戦士セーラームーン――ブリコラージュと神話・宗教・スピリチュアリティ・科学技術」です。ジェンダー論からも注目をあつめる本作品ですが、この章では、あらためて、読者・視聴者がなぜセーラームーンの世界観に惹きつけられるのかということに光を当てます。木村の読みによって、セーラームーンが死と再生、処女性、身体表象という、ともすると難解な要素を軽やかに取り込みブリコラージュする作品であることが浮かび上がります。

 アニメや漫画を扱う章が続きますが、ポピュラーカルチャーとして長い歴史を持つ演劇を忘れてはなりません。【コラム】勝又泰洋「ローマ神話の「母と息子」――『コリオレイナス』にみる蜷川幸雄の階段の利用法」においては、ローマ神話を題材にした蜷川幸雄の舞台演出を鑑賞することができます。立体的な物語世界である演劇において、舞台は単なる空間ではありません。空間は暗喩となるのです。

【葬送のフリーレン×記憶】
 神話から作品を読み解くにあたり、独自の手法をとっているのが三村尚央「「英雄神話」の語り直しとしての『葬送のフリーレン』」です。すなわち、物語形式の発展史というメタな視点から、作品を読み取るのです。「神話」が神や英雄の行為や出来事を語る叙事詩であり、近代小説が個人の内面を語るものであるという、物語形式の展開が『葬送のフリーレン』と重なり合い、読みが深められます。

【坂道のアポロン×音楽】
 上月翔太「ジャズする神々、あるいは友人たち――『坂道のアポロン』におけるにおける神話的イメージの重なり合い」は登場人物、キャラクターに特に焦点を当てます。ギリシア神話の神、そして天使が、主人公の二人にいかに投影されるのか、さらにそこに収斂しきれない、つまりオリジナルな魅力を放つものは何かを論じます。本章は、キャラクターと重ねられる神を、ズレも含めて丹念に追うことで深まる読みがあることをみせます。またセリフの吹き出しや光といった絵の問題にも向き合います。

【君の名は。×彗星】
 鈴村裕輔「映画『君の名は。』に見出す「現代の神話」の可能性」は、『君の名は。』に含まれる「神話らしさ」を解きほぐしていきます。『君の名は。』は、川のモティーフ、記憶の問題、入れ替わる性、そして彗星と、多くの「神話的」フックがあります。本章はそれら散りばめられた「神話らしさ」と向かい合うことで作品の読みを深め、作品理解に神話の知識が有効であることを示します。それは、神話学の照射を期待しながら作品が制作される今日のポップカルチャーをめぐる状況をも明らかにするようです。

【ゴジラ×怪獣】
 庄子大亮「「怪獣」の神話性――『ゴジラ』たちは何を表象するのか」は、ゴジラが現代の側から神話表象へと手を伸ばす、まさにそのような作品であることを前提とします。その上で神話世界における怪物が果たす役割や、作品が取り込む神話が担うものを追求し、ゴジラという存在の意味を掬い取ります。神話を論じることが、作品の読みに説得力と可能性をもたらすことを力強く示す章です。

 このようにみていくと「神話」とポップカルチャーとは非常に親和性の高い、相性の良いものだということが見て取れるでしょう。しかし次の二つのコラムはその相性の良さに私たちが身を委ねる危うさを鋭く指摘します。

 【コラム】平藤喜久子「ポップカルチャーから何を論じるのか」の問題提起は本書全体を俯瞰して行われるものであるでしょう。今日のポップカルチャーは各地の「神話」を取り入れ、いかにも自由に、多様な神を文化資源として利用しようとします。けれども神は文化と切り離すことのできない存在です。平藤は文化を見ぬまま無邪気に神話を利用することに警鐘をならします。【コラム】藤巻和宏「保守×愛国×神話――「美しい国」のポップカルチャー」も「神話」利用が危うさを内包することを問いかけます。神話なるものを無批判に讃え、陶酔することはときに気持ちの良いものです。その快感は、自文化を熱狂的に称え他者を排除する心地よさとごく近くにあることに気が付かねばなりません。

 私たちは、この熱狂に身を投じるのではなく、それを見つめる目を持つ必要があります。そのようにして近代の暴力性、さらにはそれと地続きの今、このときの悲鳴に耳を傾けながらポップカルチャーと神話を論じるのが最後の二章です。

【進撃の巨人×天地創造】
 河野真太郎「国造りと(反)成長の物語――『進撃の巨人』とポスト冷戦の私たち」は、『進撃の巨人』が映し出す「現代」をポスト冷戦という角度から見つめます。神話に、そして『進撃の巨人』に含まれる思わせぶりなモティーフは、私たちにその読み解きを迫るものです。巨人とは何かを問うことは、それが意味することは何かを問うことであり、そして、それを物語に含めるのはいかなることなのかを考える必要性を投げかけるのです。この章の多くは物語に表出されたアレゴリーを読み取ることに割かれます。それは、現代社会との対峙を求めることになるのです。

【ジャガーノート×ポスト・コロニアリズム】
 清川祥恵「暴走する運命――英米近代における
「ジャガーノート」表象」は、この世界がかつて植民地主義(コロニアリズム)の席巻する場であったこと、そして「今」を生きる私たちがその暗部とどう向き合っていくのかを注視します。特定の集団の理想としての神話は、多様な人々に同質な集団となることを強要する植民地主義と切り離すことはできません。本章は欧米が「インドらしい」神として消費してきた「ジャガーノート」が、社会状況の変化ととともに意味合いを変え、自身に問いを返すものとなっていくことを明らかにします。そのようにしてポップカルチャーと神話から今を見据えるのです。

 聖剣の多様な現れや、生き生きとした死神(?)の姿は、古来人間が世界とのかかわりのなかで感じてきたもの、考えていること、そして願いを反映して描かれてきました。つまり、逆に言えば、現代における神話――ポップカルチャーに表出されたモティーフやアレゴリー――を通して、私たちは、「神話とは何か」という根源的な問いに向き合うことができるということです。

 私たちは、いろいろな神話とめぐり逢いながら生きています。空を見上げて神々の生活を夢想してみたり、死の苦しみの向こうに立つ、おそろしい大鎌を持つ「命の刈り手」の姿を幻視してみたりする。その姿は語る人々ごとに様々で、また時代とともに移ろいながら、私たちの日常に潜んでいます。

 夜空に輝く星々を見上げて神話を語ったかつての人々のように、私たちも無限の空間にきらめくポップカルチャーを通して、私たちがどのように世界を理解してきたか/自らが生きる世界として表現しようとしているのかを覗いてみましょう。

神戸神話・神話学研究会

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文学通信
神戸神話・神話学研究会、植朗子、清川祥恵、南郷晃子編
『なぜ少年は聖剣を手にし、死神は歌い踊るのか
 ポップカルチャーと神話を読み解く17の方法』(文学通信)
ISBN978-4-86766-066-9 C0070
A5判・並製・288頁
定価:本体1,900円(税別)